悪意、邪心、嫉み、そねみ、妄想、狂気等は、何から生まれるのか:新

悪意、邪心、嫉み、そねみ、妄想、狂気等は、何から生まれるのか:新福音とポスト・一神教


私は、以前に、女男の違い、多神教一神教の違いの根源に、差異の高貴さと劣弱さを考えたことがある。
 今、否定的な精神の発生原因は、「弱さ」にあると思うのである。あるいは、忍耐力、苦痛を耐える力の欠如にあると思うのである。このような「弱い」心性は、ある現実の事象を身体知覚するときに、反感的になると思うのである。そう、誰でも、痛いという身体知覚をすれば、痛みに対して、否定的になるが、それは、正常である。しかし、ここで問題にしている「弱い」心性による反感は、その基本的な否定性から発して、それが、固定したものであろう。本来、心性には、諸感情があるが、スピノザに倣えば、喜びと悲しみの二つの感情・気持ちに分けられる。ここから言えば、「弱い」心性の反感性とは悲しみが固定した型になっていると言えよう。
 問題なのは、この反感的心性が、事実認識を歪めて、被害妄想になり、他者に攻撃的になることである。つまり、もともと、反感とは、攻撃的感情であり、これが、固着凝固して被害妄想となり、認識誤謬性/攻撃性の型が形成されると考えられる。
 結局、「弱い」心性を進展させたり、「感染」させないような「哲学」が、現代日本、現代世界に必要とされるだろう。この一つとして、スピノザの『エチカ』を私は推薦したい。もう少し、説明すると、この反感性とは、ニーチェが説いた「賎民」のルサンチマン(『道徳の系譜』)やそれを継承したD.H.ロレンスの糾弾するキリスト教徒の自己栄光化とダイレクトにつながるのである。また、ドゥルーズ哲学も基本的には、この路線を継承していると言えよう。
 結局、精神の叡智が必要なのである。精神の「医学」である。叡智医学である。これは、真理と歓喜の精神をもたらすものであり、それは、他者をも潤すものであり、社会を高レベルのものに変容すると考えられるのである。
 そして、不連続的差異論も、この叡智主義を継承しているもので、真理と歓喜を個人や社会にもたらす、言わば、新福音となるだろう。そう、イエスも本来、叡智の会得者、開悟者、見者、「仏陀」、「覚知者」(gnosticus)だと思われるのである。管見では、『トマスの福音書』のイエスが、グノーシスのイエスが、本来のイエスに近いと考えられるのである。キリスト教創始者たちによって、イエスの叡智が、信仰主義に捩じ曲げられたと、考えるべきだと私は思っている。
 もっとも、イエスを神と認めてもいいが、ただし、神は一人ではない。D.H.ロレンスの言葉を想起する。「私はキリスト教会を認めるが、ただし、救世主は一人ではないのだ。」そう、叡智を告げる多数の、多元的な「宗教」があるのであり、唯一の宗教、教会があるのではない。一義的な叡智に対して、多数・複数の「宗教」・「教会」があるのである。この叡智の一義性を、キリスト教、その他の宗教は、超越・絶対的唯一性に捩じ曲げているのである。唯一の神が存するのではなくて、一義性の真理が存するのである。だから、必然的に、ポスト・一神教となるのである。

参考
グノーシス主義
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/evagrius3.html
http://homepage3.nifty.com/mirandaris/gnosis.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official


■弱い心、反感、トラウマ

後で、もう少し検討したいが、ここには、イデア界の欠落があると思われるのである。イデア界とは、差異の共存している場であり、共存的志向性が本来的である。だから、共存的心性、真理知/歓喜が原初的であると考えられる。つまり、不連続的差異の共存・共生・共創の心性として、真理知/歓喜の発生があり、これが、本来の力、メディア界の力・エネルゲイアであると考えられるのである。この本来のあり方(少年・少女)に、逆行しているのが、この反動的な心性である。これは、不合理・非合理な心性であり、きわめて、非効率的である。一神教父権制が、これである。根源的な力能・叡智を排斥・隠蔽しているのである。