差異・特異性の不連続化の意義:絶対的差異である不連続的差異のイデ

差異・特異性の不連続化の意義:絶対的差異である不連続的差異のイデア界の成立


差異・特異性を不連続化することで、差異をメディア/現象境界の連続・同一性の構造から解放することができる。これが、本当のポスト・構造主義ではないだろうか。又、脱構造主義ではないか。問題をはっきりさせよう。
 近代主義の同一性構造に対して、ポスト・モダンは差異を対峙させ、同一性構造の解体を説いた。しかし、問題は単純ではない。なぜなら、差異は同一性へと転化する構造をもっているからである。ここには、言語意識、言語自我の問題があるのである。結局、コギトとは、特異性、単独性の自我とは、言語で思考するのであるから、言語同一性を内在するのである。つまり、コギトにおいて、差異は同一性と結びついているのである。即ち、連続・同一性と結びついた特異性、単独性の差異としてのコギト(/スム)なのである。だから、同一性☯特異的差異である一種不可分一体の関係があるのである。これは、メディア/現象境界構造に相応するだろう。この同一性☯特異的差異(ないし差異)構造、同一性/特異的差異(ないし差異)不可分一体の構造がある限り、特異性・差異は同一性へと結びつくのである。おそらく、これが大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入の原因ではないだろうか。差異、ポストモダンリバタリアニズムは、同一性かして、全体主義、権力化、中央集権化すると考えられる。「ヤハウェ」化とも言える。
 同一性構造化である。これはルサンチマンをもつ。悪魔化である。又、単に同一性化ではなくて、死のエネルギーをもった同一性化であることだ。これは、凶猛である。もっとも、凶暴である。ルサンチマン+死のエネルギーである。死のエネルギーは、言わば、無へのエネルギーである。イデア界回帰のエネルギーである。現象界を解体するエネルギーである。つまり、ポストモダン事象において、差異・特異性は引き裂かれるのである。+のエネルギーである同一性志向と− エネルギーの脱同一性・脱構造の志向とが、正に分裂するのである。ここには、おそるべき分裂が発生する。はっきり言って、カオスが発生しているのだ。また、狂気とも言えよう。これは、デリダ的様相だ。あるいは、絶対矛盾的自己不同一だ。「精神分裂症」状態である。
 そう、ここにこそ、原理主義の発生原因がある。一方では、超越性を志向する(イデア界を志向する)、他方では、同一性の志向がある。両者合わせて、一神教、超越神信仰が蘇ることが考えられる。正に、アイロニカルな没入である。ホリエモン時価総額主義も、一神教のヴァリエーションと考えられるだろう。
 以上が《ポストモダン》の様相である。ここで、差異・特異性の不連続化の絶対的に決定的な意義がある。即ち、連続・同一性をもたらすメディア/現象境界の同一性構造と結びついていた差異・特異性が、それから(そこから)絶対的に分離する。そして、それが、不連続的差異として、理念化される。それ以前は、差異・特異性・単独性は、同一性を帯びていて、絶対的には、理念(イデア)化していなかった。絶対的差異にはなっていなかった。つまり、差異・特異性が半イデア半現象の様相であったのである。
 しかし、差異・特異性の不連続化により、差異・特異性・単独性は絶対的な差異である理念・イデアになったのである。即ち、不連続的差異のイデア界が明確に理論化されたのである。それまで、あいまいに、不分明に、超越論性と現象界性との両義性において揺れ動いていたのであったが、それが、克服・超克されたのである。換言すれば、メディア界とイデア界の絶対的分離であり、又、イデア界、メディア界、現象界の三層・三元性の明晰な確立である。差異・特異性・単独性は、同一性から絶対的に脱したのである。理念・イデアとして、同一性、言語同一性から脱却したのである。これこそ、真のポストモダンである。脱同一性構造である。これは、結局、交換価値の同一性構造をもつ資本主義(金融資本主義)からの脱出、脱資本主義を意味するだろう。不連続的差異として、差異・特異性・単独性が直立共立する経済が志向されるだろう。差異直立共立資本経済である。