プラトニック・シナジー理論講座(旧不連続的差異論講座)  このページをアンテナに追加

2006-04-18 差異の共立とは何か:東西文明統一と新コスモス超文明/新ヘレニズム

差異の共立とは何か:東西文明統一と新コスモス超文明/新ヘレニズムの誕生


次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

人間存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。

 toxandria氏の論考《『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060414/p1

を受けて、西洋文化における視覚優位性に対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べているのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデアメディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデアメディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。

 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤキリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 

 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に、既に、《距離》が生じていたわけである。この透き間、間隙を消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。

 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。

 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》

 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波スペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。

 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。

 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、確認したい。そうすると、量子力学を含めてポストモダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポストモダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポストモダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポストモダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポストモダン理論と同様であったと思われるのである。即ち、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポストモダン理論=パラ・モダントランスモダン理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。

p.s. 西洋文化・文明の視覚優位性の問題を解明しようとしたのであるが、視覚優位性とは、同一性の光の支配性に起因することが結論となったのであるが、では、メディア界の光、イデア界の光とは、やはり、視覚優位になるのかどうかということに、明快に答えてはいない。メディア界の光とは、差異の共立を意味するので、多様な感覚が共振するだろう。共感覚的になるだろう。そして、イデア界の光であるが、それも、一種共感覚的であるが、ここでは、Aは、非A とはならずに、あくまで、Aであり、且つ、非Aを直観するのである。A→非Aである。志向性の世界である。視覚は、触覚へと志向するのである。聴覚は味覚へと志向するのである。そう、メディア界の即非的共立ではなく、絶対的共立、直立的共立がある。一と多の共立でもある。一即多は、メディア界で成立するのである。