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空と,陸と,海と... このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-10-25

こんなに書かない日が続くと・・・

23:57

 ちゃんと生きてます(笑)。

 歳かなあ。50になりました。私、自分の年齢を公表することに抵抗無し。だって、事実だし。ただ、自分で言うのも何ですが、ぱっと見、50には見えない。目の前にいるのは、ずっと歳が変わらない子どもたち。

 50になって考えることはいろいろあるけれど、気楽に生きていくことが何より。

 次は、いつ更新するか分かりませんが、それまでがんばります。

2015-08-28

やる気に火をつける教師

| 18:41

 夏休みが終わり、2学期が始まります。

 今のクラスは、「いっぱつくん」がいっぱい(笑)。過去、こういうクラスは、1回だけ。そのクラスは、最初手こずりましたが、とてもおもしろいクラスになりました。

 担任が単年度になった今の学校で、クラスを作っていくのは、時間を気にしなくてはならなくなりました。クラスの特性をできるだけ早めにつかみ、課題を明らかにして、どんどん手を打って、その中の一つでも子どもたちにヒットすれば、それから先は、子どもたちが自分たちで動き始める、と思っています。

 1学期にヒットしたことを探ろうと、夏休みの個人懇談で親から話を聞きました。予想外に多かったのが、私が朝に話す約5分間の話。

 8時25分に始業して、健康観察と1日の確認。だいたい30分から35分まで、私のおしゃべりの時間。

 その日のトピックをそれなりに考えてはいますが、実は、その場で考えていることがほとんど(汗)。

 最初は、

「この先生、話、長っ」

と思っていた子どもも、6月頃から聞くようになったらしいとは、保護者からの情報。

 私の朝の話を、家で親に話をしているとのこと。

 中には、それを聞いた昨年担任していた弟が「そうそう」と相づちを打ちながら、私の話で盛り上がるとのこと。

 おしゃべりも役に立つものです(笑)。

 子どもたちに話をするということ。

 子どもたちは、話を聞きたがっていると思います。自分が知らないことを聞きたがっている。

 だからといって、話すことは何でもいいかというと、そんなことはない。つまらない話は、眠たくなる(笑)。

 言葉が相手に届くためには、相手のニーズにヒットするかどうか。

 楽しくなりたい。

 笑いたい。

 より深く知りたい。より深く考えたい。

 良くないことを良くしたい。

 大人も一緒。興味を持つことを話してもらったら、時間を忘れて聞き入る。

 「いっぱつくん」は、こんな話を、聞くのも話すのも大好き(笑)。

 今を変えたい、もっと良くしたいと思うエネルギーが、ものすごく高い。そこを刺激してあげる。

 知的好奇心

 満たしてあげられているかなあ。

 教師が子どもの学習を準備しすぎると、子どもたちは考えなくなる。ただ、その課題をこなすだけ。しかも、教師が求めるパフォーマンスを忠実に行えるようになる。しかし、自分で考えてごらんというと、動けない。

 一方、何も準備せず子どもたちに丸投げ、もしくは、子ども(学習者)の実態を無視してマイペースで学習を進めても、それもまた子どもたちはつきあい、何も考えなくなる。

 バランスって、難しい。

 大先輩の先生が教師に必要なことを話していただいたことがあります。

「学校の短い時間の中で子どもたちの力を伸ばそうなんて、難しい。でも、子どもたちに興味を持たせることはできる。教師の仕事は、子どもたちのやる気に火をつけることだよ」

 やる気に火をつける。

 子どもたちが知らない世界を知ると、どんな未来が待っているか、この学習をしたらどんな未来が待っているかを語ること。

 そのためには、教師がどんな話を子どもたちにするか。

 私が、子どもたちが興味を持てる話ができているとするならば、それは、私に教えてくれたみなさんのおかげ。話のネタ元は、その多くが、食育を通じて知り合った皆さんからの情報。

 つながるって、楽しい。

 子どもに火をつけるには、一人ではできない。教師が学校から出て社会とつながること。そこには、子どもたちに伝えたいことが、たくさん広がっていました。

 私自身が、みなさんから火をつけられました。

 学ぶって、楽しい。

 2学期も、朝のおしゃべり、続けます。でも、どんな話を家でしているか、今でもドキドキです(笑)。

親と教師がつながること

| 17:51

 個人懇談をしていて、気づくこと。

 意外と、我が子の事に気づけていない。

 毎日、一緒に生活しているにも関わらず、「えっ、そこ?」と思うようなことも、分かっていないことがある。

 なぜ?

 話を聞くと、子どもの状況を判断する材料が、マスコミ情報であったり、ママ友情報であったりしている。

「この歳になるとできることが、できない」

 一般的と言われている物差しで見てしまう。子どもそれぞれ、発達のスピードが違い、得意不得意があることに、気づけない。

「小学校に入る前から勉強させないと。勉強が遅れたらかわいそう」

 ママ友情報を、冷静を装いながら聴き、内心焦る。

 誰かに相談すればいいものも、相談する相手もいない。

 現代の親は、孤独なんだ。

 3世代同居は激減した。地域での人間関係が薄くなった。情報は次々とやってきて、ひとつひとつを丁寧に精査することもできず、流されてしまっていることも多い。

 仕方がないと、あきらめてしまっていることも。

 情報に流されない子育てをするためには、子どもを見守る目が多い方がいい。多くなると、面倒なことも増えるけれど、多い方がいい。

 なぜなら、子どもは、親とは別人格だから。

 自分の子どもは、思い通りになるなんて、そんなことは、ねえ。自分を振り返ったら答えはわかるはず。

 言うことを聞く子どもはいます。思春期前まではね。思春期前までは、子どもたちは大人につきあいます。無理にではなく、そういうものだと思って、つきあいます。

 子どもが大人勝りの言葉を話すとき、その子どもの周りで、そういう言葉を話している大人がいることが多い。その言葉を深く理解していなくても、理解しているかのごとく使う。

 模倣と模範。

 子どもたちの環境は、すべてが先生。学校の先生が教えることなんて、人生のうちのほんの一部。親の方が、もう少し影響力は大きいかもしれないが、それでも一部。子どもたちは、社会の中から、たくさんのものを、良いも悪いも分からず学んでいる。

 そんな子どもに、自分の価値観だけで子育てをしようなんて、最初から無理なこと。

 子どもを見つめる目が、いくつあるか。

 子どもを見つめる目は、同時に親にも向けられる。親に向けられた視線は、緊張感を生む。その緊張感が、子育てには大切。緊張感のない子育ては、独りよがりになって、暴走しがち。

 子育ての方法。昔は、選択肢なんてなかった。そうするもの。だから、困っていた人たちも多くいたのだろう。

 しかし、現在は、選択肢がたくさん。親が、子育ての方法を選べるようになった。

 選べるって、すばらしい!

 だけど、一方でこれが、不安を増幅した。選択肢は、効果的なものもあればあきれるものもある。個々によって効果が違うものもある。星の数ほど出てきた選択肢を前に、親は悩み続ける。でも、親として振る舞わなくてはならない。だから、流行に乗る。独善的になる。

 でも、人が人を育てることに違いはない。人と人とがつながって、よってたかって子ども育てにかかる。ああでもない、こうでもない、こうしたらいい、ああしたらいい。大変なことも増えるけれど、こういうコミュニケーションが、親がその子どもを育てることを考えるきっかけになる。

 父親母親の協力は、欠かせない。片親で無理?そんなことはない。そこにとどまることなく、親が、外へと意識を広げることが大切。

 ママ友。職場の同僚。地域の知り合い。公的機関の相談窓口。子育てサークル。

 もちろん、おじいちゃんおばあちゃんも。

 それでも、関わりが持てない親もいる。持ちたいけれど、持てない親もいる。

 残る砦は、学校。義務教育期間中は、子どもを学校の教師が見守る。

 親と教師がつながること。

 人間関係が薄くなってきた現代においては、大切な関係。いろいろな問題を解決していくために、親と教師の関係を構築していくことは、大切なことだと思います。

 私にとっての個人懇談は、よってたかって子どもを育てていく一部になりたいという思いから取り組んできた。関係性が薄くなった現代社会で、公教育の教師としてできること。

 つながる。

 今、とても求められていると思います。

2015-08-26

子どもをぎゅっと抱きしめる

| 00:17

 子どもをぎゅっと抱きしめる。

 誕生してすぐは、恐る恐る横だっこで、ぎゅっ。

 寝返りを打ち、ハイハイを始め、つかまり立ちからの最初の1歩。小さい子どもを縦だっこで、ぎゅっ。

 歩き始めて、走り始めて、向き合って、ぎゅっ。

 次第に大きくなり、べったりくっついていたのが、手をつなぎ、少し離れて、目の届くところを走り、そして、親の目の届かないところで生活し始める。

 子どもは、どんどん離れていく。

 手は、離さなければならない。いつまでも、近くにいて欲しいと思うが、子離れは、生まれたときから始まっている。

 けど、なかなかできないのだ、これが。可愛いからね。

 どんどん離れていくに従って、子どもは自分の気持ちを主張してくる。それが親の気持ちと合致すれば気持ちがいいけれど、違っていれば心がざわつく。

 主張するようになるからといって、1人で生きていけるわけではない。

 1人で生きていくための練習を始めただけ。

 しかし、親は焦る。

 離れていったような気持ちになる。

 でも、子どもは、まだまだ抱きしめて欲しい。

 離れていく子どもに、親は、いろいろなことを要求する。

 学力を、体力を、気力を、忍耐力を…。

 パワーを身につけることを要求する。

 社会で生きていくために、必要なこととして。

 でも、まだまだ弱い存在。主張は、1人で生きていくための練習なのに。

 子育ては、思春期の入り口まで。それまでは、食べ物を自分で手に入れることができないと、子どもは無意識に自覚しているらしい。

 食べ物を自分で手に入れないと思っている子どもは、食べさせてくれる人を、無意識に大切にする。

 親の要求に応えようとする。従順に。子どもは、育ててくれている人が好きになるように、あたかもプログラミングされているかのごとく。

 だから、いい子でいたい。誉められる存在でいたい。

 しかし、育てられている最中の子どもは、だれもが上手くいかないし、だれもが弱い存在。

 どんなにやんちゃでも、どんなに寡黙でも、どんなにわががまでも、どんなに賢くても、どんなに活発でも。

 子どもは、不安でいっぱい。不安の固まり。

 大人が思っているほど、子どもって、強くない。強がって見えるのは、1人で生きていくための練習がなかなか上手くいかないから。

 弱いからこそ、守って欲しい。

 強がっている子どもも、守って欲しい。

 どんな子どもも、守って欲しい。

 だから、ぎゅっと抱きしめる。

 言葉は、いらない。

 ただ、ぎゅっと抱きしめる。

 それで、気持ちは伝わるはずだから、ね。

 三つ子の魂100まで。

 いろいろな解釈があるけれど、幼い頃に、たくさんぎゅっと抱きしめられることが、安心につながり、生きていく上で心の支えになることなのではと思う。ずうっと、ずうっと。

 見守るのは大人。見て欲しいのは子ども。

 もしも、子育てで迷ったら、ぎゅっとしてみる。それだけで見えてくるものも、意外とあるもの。

2015-08-25

みそ汁の日

| 20:54

 食育の活動では、おもしろいことがたくさん。

 「弁当の日」に取り組み始めた頃、私と同じく積極的に活動していた長崎の先生が始めた実践。

 みそ汁の日。

 朝、子どもたちにみそ汁を作らせる取り組み。

 「弁当の日」は、年に数回。それを、毎日の食卓でも可能な取り組みとして開発。

 みそ汁は、小学校5年生の家庭科で学習。学校で学んだことを、そのまま家庭で生かす。学校教育の王道。理想的な展開としての取り組み。これなら、反対の声も小さそう。

 通常、学んだみそ汁を家で作るにしても、夕ご飯で作ることが多い。それも休みの日。取り組んでも、1回、もしくは数回。ブームが過ぎると、作ることもなくなる。

 しかし、このみそ汁の日は、朝食で作らせる。しかも平日の朝。1週間で取り組む日数は、子どもたちがおのおの設定。

 しかもこの学校、遠い子どもは、学校まで歩いて1時間ほどかかる。7時には家を出ないと遅刻。その環境で作らせるのは、なかなかハードルが高い。

 しかし、先生は作らせた。

 子どもたちは、みそ汁を作った。

 そこでの、発見。

「私は、食卓の空気も、一緒に食べている」

 自分が作ったみそ汁を、おいしいと食べてくれる家族。自分が役に立っているという実感。

 みそ汁の日に取り組んだ子どもたちの話を聞いた。自分が役に立っていることで自信を持ち、家族に支えられている安心感を持った子どもは、胸を張って、自分が取り組んだことを大人に発表した。

 自信と安心。

 この取り組みの効果の高さを感じた私は、自分のクラスの子どもたちにも、提案した。

 私の食育の基本姿勢は、「自分ができることしか、子どもたちには伝えない」。

 自分ができもしないことを、子どもたちに伝えるなんて、できるはずがない。

 子どもたちに提案した次の朝から、私のみそ汁作りが始まった。毎日、朝食のみそ汁を作った。

 大変!

 「いっぱつくん」にとって見れば、毎日のルーティンワークは、できることならご遠慮願いたい(笑)。

 「こつこつくん」から、だから「いっぱつくん」は、ダメなのよという声が聞こえてきそう。

 それでも、子どもに伝えたのだから、やらなければ!と、毎日作りました。こうやって「いっぱつくん」の、「こつこつくん」トレーニングは行われるのだと、妙に納得。

 私の提案に、クラス全員が応えたわけではない。私も自信がなかったこと。実践のすばらしさは感じていたが、できるかどうか半信半疑。

 その中で取り組んだ1人の子どもに、素敵な出来事が起きた。

 みそ汁作りに興味を持って作ってみた。朝は早く起きて作ったみそ汁を、家族で食べた。それまで、仕事で遅く帰ってくる父親は、家族と一緒の朝食をとることはなかったが、娘が作ったみそ汁ならばと、一緒に食べるようになった。

「おいしいね」

 その一言がとても嬉しかったその子は、その後も作った。

 しかし、朝は、バタバタしてしまう。そこで、前日の夜に、具を煮るところまで作っておいて、次の日の朝に火を通して味噌をといて仕上げた。

 おいしいといってくれる家族に、もっとおいしいみそ汁を作りたくなった子ども。

 知り合った大学の先生から、昆布と鰹節から出汁を取ると、植物性と動物性の両方のうまみが得られる事を知った。

 それまでは、化学調味料を使った粉末の出汁を使っていたのを、昆布と鰹節にチェンジ。

 父親は、その変化にすぐに気づき、

「またまたおいしくなったねえ」

と誉めてくれた。

 これが決め手となったその子は、卒業まで、自分のペースでみそ汁を作り続けた。

 中学校の入学式の朝。小学校の時に作った味噌を使って、自分でみそ汁を作ったそうだ。

 日常生活の中でできる食育。

 子どもたちは、食卓で食べ物を食べるだけでなく、空気も食べている。

 誰かに喜んでもらえる体験は、子どもの成長を支える。 

「食卓の向こう側」との出会い

| 18:33

 突然で偶然の出会い。

 そんなことの連続だった様な気がします。が、その中でも、人生を変えた出会いといえは、これにつきます。

「食卓の向こう側 第1部 第1話」西日本新聞朝刊 2003年12月17日

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/lifestyle/shoku/rensai/post_17.shtml

 朝、いつものように何気なく広げた新聞。1面の左側に新しい連載が始まった。読んでみると、福岡市西部が、私が仕事をしている学校の地域と重なる。そこに書いてあった家族の生活。普段、子どもたちと一緒に生活をする中で、何か生活に課題がありそうだけれど、それが何だかはっきりとしていなかった私に、その事実は、衝撃だった。

 食が後回しにされる生活。

 子どもたちの食生活環境が変われば、子どもたちの育ちに何らかの変化が起きるのではないか。

 直感でした(笑)。

 「いっぱつくん」ですからね。早速、記事をプリントして、子どもに配布。読ませて、感想を書かせた。

 ここまではひどい食生活でなくても、部分的には同じようなことがある子どももいました。第1部の連載は、全て子どもたちに配布。その後、第2部、第3部と、連載を使った学習は続いた。(授業で扱う時間はないので、もっぱら、家庭学習でしたが。)

 こんな学習をやっていることが、食卓の向こう側の記者に伝わりました。

 学校に突然の電話。2004年6月

「先生、よかことしよりますなあ。何でも協力しますよ」

 マスコミとの接触なんてほとんど無かった生活に、サプライズな出来事。

「じゃあ、ゲストティーチャーで話しに来てもらえませんか」

 この電話が、その後の私の生活をがらっと変えました。

 今では、食育の先生といわれることも多くなりましたが、最初から食育に熱心に取り組もうなんて、少しも思ってなかったんです(笑)。

 それからというもの、たくさんの人たちに出会い、たくさんの事を教えてもらい、たくさんの元気づけていただき、たくさんの実践をし、たくさん楽しい思いをし、たくさん学級担任としてはあり得ない体験をさせてもらいました。

 その中でも、この出会いは、別格。

子どもが作る「弁当の日」

 子どもが弁当を作る。親は手伝わないでと、香川県で始まった実践。

 これを福岡市で初めて取り組んだのが、私。

 その時の担任は4年生。家庭科が無いので学校でも教えることができず、しかも、自分だけ自分の学年だけ給食を止めるなんて、できるはずもなかった当時。考えたのが、

コース別「弁当の日」

 「全部作る」「手伝ってもらう」「おかずを詰める」「感謝の気持ちを伝える」の4つのコースを設定して実施。これが「弁当の日」で初めての取り組みとなり、仲間のみなさんがいつからか「イナマス方式」と命名していただき、今では、多くの学校で取り入れられるようになりました。

 突然で偶然な出会い。

 それを生かせるかどうかは、その人がどんなアンテナを張っているか。アンテナがつかんだことを、実践に移せるか。

 これって、「いっぱつくん」的な要素がなせる技。石橋をたたいていたら、チャンスはどんどん逃げていく。

 これっ!と思えるかどうか。

 そういう反応ができるところが、「いっぱつくん」。

出会いは、いつも突然で偶然

| 17:35

 台風な1日。それでも仕事(涙)。やんなくちゃいけないことはあるので、それはそれで助かりました。昼からは会議を行う予定でしたが、結局延期に。

 さてさて、すてきな「いっぱつくん」とすてきな「こつこつくん」を育てるために。

 学校でできることの提案として、次のことについて書きました。

○ワールドカフェ

○プロジェクト学習

○学び合い

 私が、この3つの実践に出会ったきっかけは、

 人との出会い。

 それも、突然で偶然な出会いから。

 ワールドカフェは、西日本新聞のセミナーで。

「先生には、これが出来るようになってほしい」

 突然なじみの新聞記者の方に紹介してもらったことが、取り組んでみたきっかけ。やってみたら、授業に足りないことが、そこにありました。

 セミナーには、学校の教師は私くらい。うどん屋の大将は宮崎から参加し、大分の行政マンも駆けつけ、PTA活動を行っている消防士も、福岡で草の根的にいろいろな活動をされている方も、彼らが行っている事業をブラッシュアップさせるための効果的な手段として、セミナーに参加していました。

 学校の中だけではない、刺激。

 学ぶ場は、学校だけではない。社会のあちらこちらにある。そこに、志を持って参加している方々と机を共にすると、そこに例えようもないエネルギーが発生し、それも一緒にいただいてくる。

 プロジェクト学習は、偶然の出会い。

 今から14年ほど前の夏休み。神奈川県茅ヶ崎市の浜之郷小学校のセミナーを受けに行きました。前日の午後、時間があるので、他に教師向けのセミナーがないか探したら、板橋区の小学校の校内研修を一般に公開する情報をキャッチ。参加することに。プロジェクト学習の研修でした。

 それを受けたくて行ったのではなく、ある意味、時間調整、だったはずが、私の教師人生を変えました。

 痛恨にもセミナーの会場に5分遅刻。駅を間違えて時間ロス。走り込んだら、何と、九州から来るからと、講師の鈴木敏恵先生が待ってくれていました。校内研修なのに申し訳なかったです。

 学んだプロジェクト学習は、総合的な学習の時間の可能性を、ぐっと広げてくれると直感。2学期に入って、学年の先生に相談して、取り組むことに。そのことを鈴木先生にメールすると、

「すぐに、電話して!」

 添付された電話番号に急いで連絡をすると、即席のプロジェクト学講座。私の質問に次々と答えていただきました。

 結果的に、総合的な学習は充実した取り組みになりました。

 学び合いも、偶然の出会い。

 東京で結婚式があるので、どこかの学校を見ることができないかと同僚の先生に相談。すると、浜之郷小学校を紹介してくれました。

 HPで見てみると、偶然にも、結婚式の前日に公開学習が行われるとこのこと。すでに締め切ってあったのを、無理にお願いして参加。

 そこで衝撃的な授業に出会ったことは、以前書いたこと。

 この3つとも、突然で偶然の出会い。

 出会いが、ここまで私にとって大切なものになるとは、人生っておもしろい(笑)。

 でも、ただ突然で偶然というだけでもないような気がします。

 きっと、その時に私の中にニーズがあって、それにフィットしたのだと思います。それに私が惚れ込んだ。

 これで授業が変わる!とどれもで直感。

 たぶん、出会いは、必然だった。

 必要と思うことをイメージしていると、そのアンテナがキャッチする。キャッチしたら、やってみようとする行動力。いろいろと困難なことはあるけれど、とにかくやってみる。

 これって、「いっぱつくん」思考(笑)。

 今、この3つの事に出会っていなかったらどうなっていたかなんて、想像も付かない。

 惚れ込んだ私の話を、子どもたちが最初に聞いたときは、暑苦しかったろうなあ(笑)。

2015-08-23

授業研究って

| 23:01

 授業研究を見るときの視点。

 盛り上がりが、いつ来るか。

 学び合いでは、テンションは低く声は小さくが、子どもが学んでいる姿、と教えていただきました。それは、今の私にとってはちょっと高度かなあ。「ええっ」とや「はあ〜」とは「そうそう」とか「やったあ!」とか、子どもの反応を見ることができる授業は、私は楽しい。

 授業研究を見る視点。私が見るのは、最初と終わりの子どもたちのやる気。

 最初から最後まで、学び合うわけでもなく、子どもたちがぼーっとしている授業は、論外。

 最初はやる気が高く、次第に低くなっていって、最後は、静かになっている授業。これが多い。最初は、先生のやる気に応えようと、子どもたちもやる気満々。しかし、次第に飽きてきたのか、分からないのか、つまらないのか、だんだんとやる気が低くなってくる授業。これって、ねえ。

 最初はテンションが低く、眉間にしわなんか寄せたりして、次第に目が輝いてきて、最後はもう授業終わるの!もっと続けようよと、子どもから学習を続けたいオーラが発せられる。これが、私がやりたい授業。

 最初、眉間にしわを寄せるのは、課題が分からないから。分からないことを学習するんだから、当然と言えば当然。

 最初、子どもたちのやる気が低いと、指導者としては、焦るけどね。本当に難しいのか、学習課題にフィットしているのかは、その教師の力量。子どもたちの実態を見る目。

 最後にやる気が上がる授業ができたとき、子どもたちが分かったなあと実感。

 では、なぜ、最後にやる気が下がる授業になってしまうか。

 子どもは、教師が導いてあげないと、理解ができないと思っている。予定通りに進めることで、一定の理解まではたどり着けると思っている。

 また、授業研究って、そんなものだと思っている。小難しい理屈をこね回して、子どもの言葉ではない、大人の言葉で授業を語り、子どもでは到底理解ができないような内容を組み込む。

 もしかしたら、教師も理解できていないかもしれない。分からなくても、それを扱うのが授業研究ですから。

 子どもが教材に対して、どう思うのか、どう捉えるのか、なんて、入り込む余地無し。そんなこと無い!と怒られそうですが。しかし、学習時間の最後の子どもたちの姿が語っています。

 でも、本当は、再度まで、テンションが低い方がいい。

 先日、ある学校を見に行きました。学び合いの授業公開。

 小学6年生。国語。授業の終盤、子どもたちの発言はとぎれることなく続き、チャイムが鳴って終わろうとする担任に、続けて学習をしたいと要求する子どもたち。やる気は、最初から低いまま。

 授業が終わり規定の5分の休み時間のあと、誰が声をかけるわけでも無く、すっと自習に入る子どもたち。

 あまりのスムーズさに、思わず聞きました。

「学び合い、楽しい?」

「楽しいです!」

「もしも学び合いが無くなったら、どうする」

「考えられないけど、もしもそうなったら、続けてくれるようにお願いに行きます」

 子どもたちは、学ぶことを理解していました。

 その授業は、子どもの読みを信頼して、子どもの言葉で綴られていました。授業の終わりに、先生が1つの言葉でまとめることは、なし。これだけ見ても、現代の授業からすると異質かも。

 子どもたちは、最後の「まとめ」を、本当に理解しているか。

 先生が、いろいろと話を聞いてくれるが、最後は、1つの文章になっている。みんなの声を1つにすると、なんていいながら、教師があらかじめ用意していたまとめになりがち。

 場行の最初に提示される「本時のめあて」。

 子どもたちがそれを意識して授業を受けているなんて、ない(みたい)。なぜなら、そのめあては、子どもから出てきたのではなく、教師が事前に設定していたものを、子どもの声として提示したものに過ぎないから。

 よく、教師の中で「授業が流れる」という言葉が出る。

 流れるって、滞りなく、指導案が進むって事よね。それって、子どもの都合ではなく、教師の都合じゃないのか。

 とにもかくにも、授業は、学習者のもの。

 それでも、子どもは教師の授業につきあいます。

学び合いの中の「いっぱつくん」と「こつこつくん」

| 19:18

 授業を楽しくないと思う子どもが出てきてしまう、授業の構造的欠陥があるとするならば。教師がいくら一生懸命にやっても、乗り越えられない壁があるとするならば。

 授業とは、教師が与えること、教えることに、力を注ぐ授業。授業は教師が知識を教えるためのものであって、学習者として授業に参加する子どもは、知識を吸収するためのもの。吸収した知識を、授業甲斐の学習(宿題など)を通して定着の作業を行い、テストでその成果を計る。身につけた知識量で学習者の力量を計り、進路を割り振る。

 こういう形の授業が、現在も続いているのでは。学力向上でテストのポイントがどうこうという話しの元には、こういう構図がベースにあるのでは。

 そうなると、知識をより多く身につければ「楽しく」なるし、知識が身につけられなければ「楽しくない」となりかねない。

 そんな授業は授業ではないと、これまでいろいろな授業の方法が提起され、実践されてきたが、やはり、行き着くところは、テストの点数。点数をどう上げるか。そうなると、知識の注入が一番効率的。

 その入り口として、漢字と計算だけは、基礎的な学力としてどこの学校も身につけさせる。もちろん私も力を入れる。この2つは、身につけた度合いを客観的に捉えやすい。身につけるべき事は限られ、それにどの程度近づいたかも、数字として表現しやすい。

 取り組みの成果としても、確認しやすい。

 誰もが身につけて欲しい学力としても、誰ものが分かりやすく納得しやすい。

 だから、学力向上は漢字と計算の定着から、となる。

 私も、これまで散々取り組んできた。子どもたちも、よくつきあってくれたと思う。

 つきあう。

 子どもたちは、教師の授業につきあっている。そこに示されたものを、いやだとは、なかなか言わない。そういうものだと、教師を信じる。

 だからといって、漢字と計算が必要がないわけでは、決してない。

 漢字と計算は、あくまでも道具。道具を身につけることは、大切なことだし、道具に磨きをかけることも大切。しかし、道具は、使わないと意味がない。いい道具が必要だと、毎日グローブを磨くことは大切なことだけど、磨き続けても使わなければ意味がない。漢字を覚えても、それを使わないとすぐに忘れてしまう。

 どうやって使う場を確保するか。

 それは、学習者に使わせる場を与えること。

 身につけた道具が、どういう場で必要になるのか、具体的な場で使ってみて、そこで上手くいかければ、道具の改善に取り組めばいい。

 教師が教え、学習者が受け入れる学習では、これはできない。必要なことは、学習者が必要にせがまれて使うようになること。

 学び合いの学習は、それが授業の中で可能となった。

 教える時間は、できるだけ短く。既習内容の確認と、新しい学習のポイントだけを伝える。小学生の算数は、そもそも、既習事項を応用していくことで解けることが、たくさんある。


 その既習事項という「道具」を使って、新しい課題に取り組む。そこで、新しい法則を自らの言葉で表現する。

 ただ、これを1人でやりましょうとしたら、なかなかハードルは高い。

 だから、学び合い。複数の学習者が一緒に考える集団思考で問題を解かせる。

 「わかった!」

 ひらめく子どもがいる。自分で解いてみる、答えが出てくる。答えが出たら、教師に○を付けてもらうのが、これまでの授業だとすると、学び合いは、その答えを、集団で共有する作業に入る。

 分かった子どもが、グループの子どもたちに伝える。グループで解くことを前提にしておくと、分からない子どもたちが「どうすると?」と言いやすくなる。

 学び合いの目的は、1人が分かることではなく、みんなが分かることだから、自分で考えて分からなければ、聞くことが何よりも必要なこととなれば、子どもたちは、とにかく聞こうとする。

 答えが出てきた子どもは、聞かれる側になる。聞かれたら、説明する。学習者にとって、これが、自分が思っているよりも遙かに難しい。いつもは、指導者からすうっと教えてもらっていることは、自分も問題が解ければできると思いがち。しかし、取り組んでみると、なかなか上手くいかない。あれやこれやの手段を使って説明しようとする。

 説明するときに、子どもたちは、それまでに身につけてきた「道具」を使う。算数であれば、問題を解くための計算だったり、考え方だったり。

 しかし、算数の道具だけでは伝わらない。言葉を駆使する。図や絵を描いて説明する。身振り手振りを入れて、時には、表情も使いながら。相手の理解の具合を探ることもやってみる。相手の顔の表情から理解度を伺う。説明している内に、何とか分かってもらおうと熱が入る。

 分からない方も、熱心に説明してくれる友達に応えようと、一生懸命に考える。

 理解への道筋に触れた瞬間、教えてもらっていた子どもは、自らの道具を使って解き始める。問題を解くことができたとき、伝えてもらっていた子どもも伝えていた子どもも、満面の笑みになる。この経験をすると、学び合いを離せなくなる(笑)。

 1人がひらめかなくても、集団でもこういう事が起こる。

 ひとつの問題を解くために、グループに1枚のホワイトボードを配り、それに解いていく。子どもがそれまで身につけた知識をそれぞれが出し、額を寄せ合って解き始める。ひとりの子どもの言葉に、もうひとりの子どもが、言葉をつなぐ。つないでいる内に、解くために必要な条件にたどり着き、解き上げる。

 解いたときに、ハイタッチ。

 学び合いをしていると、よく見かける光景。

 自分たちで解けるようになると、次の問題も自分たちでやってみたくなる。

 もちろん、まだ理解していない子どももいるが、その子どもも最初よりもより聞きやすくなっている。

 不思議なもので、最初は集団で解いていても、最後は、1人で解こうとする。子どもたちは、最終的には、自分が(個人が)理解しなくてはならないことを、知っている。

 それまで、友達の手を借りていた子どもが、黙々と解き始める。それを、解き終わった子どもたちが見守る。解けたら、拍手が起きる。みんなが笑顔になる。

 学び合いが定着した教室では、ごくごく普通の光景。

 この間、教師は、ほとんど出番無し(笑)。

 上手くできるようになったらの話。上手くできるようになるまでは、それなりの仕掛けは、必要。

 これらのことは、私が、実際に目の前で見てきたこと。しかも、複数のクラスで、というより、取り組んだ全てのクラスで起こったこと。

 こういう時、「いっぱつくん」は重宝されます。ひらめきは抜群。アイデアも多彩。しかし、それを整理して説明できるようにするのは、「こつこつくん」が得意。

 だから、「いっぱつくん」ばかりのグループだと、学び合いがとてもにぎやか。でも、まとまりに欠ける。

 「こつこつくん」ばかりのグループは、なかなか動きが生まれず、同じところをぐるぐると回ることもしばしば。

 「いっぱつくん」のひらめきと「こつこつくん」の整理力。

 この2つが1つになると、子どもたちも驚くような結果が出ることに気づく。

 私の学び合いは、グループを固定せずに、誰と解いてもいいとし、自由に席を移って解かせるときもあります。

 最初は、いつもの気の合う友達同士でグループを組むのですが、学び合いに慣れてくると、自分とは、真逆の子どもと組もうとする子どもたちが出てきます。普段はあまり接点がなかったけれど、その子どものひらめきにあこがれて、一緒に問題を解いてみたくなる子どもがいるようです。

 最初は、当然のごとく男女別々のグループだったものが、次第に男女混合のグループが増えていく。それが上手いくと感じることができたら、それから離れなくなる。

 「いっぱつくん」の良さを感じた「こつこつくん」は、自分にないものをお互いに補完してもらおうとする。しかもそれが居心地がいいと感じるようになると、お互いの理解は、一気に進む。

 こんなこと、教師がたくさんの準備をして、すでに授業の流れができてしまっている授業では、起こらないんだけどなあ。

2015-08-21

聴き合い学び合い授業

| 17:58

 授業の思い出。

 黒板の前に先生が立ち、教卓の上に教科書、チョークを握り黒板に板書。子どもたちは、全員机を前に向け、先生の問いかけに答え、板書をノートに書く。時に練習問題を解き、先生に○をつけてもらい、時にテストが行われる。

 全国どこの教室でも見られた風景。現在も、多くの教室は、40年前、私が受けた授業と同じ形で行われている。

 それって、楽しかった?

 楽しかったという人。

 先生の話がおもしろかったから。

 先生からほめられたから。

 勉強の成績が良かったから。

 ここらあたりが、好きな理由なのでは。

 楽しくなかった人。

 分からないのに、授業はどんどん過ぎていったから。

 分からないのに、だれも教えてくれなかったから。

 分からないから、勉強が嫌いになった。

 先生の話がつまらなかったから。

 でも、授業は、形を変えず、多くの教室で、ずっと続いてきた。

 というか、授業というのはそういうものと思っていたし、それ以外の形があるなんて、思ってもいなかった。

 教師も、自分が受けてきた授業をベースに授業をしているところがある。ふとした声かけが、自分が担任してくれた先生に似ていたり、いくら「研究と修養」を重ねても、昔どこかで見たことがある授業が続いてきた。

 しかし、時代は変わり、学力観は変わった。知識をどれだけ覚えたかを問う学力から、身につけた知識をどのように生かしていく学力へ。

 学力観が変わったのならば、授業観も変わらなければならない。なのに、変わらない、学校の授業。

 楽しくないと思う子どもがでる授業が、どうして続いてきたか。

 何だか先生達が努力していなかったかのようにとられそうですが、そんなことはありません。教師が言うと言い訳に聞こえるでしょうが。日本の先生達は、たくさんの時間を授業の準備に費やし、遅くまで学校に残り準備をしています。

 しかし、それでも楽しくないと思うこどもがいる。

 楽しくない子どもたちは、不満の顔を見せる。それを先生が怒る。なおさら嫌いになる。

 もしかしたら、どれだけして努力しても解決できない問題が、これまで続けられてきた授業の中にあるのではないか。

 そんな漠然とした思いを持っていたときに出会ったのが、

「聴き合い学び合う授業」

 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷小学校で見た授業は、衝撃的だった。

 先生の声は低く、子どもたちの声も小さい。板書もなく、先生は子どもの話をひたすら聴き続ける。みんなで考えたいポイントが出ると、4人のグループ学習が始まった。子どもたちは、小さな声で話し合っている。全体学習に戻ってからも声のテンションは低い。子どもたちは、常にテキストに戻る。最後にまとめられることもなく、授業は終わった。終わった後の子どもたちには、満足な表情が広がっていた。

 なぜ?盛り上がりもなく、それまでの私の経験からすると「盛り上がりに欠ける授業」。しかし、子どもたちは満足している。

 先生達の授業の協議会を見た。全員の先生が、その授業の中の子どもたちの様子や、何を学んだかを語っていた。私から見ると盛り上がりに欠ける授業から先生達は、いろいろなことを見取っていた。

 しかも、そのすべてが温かい。その子どもの良さを、担任に伝えようと語っている。

 一方、子どもたちが躓いたところについては、先生達からいろいろな意見が出る。決して授業者を批判することなく、よりよくして行くにはどうしたらいいか。

 先生達にも温かい。

 この授業は何なのか。それまで、楽しくするために授業を盛り上げ、1つでも多くの知識を定着することに全勢力を注いでいた私にとってみれば、目から鱗の状態。

 何が良かったのか?

 聴き合い学び合いのすばらしさはいろいろとあるけれど、私が注目することは、

 子どもたち同士で学ぶ時間の長さ

 とにかく長い。先生が説明をするために話す時間なんて、少し。

 浜之郷小学校で指導されていた佐藤学先生は、先生と子どもの学びを次のように表現されていた。

 先生は、聴くことに徹していた。そして、子どもの声をつないでいた。話がずれたら、戻していた。それだけに徹していた先生。

 子どもたちは、教材(テキスト)と向き合い対話し、クラスの仲間の話を聴くことで他と対話し、その中で自分の内面と対話していたように見えた。

 そこにあったのは、知識を習得した姿ではなく、クラスの子どもたちの考えを聴きながら、自分の考えをビルドアップしていった姿。

 もちろん、漢字や計算など、必要な知識はある。しかし、それは、あくまでも道具であって、それをどう使うか。それこそ、大切な学力。

 自分でもやってみた。

 それまで見せたことがなかった子どもたちの姿に、驚いた。

 この授業をきっかけとして、私の授業はがらっと変わって行きました。




 今回は、ここまで。つづく、はず(笑)。

2015-08-20

プロジェクト学習は、アクティブラーニング

| 09:04

アクティブ・ラーニング

 教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッションディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(文部科学省用語集より)

 「いっぱつくん」トレーニング。能動的に学修すること。どこでも使える汎用的能力の育成すること。

 でもなあ。すでに、アクティブラーニングについては、何それ?って空気が漂いつつある。新しいことは、なかなか定着しにくいのが学校というところ。

 でも、もうそろそろ机に縛り付ける学習から脱却しないと、本当に学力は付いていかないのでは。

 私の教室は、すでにアクティブラーニングの雰囲気を漂わせています。

◎学校の教室で取り組む

プロジェクト学習

ホワイトボードミーティング

ワールドカフェ

聴き合い学び合いの学習

教育ファーム

お絵かきノート

給食お変わり券

◎家庭と共同で取り組む

子どもがつくる「弁当の日」

◎公民館やPTAと共に取り組む

魚さばき講座

塩麹づくり

みそ造り

ペットボトルピザづくり

 机に座り続ける学習ではなく、自らどんどん動く学習へ。

 私自身が、楽しい学習がたくさん。準備が大変なものもあるけれど、自分が寝中出来るものは、苦労を感じないところが「いっぱつくん」(笑)。

 その中の、ひとつ。

 プロジェクト学習。

 与えられた学びから、意志ある学びへ。

 これは、プロジェクト学習を提唱されている鈴木敏恵先生の言葉。この言葉に学びの可能性を感じ、小学3年生で取り組んだプロジェクト学習に取り組んだ。

 子どもたちは、ひとりひとりが小学3年生とは思えない動き。

 学習は、学年3クラス合同授業。机がない広めの教室に集まり学習をしました。入り口が1つしかない教室。授業が始まる前には、入り口に子どもたちが我先に集まり、戸が開いた瞬間、一斉に教室になだれ込み、黒板の前から席が埋まっていきました。後ろに座ろうとする子どもは、数名。

 小学校3年生の教室。

 小学3年生であっても、興味を持ち、自分たちが何をすべきかがはっきりと分かっている学習に対しては、大人が信じられないような力を発揮します。

 しかも、プロジェクト学習のテーマが、小学校3年生としては難しかったはず。

楽しく食べる10年計画 食べ物を選んで作れる自分になろう

 このテーマで取り組み、プレゼンテーションは西日本新聞の「食卓の向こう側」の連載記事に取材され、取り組み全体は、地域に根ざした食育コンクールで入賞をした。

 小学3年生でも、できる。

 これは、ひとりで学習を行う「座学」では、不可能なこと。共同学習が出来たからこそ、子どもたちは、信じられない力を発揮することができた。

 もちろん、大人のサポートはたくさんあった。

 食の学習なので、家庭でも食事調査やインタビュー、情報リサーチなどを取り組んでもらった。

 大人が手助けした成果?

 当然、それもあります(笑)。

 大人の手助けは、この学習を行う中で必要な事でした。しかし、大人の手助けを理解しながら学習に取り組んだことは、子どもたちの学習の成果。手助けがあったにしても、学校に情報を持ち合い、自分たちの考えをまとめ、プレゼンテーションを行い、社会へ向けて提案するところまで行った。

 とにもかくにも、小学3年生。

 小学3年生で、この学習が成立したことの要因は、

.廛蹈献Дト学習による、学習の理念と道筋が、小学3年生でも理解が出来たこと。

∋劼匹發燭舛、お互いに聴き合い学び合うことが出来たこと。

3愬全体で取り組むことで、思考も体も、常に動いていたこと。

こ惺山阿里澆覆気鵑領呂鮗擇蠅襪海箸出来たこと。ゲストティーチャー、保護者の協力。

コ愬の教師集団が、この学習内容を、この学習方法で、子どもたちと共に学びたいと思ったこと。

 これって、アクティブラーニング、しかも、かなりレベルの高い学習になっているんじゃないかなあ。

 とにかく小学3年生。

 机に座ってこの学習を完了させることは、まず、無理だったでしょう。絶対に無理!

 しかも、この学習で活躍したのは、「いっぱつくん」と「こつこつくん」。両方の活躍がなければ、成立はしていません。