ねこに、劇場。

2016-03-01

【つぶやき】子どものいない既婚女性として。

吐露するところに困って、ここにつぶやきを。

ある打ち合わせで「無精子症」という単語が出て、こちらとしては何も気にせず話を聞いてたんだが、発言者(割と親しい同僚)から後で「なんか、お子さんいない人の前であんな話しちゃってすみません」とわけの分からない謝罪をされたことがあってびっくりしました。

「え、全然気にしてないですよ、なんで謝るんですか?」と答えたけど、相手は謝るばかりで全く理解していないようだった。私、子ども欲しいとも欲しくないとも思ってないんだけどな。子ども欲しいと思わなきゃいけないのかな。

この、「絶対に子どもを持ちたい」でも「絶対に子どもを持ちたくない」でも、どちらでもない感じ、そして、周囲の「そのどちらかだろうとカテゴリー化しようとする圧力への違和感」、こういうのをうまく言語化してくれてるエッセイなり研究なりの作品はないのか?

たとえば、私を「子どもがほしい(けど恵まれない)人」として接してくる、たいていは親切で優しい人たちは、不妊治療をすすめてくれたり、まだ間に合うよと励ましてくれたり、慰めてくれたりする。その気持ちが優しいものだとわかるから、特に否定もしない。「そうですよねぇ」って言ってる。

たとえば、私を「子どもを欲しくない人」として接してくる人は、キャリアや育児費用や育児の大変さなどをもって、私を「合理的な人」だと言ってくれる。もしくは、「子ども欲しい人になりなさい」と、脅かしたり叱ったりもする。こういうときは、どう反応していいかわからないので、黙って笑ってる。

こういうモヤモヤ感にちょっと困惑することがある。悩むほどのことではないんだけど、「こういう感じ、どうしてます?」っていうのを、エッセイか質的研究かなんでもいいから、共有したいと思うんだけどな。

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というようなことをツイッターにかいてたら、なんかこういうつぶやきをするときモヤモヤするのは、自分の個人的な事情に触れないようにしながら書こうとしてるからなんじゃないかなと気づいた。で、こっちに移動してきました。

私の場合、両親の仲が悪くて子どもからみたら離婚してほしいくらいの不和っぷりでしたが、母親はいつも「子どものために離婚しない」って言ってました。それが本心だったと思うし、「子どものために生きるのがお母さんの幸せなのよ」って言ってくれる優しい母ですが、正直なところ、「お母さんは、私を産んで本当に幸せだったのかな?」って思っている自分がいます。

酔った父親に殴られて血まみれの顔になっても、父がよそに女を作って家にお金を入れなくなっても、暴力のストレスで神経を病んでも、必死で耐える母を間近で見てました。いつも「私たち子どもがいるせいで、心も体もボロボロにされても家族の監獄に閉じ込めてごめんね」って思っていました。

母は「子どもたちが生まれてきてくれて本当によかった」と言いながら、娘である私には「あんたは子どもなんか産まなくていい。悪阻も陣痛も死ぬほど大変だった。お父さんは育児なんかしてくれなくて、一人で死ぬほど大変だった。あんたはそんなことしなくていい」と言い聞かせていました。

もちろん、「子どもが欲しければお母さんに預けなさい、子育てはしてあげる、あんたは仕事をもって経済的に自立しなさい」とも言っていたから、要は、経済的自立ができないと、いざというとき子持ちの女性は不利になる、ということを伝えたかったんだと思います。いま思えば、「子どものために」はもちろんあるけど、結婚退職した母に子ども二人を育てる(十分な教育を受けさせる)経済力はありませんでした。

母は、父の浮気相手のところへ、幼かった兄を連れて会いに行ったそうです。「うちには子どももいるんですよ、というのを見せたかった」と言うけど、ハッキリ言って引きました。でも、そういうことをしてしまうほどの精神状態に、母はなってしまってたんでしょう。

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私も同じことをしないなんて、誰がわかるだろう?

いま、自分が「経済的自立」ができる状態になって、では子どもが欲しいかというと、欲しいとも欲しくないとも思わない。思えない。理由はよくわからないけど、「子どもを『道具』にしたくない」という感覚に近いです。親が何かを選択するときの道具、「足かせ」みたいな役割の時もあれば、「かすがい」みたいな役割の時もある。

大事な人との子どもが持てれば、それは素晴らしく幸せなことだろうと思います。でも私には、「恐れ」の方がずっと大きい。世の中が「子育て支援」まっさかりで、上に書いたような「モヤモヤした気分」が「嫌」だから、「次のステップ」に進むために不妊治療を始めてみる、子どもを産んでみる、みたいなことをするのは、それこそ手前勝手な行動なんじゃないかと思ってしまう。国の社会保障や人口維持のために子どもを持つのは大人の務めだ、という考え方もあるでしょう。でも、「務め」「義務感」で育てられた子どもが幸せなんだろうか?

父や母のことを悪く思うのは、罪悪感があります。母の苦しみの上にいまの私があります。悪く言うのは恩知らずだと思う。私に必要なのは専門家とのカウンセリングかもしれない。

2014-02-14

【備忘録】Sarah Kay, "Hiroshima", 2014, TED/NHK

不可能が可能になる?私も笑うかも。世の中のこと、生まれ変わりのこと、私よくわかってない。時々笑いすぎて、今が何世紀か忘れる。ここにいるのは、これが最初でも最後でもない。でも念のため、精いっぱい今を生きようとしてるの。(Sarah Kay, "Hiroshima", 2014, TED/NHK)

TEDで何気なく観はじめたSarah Kayのパフォーマンス「If I should have a daughter」が素晴らしかったので、備忘録。

味わいが演劇に似てるなと思って観ていたら、スポークンワードのことを「詩と演劇が出会ってできた子ども」(poetry and theater had come together and had a baby)と表現していて納得。言葉の持つイメージの広がりを存分に生かすのはさすが詩人だが、プレゼンテーション全体の構成も周到な伏線使いが圧巻。言葉のイメージを何層にも重ねて、日常や周囲の事柄から輪廻や宇宙までイメージさせるスケール感や言葉の密度感、透明感と爽やかな後味は、柴幸男作品と似ている。

引用したのは、プレゼンテーションの中で実演された2つの詩のうちの一つ、「Hiroshima」。この直前に話される「輪廻」のテーマから繋がり、詩単独で聴くよりも奥行のあるパフォーマンスになっていた。

冒頭で実演される詩「If I should have a daughter(もし私に娘がいたら)」から、スポークンワードという表現活動との出会いや魅力、10代向けワークショップでの「3つのステップ」というやや説明的な展開になるが、中盤から「起承転結」や「3つのステップ」という一見技術的な言葉が、私たちの生や世界への向き合い方を喚起させるキーワードとして広げられていく

また、プレゼンテーション全体を通じて、「緊張して(うまくやれない)私」が何度か強調されるのだが、これはありがちな言い訳としてではなく、「この世界に対峙し続ける、無力ではあるけれど進み掴む希望を持つ私(たち)」というプレゼンテーション全体を貫くキーワードであることに、聴き終わってから気づかされる。このあたりは本当にうまい。

(私も、「緊張しています」といった陳腐な台詞は、よほど上手な伏線としてのみ使いたいものである)

2011年が最初の放送(http://goo.gl/hJL4sS )だけど、これはあんまり翻訳がよくない(誤訳と思われる箇所もある)。再放送のほう(http://goo.gl/Z9VY20)が良いと思うけど、最後の数秒が入っていないのが残念すぎる。しばらくしたら更新されて映像をみられなくなると思うので、「Hirosima」だけ、再放送版の訳を字幕から起こした。

Sarah Kay, "Hiroshima"

When they bombed Hiroshima, the explosion formed a mini-supernova so every living animal, human, or plant that received direct contact with the rays from that sun was instantly turned to ash. And what was left of the city soon followed. The long-lasting damage of nuclear radiation caused an entire city and its population to turn into powder.

When I was born, my mom says, I looked around the whole hospital room with a stare that said, “This? I've done this before.” She says I have old eyes. When my grandpa Genji died, I was only five years old, but I took my mom by the hand and told her, “Don't worry, he'll come back as a baby.”

And yet, for someone who's apparently done this already, I still haven't figured anything out yet. My knees still buckle every time I get on a stage. My self-confidence can be measured out in teaspoons, mixed into my poetry, and it still always tastes funny in my mouth. But in Hiroshima, some people were wiped clean away, leaving only a wristwatch or a diary page. So no matter that I have inhibitions to fill all my pockets, I keep trying, hoping that one day I'll write a poem I can be proud to let sit in a museum exhibit as the only proof I existed.

My parents named me Sarah, which is a biblical name. In the original story, God told Sarah that she could do something impossible, and she laughed, because the first Sarah, she didn't know what to do with impossible. And me – well, neither do I. But I see the impossible every day. Impossible is trying to connect in this world, trying to hold onto others while things are blowing up around you, knowing that while you're speaking, they aren't just waiting for their turn to talk – they hear you. They feel exactly what you feel at the same time that you feel it. It's what I strive for every time I open my mouth – that impossible connection.

There's this piece of wall in Hiroshima that was completely burnt black by the radiation. But on the front step, a person who was sitting there blocked the rays from hitting the stone. The only thing left now is a permanent shadow of positive light. After the A-bomb, specialists said it would take 75 years for the radiation-damaged soil of Hiroshima City to ever grow anything again. But that spring, there were new buds popping up from the earth.

When I meet you, in that moment, I'm no longer a part of your future. I start quickly becoming part of your past. But in that instant, I get to share your present. And you – you get to share mine. And that is the greatest present of all.

So if you tell me I can do the impossible, I'll probably laugh at you. I don't know if I can change the world yet, because I don't know that much about it. And I don't know that much about reincarnation either. But if you make me laugh hard enough, sometimes I forget what century I'm in. This isn't my first time here. This isn't my last time here. These aren't the last words I'll share. But just in case, I'm trying my hardest to get it right this time around.

広島に原爆が落とされた時、その爆発は凄まじく、直接その光を浴びたすべての人間、動物、植物が、一瞬で灰になった。そして程なくして、放射能の影響で街全体と全住民が粉へと変わった。

ママが言うには、私、生まれた時すでに人生経験があるような顔をしていたらしい。祖父が死んだ時、当時5歳の私は言った。「赤ちゃんになって戻ってくるわ」。

どうやら私、経験者。なのにまだ何一つ分かっていない。人前ではいつも膝ガクガク。微量の自信を詩に混ぜいれる。これがいつもヘンな味する。

広島では腕時計や日記だけしか残らなかった人もいた。私すごく臆病だけど、頑張り続けて自分の生きた証になるような詩を、いつか書きたい。

サラは聖書に出てくる名前。創世記、サラは神に「不可能が可能になる」と言われ笑った。そんなこと信じられなかったのだ。そして私だって同じ。けど人とつながることも、ある意味「ありえない」。相手の心をしっかりつかむ。相手がちゃんと話を聞いてくれる。同じ時に同じ思いを抱く。私はその「ありえない」つながりを求める。

広島の原爆被害を物語る変色した壁。その手前の石段には、そこに人が座ってた跡が影のようになって残ってる。原爆の後、専門家は言った。再び草が生えるまでに75年かかると。しかし次の春、芽が出ました。

私があなたに出会ったら、私はもうあなたの過去の一部。でも出会った瞬間は「今」を共有できる。それは幸せなこと。

不可能が可能になる?私も笑うかも。世の中のこと、生まれ変わりのこと、私よくわかってない。時々笑いすぎて、今が何世紀か忘れる。ここにいるのは、これが最初でも最後でもない。でも念のため、精いっぱい今を生きようとしてるの。

動画と日本語字幕は、こちら。(ただし日本語の句読点は筆者加筆)

Hiroshimaの原文は、こちら


(高校生の時に、学校の「弁論大会」で優勝したことがあるのだけど、今思うとそれは全然「弁論」的ではなくて、やってたことは「スポークンワード」的なものだった。詩も演劇も作れないけれど、若い頃に「スポークンワード」というアート活動があることを知っていたかったな)

2013-10-09

【備忘録】シス・カンパニー・ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出「かもめ」シアターBRAVA

「私たちの仕事、演じるとか、書くとか、そういった仕事で一番大事なことは、名声とか、輝きとかじゃない、何を夢見たかでもないわ。それはね、耐える力。運命の試練に耐え、信念を持つことなの」(チェーホフ作、ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出『かもめ』2013年、大阪、引用は堀江新二訳版)

見所は突き詰めれば一つ、細分化すれば三つ。一つにまとめるならば、4幕の素晴らしさに尽きる。そして細分化される三つは、すべてこの4幕の素晴らしさに貢献している。

一つ目は、蒼井優の怪物なみに素晴らしい演技(特に4幕)。蒼井優と舞台で対になるのは、よほどの実力派俳優でないと辛いのではなかろうか。トレープレフ役の生田斗真も健闘していたとは思うが、蒼井優のインパクトには霞むほど。

3幕まで、蒼井演じるニーナは女優の卵で名声を夢見ており、それが高じて田舎の恋人を捨て作家の愛人になるのだが、4幕では恋人に捨てられさしたる名声も手にしていないどさ回りの生活になる。

要は、3幕までと4幕の落差で、子供のように無邪気で魅力的だった女が、挫折によってその輝きを失い、それが二度と戻らないことを知りながらも進み続けなければならない覚悟を決める、までを演じなければならない。長台詞で、今観ると古臭い陳腐な箇所もあるのだが、蒼井優は飽きさせることなく演じきった。この演技を観るだけでも元がとれる。

# 余談ですが、大竹しのぶと蒼井優の競演は大変に見ごたえがありました。役どころも、「(かつての)大物女優」と「野心あふれる女優の卵」だしね。それから脇を固める山崎一さんの安定感。

見どころの二つ目は、装置と転換。

普段のケラ氏らしい手の込んだ装置や目を引く映像は慎重に抑制されており、オーソドックスな演出は後述するように要所のインパクトを際立たせた。開始時点での装置はやや寂しい印象で「アレ?」と拍子抜けしたのだが、2幕、3幕、4幕へと作り込んだ現代的なセットになっていくのは気分が盛り上がる。

装置転換は暗転せず、薄暗がりのなか役者自身がたたずまいを演じながらの転換。まるでそれ自体が流れ去る映像のような転換で痺れるほどセンスが良い。クライマックスの第4幕では、嵐の夜の停電を生かした照明効果を集中させて、印象的な終幕になった。

三つ目の見どころは音楽。今作の演出は3幕までの抑制と4幕の強調がポイントだが、音楽も、叩き切られるような終幕のインパクトに貢献している。

トレープレフの自殺を告げて突然終わる戯曲のぶつ切り感に、終幕の音楽(三宅純「Lay-La-La-Roy」(アルバム「永遠乃掌」内)が完璧にマッチ。前半の牧歌的でややレトロな選曲が3幕までの若者二人の「夢」のBGMだとしたら、終幕曲は芸術の道が現実となり命を絶つ者と進む者の覚悟を表現しているように感じられた。

また、この現代的な選曲によって、この戯曲が提出したテーマ(芸術を生きることを取り巻く残酷さと滑稽さ)が、現代の私たちにもつながった

ただ、いかんせん外国の昔の戯曲なので、未見の人は「かもめ」の筋書きや人物相関図は予習しておいた方がいいかも。周囲のお客さんは、「名前が覚えきれへん」「台詞が分かりにくい」「最後どういう意味やねん?」と言ってる人も。ロシア人の名前って、ただでさえ覚えにくいしね。

というわけで、満足度の高い観劇でした。この手の古典は眠いという先入観もありなかなか観る機会がないので、演出の名手が作ってくれるのはありがたいことです。