【備忘録】Sarah Kay, "Hiroshima", 2014, TED/NHK

不可能が可能になる?私も笑うかも。世の中のこと、生まれ変わりのこと、私よくわかってない。時々笑いすぎて、今が何世紀か忘れる。ここにいるのは、これが最初でも最後でもない。でも念のため、精いっぱい今を生きようとしてるの。(Sarah Kay, "Hiroshima", 2014, TED/NHK


TEDで何気なく観はじめたSarah Kayのパフォーマンス「If I should have a daughter」が素晴らしかったので、備忘録。

味わいが演劇に似てるなと思って観ていたら、スポークンワードのことを「詩と演劇が出会ってできた子ども」(poetry and theater had come together and had a baby)と表現していて納得。言葉の持つイメージの広がりを存分に生かすのはさすが詩人だが、プレゼンテーション全体の構成も周到な伏線使いが圧巻。言葉のイメージを何層にも重ねて、日常や周囲の事柄から輪廻や宇宙までイメージさせるスケール感や言葉の密度感、透明感と爽やかな後味は、柴幸男作品と似ている。
引用したのは、プレゼンテーションの中で実演された2つの詩のうちの一つ、「Hiroshima」。この直前に話される「輪廻」のテーマから繋がり、詩単独で聴くよりも奥行のあるパフォーマンスになっていた。

冒頭で実演される詩「If I should have a daughter(もし私に娘がいたら)」から、スポークンワードという表現活動との出会いや魅力、10代向けワークショップでの「3つのステップ」というやや説明的な展開になるが、中盤から「起承転結」や「3つのステップ」という一見技術的な言葉が、私たちの生や世界への向き合い方を喚起させるキーワードとして広げられていく
また、プレゼンテーション全体を通じて、「緊張して(うまくやれない)私」が何度か強調されるのだが、これはありがちな言い訳としてではなく、「この世界に対峙し続ける、無力ではあるけれど進み掴む希望を持つ私(たち)」というプレゼンテーション全体を貫くキーワードであることに、聴き終わってから気づかされる。このあたりは本当にうまい。
(私も、「緊張しています」といった陳腐な台詞は、よほど上手な伏線としてのみ使いたいものである)

2011年が最初の放送(http://goo.gl/hJL4sS )だけど、これはあんまり翻訳がよくない(誤訳と思われる箇所もある)。再放送のほう(http://goo.gl/Z9VY20)が良いと思うけど、最後の数秒が入っていないのが残念すぎる。しばらくしたら更新されて映像をみられなくなると思うので、「Hirosima」だけ、再放送版の訳を字幕から起こした。


Sarah Kay, "Hiroshima"

When they bombed Hiroshima, the explosion formed a mini-supernova so every living animal, human, or plant that received direct contact with the rays from that sun was instantly turned to ash. And what was left of the city soon followed. The long-lasting damage of nuclear radiation caused an entire city and its population to turn into powder.
When I was born, my mom says, I looked around the whole hospital room with a stare that said, “This? I've done this before.” She says I have old eyes. When my grandpa Genji died, I was only five years old, but I took my mom by the hand and told her, “Don't worry, he'll come back as a baby.”
And yet, for someone who's apparently done this already, I still haven't figured anything out yet. My knees still buckle every time I get on a stage. My self-confidence can be measured out in teaspoons, mixed into my poetry, and it still always tastes funny in my mouth. But in Hiroshima, some people were wiped clean away, leaving only a wristwatch or a diary page. So no matter that I have inhibitions to fill all my pockets, I keep trying, hoping that one day I'll write a poem I can be proud to let sit in a museum exhibit as the only proof I existed.
My parents named me Sarah, which is a biblical name. In the original story, God told Sarah that she could do something impossible, and she laughed, because the first Sarah, she didn't know what to do with impossible. And me – well, neither do I. But I see the impossible every day. Impossible is trying to connect in this world, trying to hold onto others while things are blowing up around you, knowing that while you're speaking, they aren't just waiting for their turn to talk – they hear you. They feel exactly what you feel at the same time that you feel it. It's what I strive for every time I open my mouth – that impossible connection.
There's this piece of wall in Hiroshima that was completely burnt black by the radiation. But on the front step, a person who was sitting there blocked the rays from hitting the stone. The only thing left now is a permanent shadow of positive light. After the A-bomb, specialists said it would take 75 years for the radiation-damaged soil of Hiroshima City to ever grow anything again. But that spring, there were new buds popping up from the earth.
When I meet you, in that moment, I'm no longer a part of your future. I start quickly becoming part of your past. But in that instant, I get to share your present. And you – you get to share mine. And that is the greatest present of all.
So if you tell me I can do the impossible, I'll probably laugh at you. I don't know if I can change the world yet, because I don't know that much about it. And I don't know that much about reincarnation either. But if you make me laugh hard enough, sometimes I forget what century I'm in. This isn't my first time here. This isn't my last time here. These aren't the last words I'll share. But just in case, I'm trying my hardest to get it right this time around.

広島に原爆が落とされた時、その爆発は凄まじく、直接その光を浴びたすべての人間、動物、植物が、一瞬で灰になった。そして程なくして、放射能の影響で街全体と全住民が粉へと変わった。
ママが言うには、私、生まれた時すでに人生経験があるような顔をしていたらしい。祖父が死んだ時、当時5歳の私は言った。「赤ちゃんになって戻ってくるわ」。
どうやら私、経験者。なのにまだ何一つ分かっていない。人前ではいつも膝ガクガク。微量の自信を詩に混ぜいれる。これがいつもヘンな味する。
広島では腕時計や日記だけしか残らなかった人もいた。私すごく臆病だけど、頑張り続けて自分の生きた証になるような詩を、いつか書きたい。
サラは聖書に出てくる名前。創世記、サラは神に「不可能が可能になる」と言われ笑った。そんなこと信じられなかったのだ。そして私だって同じ。けど人とつながることも、ある意味「ありえない」。相手の心をしっかりつかむ。相手がちゃんと話を聞いてくれる。同じ時に同じ思いを抱く。私はその「ありえない」つながりを求める。
広島の原爆被害を物語る変色した壁。その手前の石段には、そこに人が座ってた跡が影のようになって残ってる。原爆の後、専門家は言った。再び草が生えるまでに75年かかると。しかし次の春、芽が出ました。
私があなたに出会ったら、私はもうあなたの過去の一部。でも出会った瞬間は「今」を共有できる。それは幸せなこと。
不可能が可能になる?私も笑うかも。世の中のこと、生まれ変わりのこと、私よくわかってない。時々笑いすぎて、今が何世紀か忘れる。ここにいるのは、これが最初でも最後でもない。でも念のため、精いっぱい今を生きようとしてるの。

動画と日本語字幕は、こちら。(ただし日本語の句読点は筆者加筆)
Hiroshimaの原文は、こちら


(高校生の時に、学校の「弁論大会」で優勝したことがあるのだけど、今思うとそれは全然「弁論」的ではなくて、やってたことは「スポークンワード」的なものだった。詩も演劇も作れないけれど、若い頃に「スポークンワード」というアート活動があることを知っていたかったな)

【備忘録】シス・カンパニー・ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出「かもめ」シアターBRAVA

「私たちの仕事、演じるとか、書くとか、そういった仕事で一番大事なことは、名声とか、輝きとかじゃない、何を夢見たかでもないわ。それはね、耐える力。運命の試練に耐え、信念を持つことなの」(チェーホフ作、ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出『かもめ』2013年、大阪、引用は堀江新二訳版)


見所は突き詰めれば一つ、細分化すれば三つ。一つにまとめるならば、4幕の素晴らしさに尽きる。そして細分化される三つは、すべてこの4幕の素晴らしさに貢献している。


一つ目は、蒼井優の怪物なみに素晴らしい演技(特に4幕)。蒼井優と舞台で対になるのは、よほどの実力派俳優でないと辛いのではなかろうか。トレープレフ役の生田斗真も健闘していたとは思うが、蒼井優インパクトには霞むほど。
3幕まで、蒼井演じるニーナは女優の卵で名声を夢見ており、それが高じて田舎の恋人を捨て作家の愛人になるのだが、4幕では恋人に捨てられさしたる名声も手にしていないどさ回りの生活になる。
要は、3幕までと4幕の落差で、子供のように無邪気で魅力的だった女が、挫折によってその輝きを失い、それが二度と戻らないことを知りながらも進み続けなければならない覚悟を決める、までを演じなければならない。長台詞で、今観ると古臭い陳腐な箇所もあるのだが、蒼井優は飽きさせることなく演じきった。この演技を観るだけでも元がとれる。

# 余談ですが、大竹しのぶ蒼井優の競演は大変に見ごたえがありました。役どころも、「(かつての)大物女優」と「野心あふれる女優の卵」だしね。それから脇を固める山崎一さんの安定感。


見どころの二つ目は、装置と転換。
普段のケラ氏らしい手の込んだ装置や目を引く映像は慎重に抑制されており、オーソドックスな演出は後述するように要所のインパクトを際立たせた。開始時点での装置はやや寂しい印象で「アレ?」と拍子抜けしたのだが、2幕、3幕、4幕へと作り込んだ現代的なセットになっていくのは気分が盛り上がる。
装置転換は暗転せず、薄暗がりのなか役者自身がたたずまいを演じながらの転換。まるでそれ自体が流れ去る映像のような転換で痺れるほどセンスが良い。クライマックスの第4幕では、嵐の夜の停電を生かした照明効果を集中させて、印象的な終幕になった。


三つ目の見どころは音楽。今作の演出は3幕までの抑制と4幕の強調がポイントだが、音楽も、叩き切られるような終幕のインパクトに貢献している。
トレープレフの自殺を告げて突然終わる戯曲のぶつ切り感に、終幕の音楽(三宅純「Lay-La-La-Roy」(アルバム「永遠乃掌」内)が完璧にマッチ。前半の牧歌的でややレトロな選曲が3幕までの若者二人の「夢」のBGMだとしたら、終幕曲は芸術の道が現実となり命を絶つ者と進む者の覚悟を表現しているように感じられた。
また、この現代的な選曲によって、この戯曲が提出したテーマ(芸術を生きることを取り巻く残酷さと滑稽さ)が、現代の私たちにもつながった


ただ、いかんせん外国の昔の戯曲なので、未見の人は「かもめ」の筋書きや人物相関図は予習しておいた方がいいかも。周囲のお客さんは、「名前が覚えきれへん」「台詞が分かりにくい」「最後どういう意味やねん?」と言ってる人も。ロシア人の名前って、ただでさえ覚えにくいしね。

というわけで、満足度の高い観劇でした。この手の古典は眠いという先入観もありなかなか観る機会がないので、演出の名手が作ってくれるのはありがたいことです。

【備忘録】はえぎわ「ガラパコスパコス」三鷹星のホール

「太郎…シンプルシンプルに聞くけど、シャーリー・テンプルに聞くけど…(ドアを閉める)シャーリー・テンプル風にシンプルシンプルに聞くけど、太郎、これが犯罪だってのは分かってる?」(はえぎわ『ガラパコスパコス』、2013年、三鷹星のホール)


派遣のピエロとして働く青年・太郎は、ある日、自分の稚拙な芸を喜んでくれる老女・マチコと出会う。マチコは、高齢者施設を抜け出してきたのだった。そんなマチコをかくまうかのように、自宅に住まわせる太郎。ひょんなことから始まった二人の共同生活は、周囲の人々を、戸惑いと苦悩に陥れていく(三鷹市芸術文化振興財団HPより引用 http://mitaka.jpn.org/ticket/1306070/


はえぎわ「ガラパコスパコス」三鷹星のホール、観てきた。抽象とシュール・ナンセンスを得意とする劇作家で主催のノゾエ氏は『○○トアル風景』で岸田戯曲賞を受賞、本作では主人公の兄の役としても出演しています。劇団コンセプトである「嘆きの喜劇」と、話題になった「黒板演出」の面白さを堪能するのに最適な作品だと思います。


何と言っても見所は装置。抽象度の高い舞台上、黒板の壁や床に役者がチョークで小道具やト書き(の一部)を書く/描くことによって劇空間を生み出す「黒板演出」。シュールな人物造形や台詞回しに調和して、舞台上が漫画のひとコマのようにも見える。単に仕掛けとして面白いだけなく、文字と黒板は、クライマックスの物語展開への重要な伏線になっていくのも、周到に計算された美しさ。


本作のもう一つの見どころは、主演俳優。「わが星」で岸田賞受賞し、自身も劇団「ままごと」を主宰する柴幸男氏が主役の「コミュ障な若者」を演じています。その繊細な身体と台詞回し、決して器用とは言えない演技は、「不器用な」主役キャラクターにぴったり。芸達者な役者という印象は受けなかったが、線の細い身体が詩情あふれる劇作のイメージとあいまって魅力的な存在感があり、今後俳優としても人気が出るんじゃなかろうか、と思いました。柴ファンは必見。


音もよかった。序盤は無音のパントマイムで始まって、その後も台詞は禁欲的に削ぎ落とされている。特に、クライマックスのボレロラヴェル)とダンスは、かくも効果的にこの曲を使った舞台は稀有だろうと思わせる感動的な出来。ここから後のシーンだけでも観る価値あり。そのほか、讃美歌312番も印象的に使われており、シュールでとぼけた人物造形や漫画的ビジュアルと、哀切でクラシカルな音楽とのミスマッチも面白い。


ただし、装置や音など演出の面白さに惹かれたのは、物語のメッセージにあまり心動かされなかったからかもしれない。いわゆる「コミュ障」の若い男が迷子の痴呆老人と出会い、アパートで同居し始めてしまうという設定は、記憶と孤独、家族や他者との関係性といった、コミュニケーションの問題に深く切り込んでいきそうなのだけど、観終わったあと何か大きな(または新しい)メッセージを受け取った感じはしなかった。興味深い見せ方をしてくれて面白かった、という程度の印象にとどまっている。「老い」を前向きに提示する、というのはあるかもしれないが、私の経験不足のためか、作品全体が表現している大きなメッセージとしては受け取れなかった。


とはいえ、この劇作家の魅力は、そういう「大きなメッセージ」に安易に流れることを拒絶して、あくまでシニカルにシュールにこの世界を切り取って見せるところにあるのかも。どうにもならないコミュニケーションを諦めつつ、それでも私たちは「他者」と/「家族」と/「社会」とつながりながら進まざるをえない。その前向きなあきらめと希望を暗示したラストは、物語全体を包んだ閉塞感を開く爽やかな後味。装置の一部を乗合バスに見立て、主人公の不適応も包み込んだ「We are the world」のシーンは、その意味で実に象徴的だった。


というわけで、はえぎわ「ガラパコスパコス」、オススメです。脚本を販売してくれたらなー。



【補足】
この作品をつくる過程のインタビュー。劇作のモチベーションや仕事への向き合い方を含め、演劇という世界で長く続けている劇作家の心模様が見えて嬉しいような気持ちになる記事。


インタビュアー:
今回、この作品は再演となりますが、初演時(2010年12月こまばアゴラ劇場)に、この舞台を作ろうと思われたきっかけを教えてください。

ノゾエ:
その年の春に、世田谷区の財団から、世田谷区内の高齢者施設を十数箇所廻って、ご利用者さんに演劇やパフォーマンスを見せてほしいという依頼がありまして。その時、今までは曲がりなりにも“お客様は劇場に来て下さるのが普通”といいますか、少なくとも「今日は、劇場に演劇を観に来ました」という想いを持った人たちの前で公演をしていた自分にとって「待ちわびている人が誰もいない中で芝居をやる」ということが、初めての体験だったんです。ご利用者さんにとっては、毎日、ある時間になると始まる“いつもの”レクリエーションの時間で、それが時には音楽であったり、ボウリング大会であったり、なので「はい、今日は演劇ですよ」と言われて、座らされているだけだという。中には認知症の方も多く、感情も反応もとても薄い様子を目の当たりにしました。「ああ、ここでどこまで演劇が届くのだろうか?」と懸念しながらも、一生懸命務めていたら、やがて少しずつですけど、自分が思ってもみないところで“届き始めている実感”を感じるようになってきて、ご利用者の皆さんの表情がみるみる変わっていって、それまでほんと無表情だった方が泣いたり笑ったり、こちらが歌を唄うと、知っている歌だと一緒に唄ってくださったりして。もう職員の方もびっくりされて、普段だと公演を実施した資料として出演者の写真を撮るだけらしいのですが「あのおじいちゃんが笑ってる。あのおばあちゃんのこんな表情見たことがない。ぜひご家族に写真をお見せしたい」と、ご利用者さんの写真ばかり撮られ始めて。
それを目の当たりにして、僕自身初めて、舞台上で涙が出て止まらなかったんですね。
そこから、「老い」というものをこれまでとは違う感触で感じるようになり、芝居の中で「老い」を探っていきたいと思ったのが、この芝居の原点です。

三鷹市芸術文化振興財団HPより引用 http://mitaka.jpn.org/ticket/1306070/

昔ノゾエさんと(観客としてでもなく友人としてでもなく)お話させてもらったことがあって、その時に感じた(シニカルでシュールな喜劇の作風のイメージとは異なり)「飄々とまじめに仕事へ取り組む人」の印象を思い出しました。クリエイティビティやら才能やらの点では全く比較もできないことですが、「作品を発表して評価される仕事」を続けているという意味では同じなので、まじめに作り続けることの大事さを思ったり。作品のできる過程にまで目を向けるのは、劇評としては邪道なのかもしれませんが、仕事のなかで生まれたアイデアによって次の仕事が進化させられていく「仕事道」的な意味でも、励まされる作品だと思ってます。

【備忘録】ままごと「朝がある 弾き語りTOUR」大阪FOLK old book store

「すべてかさねひびけ はなればなれわかれ いつまでもどこまでも ここにある ひかりのおと」(ままごと『朝がある 弾き語りTOUR』、2013年、大阪FOLK)

太宰治『女生徒』をモチーフに、女学生と「僕」の朝の一瞬を、言葉と音で「弾き語る」試み。前作「テトラポット」がストレートプレイだったのに対し、本作に明確なストーリーはなく役者の台詞、歌、動き、電子音で朝の一瞬を切り取る実験色の濃い作品。男性俳優の一人芝居で、存在しない女生徒の朝の一瞬を俳優が説明する。時々、俳優が「休憩します」と言って雑談(MC)の体をとりながら自分自身の朝を語る。俳優(「僕」)の雑談する「朝」は、言葉遊びと反復に重ねられ、そこに存在しない女生徒の朝と接続していく。

興味深いと思ったのは、「ド、レ、ミ、・・・」の音階が、ドイツ語では「ツェー、デー、エー、・・・」、日本語では「は、に、ほ、・・・」と呼ばれることを利用して、台詞に音階を与えた演出。朝の一瞬の風景を切り取る役者の台詞(子音や母音)に音が与えられることで、台詞と連動した音楽(らしきもの)が生まれる。メロディアスな電子音と、「僕/わたし」「今ここ」から「宇宙」までのスケールを行き来するリリカルな台詞に、柴氏作詞作曲の歌も加えられた。柴氏本人による生演奏が拝めるのも、この作家の「ファン」には嬉しいポイント。

ただ、遠近法とリフレインの多用がくどい感じになっていたのと、「休憩」がはさまれることで流れがぶつ切りにされることにもったいなさを感じたのは事実。反復が効くのは、疾走感のなかで畳み掛けるようにそれが発されるか、観客が忘れた頃に意外な組み合わせでそれが発されるかどちらかで、特にBGMとしてのメロディがあると没入しやすいのだが、今作ではそのいずれも寸止めのような形で終わっていた。「かけがえのない一瞬(切り取られた/固まった時間)」の描写が今作のポイントのようなので、このような流れの切り方も計算のうちかもしれないが、成功しているようには思えなかった。

小さな会場で演出家・役者や関係者との距離が近く、開演前・終演後にも飲み物片手に知り合い同士話し込んでいる雰囲気は、「公演」というよりは「演劇イベント」に近い。リラックスした雰囲気で、古書店という空間、奏でられる言葉や音を眺めるひとときとして楽しむには良いのでは。作品自体は「実験」の域だと思うけど、柴作品の行方を追いたい人や、新しい演出の試行錯誤に立ち会いたい人は体験しても悪くないと思います。

NYLON100℃「ゴドーは待たれながら」@大阪ABCホール

「誰だってそうじゃないのか。私は待ち合わせをしている。誰かを待たせている。そう思って、なんとか生きているんじゃないのかね?」(NYLON100°C『ゴドーは待たれながら』、2013年、大阪ABCホール)


サミュエル・ベケットの20世紀を代表する戯曲『ゴドーを待ちながら』を下敷きに、待たれている男の一人芝居を描いた、いとうせいこう作、きたろう主演の『ゴドーは待たれながら』(92年)。今回はケラリーノ・サンドロヴィッチ演出、大倉孝二主演での再演。

待ち合わせの場所も時間も忘れてしまい、靴も合わなくなって出かけられないゴドーは、延々と自問し続けます。「私は一番良いタイミングで登場することができるだろうか、そもそも待ち合わせの時間に遅れているのはどうしよう、いやまだその時は来ていないのかもしれない、怒っているだろうか、なめられやしないだろうか」etc...。主役の大倉孝二は巧く、「待っている人がいるのに出かけていけない、小心者でちょっとひねくれ者の神」を、優れた呼吸と身体で見せてくれます。本家『ゴドーを待ちながら』をぼんやりとでも知っている人なら、切望された神(救済者)がこんなに人間くさいなんてと、または「いるいる、こういう人」等と、まずは笑ってしまうでしょう。
ただ、「設定の面白さ」「あるあるネタ」だけで楽しめるのは1時間が限度。一幕の後半、「まさかコレ、このままラストまで行くわけじゃないよね?」と、一抹の不安が。

しかしもちろん、そんな不安は良い意味で裏切られました。
秀逸なのは二幕。一幕で描かれたゴドーの「人間くささ」のリフレインかと思いきや、「時間も場所も希望も絶望も持たないゴドー」の孤独が強調され始めます。自問自答を繰り返す「小心者の神」に、観客が共感を寄せそうになると、ふいとその共感の手から逃れていく。「私には先などないが、それではすまない者もいる」と観客を暗示して(客席のライトも溶明)、観客(=人間)との断絶をくっきりと示す。最後までゴドーは自問自答と煩悶を繰り返すのですが、もはや私たちはゴドーへの安易な共感の回路から断たれていることに気づくのです。
個々の台詞からは、「これは殻を破れない現代人の物語だ」とか「終わりなき日常の閉塞感を表現している」とか「いやいや、アイデンティティの揺らぎの比喩だ」といった理解へ誘いこむようなキーワードも登場しますが、人間の世界で共有される時間も場所も希望も絶望も持たない神という設定によって、そうした「安心できる説明」は徹底的に拒絶されます。もはやつまらないのか面白いのか分からない。それでも目が離せないのは、舞台上のゴドーの姿に、誰にも理解も共感もされえない圧倒的な「孤独」のありようが立ち現われるからでしょう。

「待たれること」がテーマの本作ですが、私にはゴドーと待ち人との関係が、劇作家と観客との関係にもみえました。特に、喜劇の作り手と笑いを欲しがる観客との関係に。「いつも(いつか)笑わせてくれる」と期待される劇作家や役者の孤独に重なったのは、長く喜劇を作ってきた今回の演出家と役者ゆえかもしれません。
終盤は、観劇しながらも自分の足元がぐらぐらするような不確かさ。「カタルシス」とは無縁のラストに、観終わった後もしばらく動揺さめやらず。「孤独」「待つ/待たれる者」という普遍的な問いを、観客-作り手から成る演劇の基本構造とオーバーラップさせながら描いた本作はやはり前衛で、設定オチ喜劇の形をとった批評として成立させ、醍醐味である「動揺」を存分に味わわせてくれます。

原作の戯曲の素晴らしさは言うまでもなく、効果的に原作を刈りこんだ演出も見事でした。ライティング(影の使い方)にも過不足がなく、戯曲の刈りこんだ部分を補足しながら、抑制のきいた演出。ナイロンの十八番であるアニメーションや映像投影を期待してしまったが、観終わってみるとやはりなくて良かった。変化の少ない2時間の一人芝居を演じきった大倉孝二も、単なる「笑わせてくれる俳優」だけではない実力を見せつけました。

本作で描かれた「待たれること」と「孤独」の関係ももう少し整理したかったのだけど、またの機会に。上の感想を考える際に、参考になったサンカクさんとのtwitter上でのやり取りを以下に引用。(というか、ほとんどサンカクさんに言語化してもらっている感じ。ありがとうございます。)本家、『ゴドーを待ちながら』のケラさん演出も観てみたい。やってくれないかなぁ...。

【2013年4月22日、「ゴドーは待たれながら」の観劇直後(私=mico-mof、友人=サンカクさん)】
mico-mof:「ゴドーは待たれながら」観了。二幕の展開が秀逸。前半、設定オチの作品かと心配になりながら観た。後半、「私が観ているこれは何?(観ている私は何?)」と足元がぐらつくような不確かさを畳み掛けてくる。つまらないのか面白いのか分からない、なのに目が離せないこれは何?と。
サンカク:おお、ご覧になりましたか。「つまらないのか面白いのか分からない、なのに目が離せないこれは何?」、そうそう、私もそういう感想を言いたかったんです。さすが演劇部長。観劇後なぜか動揺してパンフレット買っちゃいましたもん。
mico-mof:同じくw 単純な理解を拒絶してるのに観続けさせてしまうのはやはり良い本なのでしょうね。
サンカク:あと、オリジナル戯曲を読むと、ケラさんの端折り方がかなり上手だなって分かりますよね。ゴリゴリした部分を上手に削りとってストーリーを書かれた文字から役者の身体になじむものに変容させようとしている。
mico-mof:いま引用のために完全版を初めてみて、刈り込みに驚いていたところでした。刈り込んだ分をライティング等の演出と役者の身体で説明しているという感じでしょうか。ケラさんは(自分の本だと特に)説明過剰にしすぎる時があるけど、今回は良い相性でしたね。
サンカク:そうそう、自分の本だと足すことで理想に近づけていくけど、他人の本だと引くことで近づけるしかないから、それがよかったんでしょうね。
(中略)

mico-mof:全体的に、どうしてもこれが書かれた時代背景を考えずにはいられなかったんですが(アイデンティティとか終わり無き日常とか)、ゴドーという存在の「分からなさ」が奥行をもたせている気がしました。希望も絶望も時間も場所も持たない孤独な存在って、想像不能だから。
サンカク:なるほど、これは蒙を啓かれました。そうか、ゴドーを我々の素朴な理解に繋ぎ止めるための文脈が徹底的に排除されているから、観るものに待たれることと孤独のありようについての普遍的な問いを投げかける、というか。
mico-mof:さすが...言語化ありがたいです。一幕はどちらかというと人間臭い素朴な孤独とか寂しさとか焦燥感が描かれるのだけど、二幕は客の安易な共感を突き放す台詞や演出が際立っていたと思うんですよね。だからこそ客は目が離せないというか。
サンカク:うんうん、二幕は一幕のリフレイン的なものか、と客に思わせておいて急カーブを切って予想外の方向へ進むからびっくりしますよね。かと思ったら客席に演者が語りかけるし。翻弄されっぱなし。
mico-mof:で観終わったあと、これは喜劇を作ってきた人の作品だな、とも思いました。笑いをほしがる客との距離の話も内包されてる気がして。これは読み込みすぎかもしれませんが。
サンカク:もう少し広げると、理解したいとか消化したいとか、そういう欲求によって劇中の「孤独」を紐付けして凡庸なところに繋ぎ止めさせてはくれないんですよね。その心もとなさがもっとも劇的に現れるのが「笑えなさ」の出現、というか。
mico-mof:うんうん、紐づけて笑わせたり泣かせたりするのがエンターテインメントの王道ですもんね。だからこの作品はやはり前衛で、設定オチ喜劇の形をとった批評?になってるのだと思います。
サンカク:「設定オチ喜劇の形をとった批評」に関しては、本家の『ゴドーを待ちながら』に詳しい(だけの)人はどう受け取ったのかが気になります。私は耳学問であれとの対比ならシリアスな劇、でも大倉さんだから喜劇?みたいな感じで、視点の設定具合がかわからないまま観た感じなので。
mico-mof:確かに大倉さんじゃなかったらもっと笑いは少なかったかもですね。実は私も(恥ずかしながら)本家のゴド待ちは又聞きの耳学問みたいな感じで、比較できず…。ゴドーの孤独が前面に押し出されている印象を受けるかもしれないですね
サンカク:パンフレットに書いてあったけど、きたろうさんと大倉さんで本家のゴド待ちやってほしいですね。ケラさん演出で。

ねこ的妄想劇場「KAKYO・マスト・ゴー・オン!」

こんなミュージカルを妄想してみました。

「KAKYO・マスト・ゴー・オン!」

時は20XX年、日本。大学進学を希望する受験生たちは、国が実施する一斉試験「KAKYO」を受験しなくてはならなかった。KAKYOの点数次第で、志望の大学に通えるかどうかが決まる。この国家的行事は,「お上」の定めた厳格なマニュアルに従って、全国各地の大学で実施される。
遂行上の最難関は、「英語リスニング」。各受験生には音声レコーダーが配られ、30分間の試験中、質問は筆談、くしゃみも衣擦れもご法度。機器トラブルが起きれば即座に再試験。監督者が対応を誤れば、受験生の学歴人生を左右しかねないうえ、マスコミに「大学側のミス」と叩かれること必至・・・
この国家的行事の「試験監督」として送り込まれるのは、普段「自由に」生きている大学教授等の研究者たち。当日初めて顔を合わせる、専門も職位もコミュニケーション能力もバラバラな研究者たちは、果たしてこのルールだらけ、リスクだらけの職務を無事に終えることができるのか・・・?!

【設定】
地方国立大学X大学の最大教室1203教室、20XX年1月某日KAKYO試験1日目(国語→英語筆記→英語リスニング)。1203教室を担当する試験監督は7名。専攻問わず集められるが、1日を通じて同メンバーが担当(2日目は別チームにシャッフル)。
朝の入試課による説明会からスタートしたKAKYOは、つつがなく進んでいた。しかし、リスニング試験の開始直前、頼れる主任監督者の教授がぎっくり腰に。原因は、毎年厚くなり今や電話帳級の『試験監督マニュアル』(「お上」作成)を始終持ち歩いていたためだった。急遽、控えていた別の教授が代役をつとめることに。リスニング試験直前のトラブルで、教員たちの緊張は高まるばかり。
いざ始まった緊迫のリスニング試験30分間。無事に済んでくれるかと思った開始15分後、まさかのトラブル発生。監督者の対応ミスも手伝って、受験者の一人からクレームまで出てしまう最悪の事態に!
KAKYOを舞台に、様々な背景を抱えた登場人物たちの思いが交錯しながら物語は進み、何とかトラブルを乗り切った夕暮れ。エンディングはそっけない別れ、しかし何か通じ合うものを得てそれぞれの場所へ帰っていくのだった...。


【主要ナンバー】
入試課職員「お上のルール」
「えらいせんせか知らないが、自由すぎるよ学者たち、締切すぎても出さない書類、サボリっぱなしの教授会!この日ばかりは守ってもらうぜ、お上のルール〜♪」衣装は、スラックス+ワイシャツ+ネクタイ+事務用袖カバー、手にはハンコ。内線電話のコール音をベースにポップ・チューンに乗せたアクロバティックなダンスを取り入れる。
若手〜中堅研究者による「Publish or perish」(監督者B C D)
「こんなシステム不合理だ、そもそも俺は学者だし、締切7本、出せなきゃ消えるぜ、Publish or perish!(後ろでコーラス→実験!業績!科研!論文!)」衣装は白衣が分かりやすい。ロックな感じで。
・責任感のある教員によるバラードナンバー「贅沢は言わないわ」(監督者A)
「贅沢は言わないわ、大事な仕事よ、しっかり果たしたい...だけど思ってしまうの...受験生だけじゃなく...監督者にも、ねぇささやかでいい応援の言葉が、欲しーいー♪」
受験生たちの群舞「オトナの事情は知らないけれど」
こっちは人生かかってるんだからしっかりやれよ的な歌詞。できれば制服で、机の上に乗るなどアナーキーな振り付けで、受験中の従順さ・規律正しさとのギャップを思い切り出して。ラップ調。

そのほか,女性監督者が男性中心の職場や社会を嘆く「学歴は得たけれど」、男子学生Aが女子高生Bへの想いを歌い上げる「絶望の国の幸福、それは君」、定年間近の主任監督者が教員人生を懐かしみながらもお荷物扱いされる悲哀を嘆く「あと3年」、など。


【キャスト】
○監督者(7人)
主任監督者(男性 59歳 教授 歴史学:定年退職まであと3年をつつがなく楽しく過ごしたい。古き良き時代の大学教授。昔は優秀だったが今は天然ボケの好々爺。予定されていた主任監督者のぎっくり腰により、リスニング試験のみ突如主任に。もちろん進行の予習はしていない。茶のツイードのスーツ、丸顔、メガネ、ちょび髭。額はずいぶん広くなったが、襟足の短い毛を結っているのがささやかな反骨心。口癖は、「アレ?まずかった?」。
タイムキーパー(女性 50歳 教授 財政学):簡素な身なりでリジッドな性格。男性中心の大学組織に不満とあきらめを募らせている一方で権威に弱く、「上には従順に、下には厳しく」がモットー。チャコールグレーのロングスカートとジャケットのツーピース、痩せ型、ショートヘア、丸メガネ。
監督者A(女性 42歳 准教授 生物学)ハキハキしたしっかり者の美人。天然ボケの主任監督者にかわり、1203教室の実質的なリーダー。白デニムパンツ、ぴったりした赤のハイネックニット、ターコイズのネックレス、メガネなし、セミロングorショートのパーマヘア。背筋をぴんと伸ばして常に口角をあげている。バラードナンバー「贅沢は言わないわ」のソロあり。
監督者B(男性 36歳 講師 政治学知的なルックスと穏やかな語り口で女生徒から大人気だが、本人は困惑気味。リスニング中の筆談で,受験生から「先生の携帯番号教えて」と書かれ動揺→「質問には答えません」で難を逃れるも、報告書に何と記載するか思い悩む。後に思わぬ事件に。細面の長身、メガネ、TOMORROWLANDとかで売ってそうなアースカラーのおしゃれカジュアル。
監督者C(男性 44歳 准教授 物理工学):KAKYOのような不合理かつ官僚的なシステムに反発しているが、現場では典型的な「われ関せず」。試験中に受験者が挙手しても対応できないので見て見ぬふり。真ん中わけの髪型、紺のスーツか紺のブレザー(アイビールック風でもOK)、メガネはあってもなくてもよい。無表情。
監督者D(男性 33歳 任期付き助教 無機化学:忙しすぎるうえに任期付きのため大学への忠誠心もあまりない。これ以上時間をとられることに怒りを感じている。短髪、ジーンズにとっくりセーター、紺かグレーのフリース(雪柄)、メガネなし。生気がない。
監督者E(女性 31歳 任期付き助教 心理学)着任したてで右も左も分からない。職場に慣れようとやる気をアピールしているが、だいたい空回り。作品のなかではナレーター的な役割も果たす。ベージュのフレアスカートテーラードジャケット

○入試課職員(3人)
入試課長(男性 46歳):お上の指示を守ることが至上命題。融通はきかないが抜けているところも。官僚的な説明が超絶わかりにくいことで有名。
入試課職員A(男性 35歳):仕事の早い器用者。愛想は良いが裏表がある。教員の悪口を陰で言いながらも、偉い先生にはお上手を欠かさない
入試課職員B(男性 28歳):口下手で生真面目。3年前に民間企業から転職してきた。昨年には娘が生まれ、日々を平和に過ごしたいと思っているが、上司や教員の尻ぬぐいで残業続き。入試シーズンにはいつも円形脱毛症を発症。

○受験生(4人)
女子高生A(18歳)神経質な優等生。「格差シャカイ」がどんなものなのかはよく分からないが、自分は東京の大学へ行って勝ち残りたいと思っている。リスニング試験終了後、受験環境に苦情を言う。
女子高生B(18歳):親や学校に言われしぶしぶKAKYOを受けにきたが、勉強は苦手だし女が学歴をつけても幸せになれないと思っている。母(45歳)がフルタイムで仕事を続けてきたものの、愚痴ばかりで嫌気がさしている。将来はエリートと結婚して専業主婦になりたい。KAKYOの試験監督を大学の先生(エリート)がやっていることを知っており、監督者Bにアプローチする。
男子学生A(18歳):女子高生Bに恋心を抱いているが、勉強はやる気が起きず上昇志向も皆無。日本の将来は暗いとか若者に気概がないとか「ゆとり」「さとり」とか言われるが、地元や実家を出たくないし、将来に期待もない。好きな人と一緒に地元で「平凡な暮らし」がしたいだけなのに、どうしてわかってくれないんだろうと不思議に思っている。
浪人生A(19歳):挙動不審または虚弱体質で騒音を発生。

○その他(特別出演)
当初予定されていた主任監督者(男性 62歳 教授 法学):若い頃に留学していたイギリス仕立てのスーツを着こなすロマンスグレー。学内の要職を歴任し、学会でも重要人物。人柄は堅実かつ温厚、多方面から信頼が厚い。定年を迎えるため、監督業務を担うのは今年が最後。張り切ったものの、ぎっくり腰の不幸に見舞われ主任監督者を交代。


以上。うーむ、やはり受験生の年代が何を考えているのかわからないから、頭でっかちな設定になってしまいましたが・・・;


単純な「常識知らずの大学教員批判」でもなく「官僚的なKAKYOシステムに巻き込まれる研究者たちの愚痴」でもなく、大学という職場の内部と外部(=世間)の関係であったり、そんな大人の事情はともかく学歴社会の入り口に立つ必死な受験生たちであったり、それに直面してエゴ丸出しでもいられない研究者たちであったり、そういう多様な立場の人々の思いが交錯する場としてKAKYOを描きたかったのでした。


「袖カバーつけて歌い踊る事務職員が観たい」というビジュアルから入ったこの妄想をこんなに膨らませてしまうとは、バカですね。こんなことしてたら週末も終了。決して暇なわけではないのですが・・・。でも、こんなアイデアどう?などのご意見もまだまだ募集中。


※この妄想劇場は、完全なフィクションです。現実のセンター試験とは何の関係もありません。
※監督者Bを除きモデルはおりません。

【備忘録】劇団ロロ「LOVE02」@京都

【備忘録】劇団ロロ「LOVE02」@京都 2012年10月
「父母姉僕弟君」があまりに衝撃的だったので、劇団ロロ(というか三浦直之)がほぼ一貫して描き続けてきたテーマ「ボーイ・ミーツ・ガール」の集大成といわれている「LOVE02」の再演を観に。「父母〜」が従来のロロ作品から飛躍した云々という劇評を読んだことがあったのだけど、私にとって「父母〜」がロロ作品初体験だったので、ロロの代表作的なものを観たくて。

結果、大変に完成度の高い作品で、前売り2500円、当日でも2800円というのは大変に安いなと。「新しいものを観た」という後味が強い作風なので、演劇好きな方にはぜひおすすめしたい。

ストーリーはきわめて単純で、登場人物たちがだれかに出会って恋をしてそれが叶ったり叶わなかったり壊れたり修復したりする様子を抽象度高くSF的に描きながら「LOVE」の美しさとせつなさを表現、という感じの作品です。「父母〜」では前半のナンセンス強すぎの展開にポカーンとなってしまう人も(私ですが)、こちらは割と観客フレンドリーなエンターテイメント風味で安心感あり。登場人物たちの衣装はすべて白で統一され、装置は抽象、ライティングもロマンティックでセンチメンタル。途中で挿入されるモーニング娘Perfumeサザンオールスターズはポップな印象。このへんの組み合わせには、センスの良さを感じずにはいられませんでしたね。

とはいえ、テーマである「ボーイ・ミーツ・ガール」は、30歳すぎてしまった私には少々遠いテーマでもあり、涙を誘うクライマックスでもあまり泣けず。恋のテーマであまり泣けないってのもオバサン化のようで寂しくもあるのですが・・・。まぁ、恋に限らず出会いの嬉しさと別れの寂しさというのはあるし、男女に限らず人間関係のままならなさというのは30すぎてこそひしひしと感じるということもあるのですがね。どうにも、「アラいいわねー、若い人は」的な感覚になってしまう。それでも、物語としては面白いし感動もできるし、演出方法は見どころ満載なのでおススメですけれどね。

比べればやはり、「父母〜」はそれまでの「ボーイ・ミーツ・ガール」的なテーマから、ひとつ普遍性を上げた作品だったのだなと、それを確認できたことはよかった。

しかし、ままごとにせよロロにせよ、この「新しいものを観た!」感はなんなのだろうと思ってしまいます。従来の演劇と明らかに違う、違うのに言語化できないもどかしさ。で、色々検索してたら「ポストゼロ年代演劇」で評論があって、ロロの前に「新しいものを観た」と思った「ままごと」の柴さんもこれに分類されている。

演劇コラムニストの中西理氏の「ポストゼロ年代演劇」↓
「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第2回 ロロ=三浦直之」WEB講義 - 中西理の下北沢通信(旧・大阪日記)

正直、ポストモダン論に不勉強なのでようわからんのと、ここに挙げられている劇団・劇作を「ポストゼロ年代」なる特徴でひとくくりにできるんだろうかという疑問もあるけれども、新しい潮流があるというのは確かなことのよう。
物語構造もさることながら、ロロにせよままごとにせよ、音楽の使い方/とらえ方が印象的で、ミュージカルとの境界が薄いという感じがする。上の評論では「感動させることを厭わない」とあるけれど、従来の現代演劇では「ベタ」と一蹴されてしまうような表現や演出でも、抵抗なくそれを取り入れていく(もちろん新しい技術を上手に使いながら)のが印象的。
それから、ままごとは役者・セリフの配置と動かし方がとてもユニークなのだけど、ロロの場合は光の使い方が圧巻です。おそらく技術的な進歩というのもあるのだろうけれど、照明演出技術の格差が拡大しているように思える。
そういう個別具体的な音楽・照明・装置の演出方法に関する評論が読んでみたいのだけど、どこかないのかしらん。

ナイロン100℃ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏も注目しているロロ。ケラ氏のtwitterでは、「ロロ「父母姉僕弟君」。おそらく多くの観客とは違う意味で泣けた。ざっくり言うと面白かったし、俺たちが20代半ばの頃に作っていた舞台と比べると五倍はしっかりしていた。それでも作演の三浦くんには色々と言いたいことがある。向こう5年ぐらいが勝負だと思う。観てよかった。」と言わしめる若い才能。今後も注目していきたいものです。


以下、オフィシャルサイトより。

ロロ 京都→仙台ツアー公演
KYOTO EXPERIMENT 2012 フリンジ "PLAYdom↗"参加
『LOVE02』
『LOVE02』は誰かの想いがほんのちょっとだけ別の誰かに届いて、その別の誰かの想いが、そのまた別の誰かにほんのちょっとだけ届いて、 そうやって想いが波及してゆっくり広がっていく景色を夢みながらつくりました。
この作品がもっとずーっと遠くまで波及していくように、そんな景色を夢みながら乗り込みますっ。
正夢にしますっ。
三浦直之
脚本・演出
三浦直之
出演
板橋駿谷 亀島一徳 篠崎大悟 望月綾乃 森本華(以上ロロ)
金丸慎太郎(贅沢な妥協策) 北川麗(中野成樹+フランケンズ) 小橋れな
島田桃子 高木健(タイタニックゴジラ)
スタッフ
照明/工藤雅弘(Fantasista?ish.)
照明オペ/菅原和恵
音響/池田野歩
音響オペ/角田里枝
美術/松本謙一郎
衣裳/藤谷香子(快快)
舞台監督/鳥養友美
演出助手/中村未希
宣伝美術/玉利樹貴
仙台公演制作協力/森忠治
制作助手/横井貴子
制作/坂本もも