2009年最後のエントリーと 個人的な時代感について
すこしはやいですが、
明日から遠出のため2009年最後のエントリー。
ちなみに昨年末は、
「あたりまえに良いことをあきらめない」。
http://d.hatena.ne.jp/sotacafe/20081231/1230726266
習慣は時間とともに生活の一部になる。
声高に語らなくてもあたりまえになる。
そんな一年でした。
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個人的な時代感について。
〈昭和の精神〉から、わたしたちがいま学ぶべきことはなにか?
生きるうえで必須であったはずの「貧しさに対する共感」のこと、
負け方を忘れた日本人のこと、労働とは本来生き延びるための手段であること……。
未来を前向きにもちつつも、
その前向きゆえに見えていない(みていない)ことにも
目を向けるころかと。
・・・
弱さや貧しさを肯定しながらも
タフに生きることが必要なんだとおもう。
・・・
最初に会社に入った会社をやめて無職になったときに、
じぶんはどう働いて、生きていきたいかを紙に書いておいた。
それから4年経って、久しぶりにその紙をみつけた。
当時のじぶんが目指していた場所に近いところにいると、気づく。
そして目指していた場所から、より長い道が見えるようになった。
・・・
2010年は、すこし遠くまで来て
また新しい道を歩む年にしたい。
まだまだたくさんの人と会って、
本を読み、まなび、考え、話していきたい。
そうおもいます。
今年も1年間、ありがとうございました。
Twitterでは比較的コンスタントに発信しています。
http://twitter.com/sotacafe
もちろん、ブログも続けます。
深夜の散文でしたが、
来年もよろしくお願いします。
続・才能の測り方
前回の、苦労という自己満足に関連して。
「才能の測り方」2009/3/14
http://d.hatena.ne.jp/sotacafe/20090314
・・・
才能は「アウトプット」(作品)ではなく、
その活動で引き出される「快楽の総量」で測るという。
「快楽の総量」に明確な基準はない。
けれど、作品をみてその人の仕事にひかれることがある。
小説がおもしろい、映画に感動する、写真に絶句する。
作品というモノより、生み出すヒトにひかれる。
・・・
ただし、それはマネやあこがれではたどりつかない。
「いいな」とおもっても、解決しない。
だから、<自分の「快」を探求する時間>が要る。
仮に研究時間とよぶ。
研究時間は仕事ではないし、趣味でもない。
でも、この活動は、生きていく上で必要なもので、
そこからしから、ほかの人をぬきんでる(たぶんそこに比較はない)
人を動かすモノはでてこないのではないか。
そんなことをおもう。
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じぶんのためのアウトプット時間(研究時間)をつくる
苦労という自己満足
ある人とのやりとりで、なるほどとおもった。
「苦労というのは、ときとして自己満足になってしまう」
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たしかに苦労は、自己満足(陶酔?)になりがち。
がんばること、無理をすることも含めて、
それだけでなにかをやったような気になってしまう。
自戒の意味でこの言葉が、響く。
黙々とやることも必要。
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たまには、ただ淡々と、やる。
読むことは、本にのこされた沈黙を聴くことである。
引っ越しをした。
いつも、引っ越しの度に
3000冊近くある本を10分の1にする。
これが、個人的な引っ越しの通過儀礼。
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時間のなさをいいわけに、今回は
10分の7くらいにしかなってない。
そこで、少しずつ減らしはじめる。
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長く本棚に残る本にはある共通点がある。
読むことは、本にのこされた
沈黙を聴くことである。
無闇なことばは、人を幸福にしない。「聴くという一つの動詞」
(『世界はうつくしいと』長田弘)
読むことは聴くこと。
沈黙が聞こえてくる本は、自然と長く残る。
それは、長い時間を経た本であり、
言葉のむこうに語る人の静かな声や間が
聞こえてくるような本。
沈黙が聞こえなくなったら、
時間のながれがはやくなりすぎたら
今、なにかをまちえがてる
と、おもうことにしている。
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静かな本を読む