「英語」はそんなにスゴい言語か? ⑤ イギリスはヨーロッパではない!?

ドイツは西南部、デュッセルドルフ市にはライン川にかかる大きな橋が3本ある。どれも見通しが良い大きな橋なのだが、そこを車で走っていると、たまに奇妙に車線をフラフラ危なっかしくよろめきながら走っている車を見かけることがある。
近づくと、案の定右ハンドル。勿論大陸は左ハンドルである。右ハンドルの車でドイツの右側通行の道を走っているから、そういうことになっているのである。
これは何を意味するか?その右ハンドルの車は、まさか日本から来たわけではなく、イギリスから海峡を渡ってきた(旅行なのか?ビジネスなのか?)車が走っている、ということである。
この手の車に対するドイツ人の反応は手厳しい。運転する人ならば、フツーのドイツ人オバサンでも、イギリスからの右ハンドルの車については「彼らは危険だ。信じられない。彼らはドイツの道を走ってはいけない。」と言うし、タクシーの運転手さんに至っては、窓を下ろして悪態をついているのを何度か見たことがある。それくらい、右ハンドルの車で、右側通行の大陸を運転するのは危なっかしい、ということだ。更にドイツ人が言うには、「イギリス人はkomisch(=strange)である、何故イギリスだけ右ハンドルの車を作り続けるのか?」らしい。
事程左様に、イギリスとイギリス人、というのは日本におけるイメージとはかなり違うようなのだ。

私が感じた、ヨーロッパ人から見たイギリスとイギリス人とは、
・辺境(田舎)
・変人、変わっている、しかも変人であることを悪いとは思っていない
・英語以外は喋れない(2カ国語以上を喋る人が大陸では珍しくないのに)
・イギリス国教といい、王室といい、 大陸とは違って変わっている
・大陸は左ハンドルなのに、イギリスは右ハンドルで変わっている
・大陸はユーロなのに、未だにイギリスはポンドを固執していて変わっている

私が一番驚いたのは、ヨーロッパ人が真顔で、
「イギリスはヨーロッパではない。」
と言うことだ。私たち極東の国民からしたら考えられないことであるが、どうも一般的にそう思われているフシがある。
反対に、私たちから見たら旧ソ連のイメージが強くてとてもそうは思えないのだが、
「ロシアはヨーロッパである。」
と言うんですよね、ヨーロッパ人。
ヨーロッパは深い!

逆にイギリス人の英語の先生(一筋縄ではいかないおじさん)に、同じ質問をしてみた、「イギリスはヨーロッパなのか?」と。
答は、
「Definitely NO!!!」
だった。そしてこう言った。
「イギリス人はフランス人が作るワインが大好きだ、それは酔っている時には作った奴らのことは忘れていられるから。またイギリス人はフランスが大好きだ、もしフランス人がそこに住んでいなかったとしたら。」
「ドイツ人は、pig-headded で、考えなしに行動する。ドイツ人がイギリス人の半分でも考えることをしたら、ドイツは戦争に負けなかった。ドイツ人女性は、世界で一番醜くhorribleだ、何故ならユーモアを全く解さないから。」
・・・個人的偏見も多分に入っているとは思うのだが、言いたい放題である。そして、自らのアイデンティティをヨーロッパの構成メンバーの一員に求めるのではなく、寧ろ好んで大陸と一線を画しているのがイギリス人?

つまり、ヨーロッパにおいては、
変人、変わっている、というのがイギリス人のキャラ
のようなのだ。

だからだろうか。「変人の言語」である英語に、緊張感もなければ、英語は特別なもの、という感じが全くないのである。


日本人が英語を喋ろうとすると緊張する、というのは何故なのだろうか?外国語だから?じゃあ、中国語や韓国語を喋る時、同様の緊張をするだろうか?

これはきっとアメリカに負けた後の戦後教育の中で、意味もなく「英語」に特別な意味を付与してしまったんだと思う。
「英語を喋ることはエラい/英語を喋る人はエラい/英語はエラい。」
という意味を。
また、何故か日本人はイギリスを過大評価して、一方的に親近感を持っているようだ。
大英帝国」という訳語は、「British Empire」に日本人が勝手に「大」を付けて訳した語であり、日英同盟を結んだ相手のイギリスを持ち上げることによって、自らのポジションも上げようとしたのかどうかはわからないけれど、そう思っているのは、もしかしたら日本人だけかもしれない。
イギリスが七つの海を支配した時代でさえ、植民地ならいざ知らず、ヨーロッパ大陸にいる限り、「イギリスは偉大だ」という実感は湧かなかっただろう。

だから大陸の住人にとって英語は「特別な言語」ではないのである。今便宜的に「世界共通語」になっていて、ビジネスにおいては英語を喋ることが必要だから、という理由だけで英語を学んでいるようなのだ。

これは言語としての英語にとって、必ずしも幸福なことではないかもしれない、と私は経験から思う、英語が単なるツールと看做され、それ以上ではないからである。大学も出た教養がある女性で、「シェークスピア」の名前しか知らず、「ベニスの商人」も「リア王」も知らない、というドイツ人に出会ったこともある。彼女が例外ではなくて、ドイツ人向けの英語のクラスでも、「シェークスピア」の名前さえ知らない、という人が大勢いた。ていうかそれでも英語を学びに来ているのだ、ツールとして。

私はドイツ滞在中に、色々な英語のクラスに行った。
イギリス人が教えるものもあれば、ドイツ人が教えるもの、ギリシア人(!)が教えるもの、様々だったけれども、そこに習いに来ているドイツ人の英語といったら、文法はいい加減。どころか、まあ元々似たような文法だからだろう、却って文法習得には全然熱心ではない。英語独特の文法には無関心である。
例えば、日本だと中学3年生で習う「現在完了」。私は数十年経った今でもちゃんと覚えている。現在完了とは、用法が4つ(4Kと覚えるのだ!)あり、それは、継続、経験、完了、結果。英語得意な中学生なら誰でも知っているだろう。
ところが、ドイツ人はかなり英語が喋れる人でも、これが全然わかっていない!
クラスの中で英語の「現在完了」を理解しているのが、東洋人の私一人だけ!、という状況が多々あった。それはどうしてか?
ドイツ語は、というかフランス語もなのだけれど、英語における「have 動詞プラス過去分詞」という形は、話言葉で単純に「過去」を表すのである。英語における「現在完了」というものは存在しないのだ。だからドイツ人は面白い。英語のクラスでは最初に必ずある英語の自己紹介の時、例えば「現在完了」をカンペキに理解している東洋人であるところの私が、
「私は2年前からドイツに住んでいます(継続を表す現在完了形)。私はイギリスには行ったことがありますが、アメリカには行ったことがありません(経験を表す現在完了)。・・・(中略)先週私はイギリスから来た友人と会いました(過去形)。」
と話すと、私の後に自己紹介するドイツ人は皆、滅多矢鱈と現在完了形を使って喋り始めるのである、勿論用法は合っていない。「私は去年アメリカに行った(過去形であるべきなのに現在完了を使う)。ニューヨークとワシントンに行った(同じく)。ニューヨークの友達のところに3泊し、ブロードウェイを見に行った(同じく)。」全て「have 動詞プラス過去分詞」で得々と喋るのである。ドイツ人単純というか、英文法わかっていないというか。

でも、彼らを理解することはできる。文法としては、英語などに比べて、ドイツ語は遥かに精緻でロジカルな文法だからだ。っていうか、英語は、言語としては実はそんなに大した言語ではない、のだ、元々。
中学校で英語を習い始めた頃、こう思ったことはないだろうか?
・どうしてmustの過去形はないの?
・どうして動詞によって不定詞と動名詞をとるものがあるの?
・schoolの「oo」は「u:」なのに、どうしてbookの「oo」は「ʊ」なの? the は「ðə」なのに、thinkは「θɪˈŋk」なの?
等々。つまり、
英語は、つぎはぎだらけ、欠損だらけ、例外だらけ、の言語
ということなのである。
何も知らなかったいたいけな中学生だった私は、それでも一生懸命例外だらけの英文法を勉強したものだ、何故なら、「未知の言語」の選択肢は英語しかなかったから。それと、「英語はスゴい。」「英語を喋ることはスゴいことだ。」という、根拠のない刷り込みをされていたからだろう。

その点、何の偏見もないドイツ人の英語は豪快である。前述の英語を習いにきているドイツ人も、インターナショナルスクールのドイツ人父兄も、とにかく知っている限りの単語を、ドイツ語を英語に並行移動したと思われる文型に押し込めて、喋ること喋ること!元々「黙っていることはお馬鹿の証明である」*1国柄であるからして。
最初は慣れてないから感心してしまう、「すごい、英語も喋ってる!」と思うのだが、よく聞いてみると、文法も滅茶苦茶、決して多くはない単語数で、とにかく「言いたいことを相手にわからせる」という気合いだけで喋っているのである。嘘だと思うならば、例えばサッカー選手でもいい、F1レーサーのシューマッハでもいい、街角でインタビューされて英語で答えている普通の市民でもいい、彼らの英語を冷静に聞き取ってみると、きっと同じ感想を持つと思う。
逆説的なのだけれど、ドイツ人は英語に対して、何ら思い入れがないからこそ、伸び伸びと喋っていて、結果コミュニケーションがとれているのである。大体、英語が喋れない人でも、臆することがないから。お店のおばさん/おじさんに英語で何か聞いて相手がわからなくても、全然すまなそうな感じではない、寧ろ「ドイツ語喋れ!」とばかりに開き直ってさえいる*2
翻って、それが日本ならばどうだろうか?外人に英語で何か聞かれて喋れない場合、慌てる?逃げる?後で落ち込む?とにかく「英語が喋れることはステイタス」という変な思い入れがあるから、却って喋れないのではないかと思う。

で、上述のようなことならば、日本における外国語教育の将来は、私がかねてから(?)主張しているように(シリーズ①〜④をご覧ください)、英語以外の言語を第一外国語として広く学校教育に取り入れることにある。
言語としては不完全だけれども「デファクトスタンダードな世界共通語」だから学ぶ、という生徒は英語を学べばよいし、地域的特性から、ロシア語、韓国語をやるのもよし、英語世界とは違う世界で活躍したいと思うならば、中国語やアラビア語を学べばよい。
そうすれば今よりももっと伸び伸びと外国語を学ぶことができるだろうし、「幼稚園から英語塾」みたいな愚かなことはなくなるだろうし、子供の価値観も少しは多様化するだろうし、入試においても基準が多様化するのは競争を緩和することになるだろう。

強調したいのは、それで結果として、「人が資源」の日本の国力も高まるのではないか、ということなのだけど。