「結果が全て」と、安倍首相は言う。

テレビはあまり見ない私ですが、国会中継は割とよく見ます。テレビに張り付いてしっかり見るわけではないのですが、「議論」を見るのが好きなのです。議論を「聞く」ではなく、敢えて「見る」と書きましたが、映像というのは恐ろしいほど全てをそのまま映してくれるもので、議論という言葉のバトルのみならず、議論している人について画面に映る全てのものを含めてそれを「見る」ことが好きなのです。

ニュースで国会審議の一部を抜粋して取り上げていますが、中継で見ていてそしてニュースを見ると本当に「編集」というものの恐ろしさを感じます。取り上げ方に編集が入るのは「マスコミ=mass コミュニケーション」ですから仕方ないというか当たり前として、先ずどの場面を取り上げるか、ということからして編集者の意図が入るわけですが、取り上げることも難しい「場の空気」というものは、ニュース映像でも全く伝わらないのだと思います。


というのは。
直近の国会中継、衆参両院の予算委員会を見ていて、第96代日本国総理大臣安倍晋三の物言いにものすごく違和感を感じたのです。(以下、衆議院インターネット審議中継のビデオライブラリより安倍首相の民主党議員に対する答弁


「政治は結果ですから。民主党政権、残念だけど、3年間やってできなかったじゃないですか。我々はまだ2ヶ月なんだけど、これは変わりつつありますよ。」


自由民主党は長い歴史と伝統の上に裏打ちされた責任感を持っています。先ほど法案が成立した率(註:第一次安倍内閣での高い法案成立率のこと←民主党細野氏が「当時民主党が責任ある野党として国民に必要と思えば与党案にも賛成したからだ。一方自民党は野党時代、与党案には悉く反対した。」という例示として言った)をおっしゃった。これが結果なんですよ、皆さん。どうやって結果を出すことができるか、それを私たちは知っているんですね。皆さんは申し訳ないんですけど、それを知らなかったんですよ。それが成案率になって表れている。皆さんも選挙の結果も謙虚に受け止めた方がいいですよ。そういうことも含めて我々も謙虚に受け止めたんです。だから今回選挙で勝つことができたと思うんですよ。」


民主党政権において岡田さんが胸を張って言えるような状況だったんですか?そうではなかったからこそ、私は選挙の結果においてですね、こういう政党には残念ながら政権を任せるわけにはいかないという結果になったんだと思います。」


「例えば私は株価の上昇に一喜一憂するつもりはありませんが、御党から我々に政権が変わっただけでですね、年金の運用に5兆円プラスになりました。」







「結果が全て」と安倍首相は言います。
政治に限らず、ビジネスにおいても、入学試験においても、その他の諸々のことに関しても、確かに今の世の中結果が全てなのかもしれません。けれども、国会の答弁で盛んに安倍首相が誇っているのは、自らが為し得た「結果」ですらない、というか、安倍政権になって予算案はまだ国会を通っていない、1円だって予算が執行されていない状況で、「結果が全て」と言い、「結果」を誇るのには、強烈な違和感を感じます。
そもそも昨年暮れの選挙では、テーマが分散されて、一番の争点が「景気回復」なのか「原発」なのか「年金と社会保障制度問題」なのか「憲法改正」なのか「TPP」なのか「消費増税反対」なのかわからないまま、結局は「民主党にはうんざり」という最大公約数的気分で自民党が圧勝したようなものなのです。安倍政権になって、ムード先行で景気が良くなっていることを喜ばない国民はいないと思いますが、かと言って選挙で自民党が掲げた政策に全て賛成である訳はないのですから、岡田氏や細野氏でなくても「総理の物言いは傲慢である」というのは、私も感じたところです。

最近の発言には出てきませんが、安倍首相も選挙前には、
「私は一度挫折した人間です。病気で総理という役職を退くしかなかった。それが新薬の劇的な効果で病を克服し、もう一度政治にチャレンジすることができた。再チャレンジできることを示したい。」
というようなこと(←これは私の記憶)を言っていました。安倍氏の他の政治的傾向には賛成しかねる私ですが、この発言だけは拍手を送りました。年功序列で積み上り、一度でも失敗したり階段を踏み外すとなかなか再チャレンジできない風土の日本で、一度は失意と不名誉の中で退陣した総理大臣が、再び政治の表舞台のトップに立つことは、素晴らしいことだと思ったからです、例え、一般庶民とは違って安倍氏がウルトラ世襲議員で選挙区では決して落選の心配がない恵まれたバックグラウンドを持っているにしろ。
しかし安倍総理大臣の場合、選挙で大勝して日を経ないうちに、不遇から這い上がってきて再チャレンジした人間ならば持つであろう「謙虚さ」は消えてしまい、まだ為し得てもいない「結果」を高らかに誇り、逆にぼろぼろのどん底に落ちた民主党を「残念ながら」「申し訳ないけど」と皮肉を交えて侮辱する、という、一国の総理大臣の振る舞いとしては少々高潔さに欠ける状態になってしまっています。
この安倍氏の振る舞いは、何故か周りの人間を黙らせてしまうようで、侮辱された民主党側も逆に人が良いというかお行儀が良いというか、総理大臣という最高の役職者に対する敬意で辛うじて踏みとどまっているというのか、人間として最後の情けを持っているというのか、その安倍氏に向かってそれ以上の反論なしに黙ってしまうのです。
予算委員会安倍氏の横に並んで座っている麻生氏や谷垣氏。彼らが仮に「再チャレンジ」してもう一度トップに立ったとしても、安倍氏のように、身も蓋もなくあけすけに選挙結果を誇り、野党が政権時代に無能であったことを皮肉ったりはしないであろうと思われるのですが、彼らも黙っているんですね。安倍氏の言う「結果」は出せなかったかもしれませんが、5年前の安倍氏の辞任以降福田氏から「総理」のバトンを引き継いだ麻生氏、野党時代の自民党を率いて踏ん張った谷垣氏、彼らの功績なくして今日の安倍氏はなかったとも言えるのですが、彼らをしてさえ、「結果が全て」と言い募る安倍氏に対して、「謙虚になるように」という苦言の一つも言うことができないかの如くです。それほど「結果が全て」という安倍氏の言は、人を黙らせてしまうのです。
この安倍氏の振る舞いは、安倍氏自身が副官房長官、幹事長として仕えて間近に見ていた小泉元首相に似ているといえば、似ています。経緯は無視して、とにかく選挙で圧倒的勝利を収めた「結果」を錦の御旗にして、対野党は勿論、自党の反対者に対しても「そこのけそこのけお馬が通る」と言わんばかりの政権運営をした小泉氏に。
そしてマスコミもまた、この安倍総理の振る舞いに対しては口を閉ざして黙っているように見えます。何故か?それは円安が進み、株価が上がっているからです。日本が20年間苦しんだ不景気が漸く終わろうとしている気配があるのに、そこに水を差したと思われるようなことは恐くてできないのでしょう。

そして、「結果」を誇る安倍氏アベノミクスとやらで目指す「結果」とは何なのか?
一般投資家の株式投資が活発になり、不動産の値段が上がり、世の中が好景気に湧く時代の再来なのでしょうか?
高度成長期にはまだ小学生だった私にはその当時の世の中のことはわかりませんが、公共工事でじゃんじゃん道路や橋やトンネルを作ったツケが今回ってきていることや、その時代に「美しい国」日本の美しい海岸線の多くが工場群やコンビナートに占拠され今もそのままであることや、公害や原発もその時代に生まれたものであることは理解しています。「繁栄しさえすれば(結果さえ出れば)よい」ということだったのでしょう。
バブル期には大学生でしたから鮮明に覚えていますが、確かに当時は株価は上がり、不動産価格は天井知らず、日本中が金の亡者というか、財テク(←懐かしい言葉)に走り、「儲かる」と言われれば、やれ一時払い養老保険だの10万円銀貨だのゴルフ場会員権だのリゾートマンション会員権だのに(←どれもこれも懐かしささえ感じる単語です!)、人々は殺到しました。はい、私も参加しておりましたよ、その気違い染みた熱狂に。企業であれ個人であれ、「財テクせずんば人にあらず」という時代だったではありませんか。それは言い換えれば、「お金さえ儲かれば(結果さえ出れば)よい」という風潮でした。
その後バブルがはじけて以来の20年間、デフレで不景気だったとはいうものの、或る意味日本全体が、第二次世界大戦以降、初めて落ち着いて自らを省みる事ができた時代ではなかったかと思います。そして記憶に新しい2年前の3月11日、日本は正に存亡さえ危ぶまれるほどの大災害にみまわれ、誰しもが自分自身について、そして何の疑問も抱かずに享受していた現代文明の恩恵について、立ち止まって省みることを余儀なくされたのではなかったでしょうか。
勿論、いつまでも不景気が続いていいはずもなく、20年経てば不景気の皺寄せが、若者や生活弱者と言われる人々に顕著になっている今、新たな行動は必要だとは思いますが、それが目指す「結果」があの高度成長期やバブル期の再来では、ね。
デフレも不景気もうんざり!と多くの国民が思っていることは確かですが、繁栄と引き換えに国土の荒廃をまねいた高度成長期や、一億総「金の亡者」になったバブル期の再来を願っているかと言えば、それは全く違うのではないかと思います。




元々「結果が全て」という言葉は、スポーツ選手が使っていた言葉ではなかったかと思うのです。そしてその使われ方は、ライバルや先人の失敗を言い募るためのものでは全くなく、勝利や大記録を期待されていた選手が、本番では努力の甲斐なく負けてしまったり記録を達成できなかった時に、自らに厳しく言う言葉ではなかったでしょうか。彼らは血の滲むような練習をしてきて万全の努力をしてきたのにも拘らず、たった一度の本番では勝てなかった、記録が出なかった。そして言うのです、「結果が全て」「応援して下さった方に申し訳ない」と。けれども、人々はそうは思わないのです、安倍首相とは違って。例え結果が出なかったとしても、彼/彼女のやってきたことに対して私たちは称賛の拍手を送り、彼/彼女が限界まで挑戦したことに私たちは畏敬の念を抱くのです。彼/彼女自身、やはり「結果」を出せなかった先人やライバルに対して同じように尊敬の念を抱くでしょうし、彼/彼女をずっと支えてくれた周囲の人には感謝の気持ちを忘れないと思うのです。そういう文脈の中での「結果が全て」なんじゃないかと思います。逆にスポーツ選手は、失意の成績に終わってしまったライバルに対して「結果が全て」などという、スポーツマンシップに相応しくない言葉はかけないでしょう。


ですから、自らの努力が報われなかったことに対する言としてではなく、自分だけの功績でもない選挙の勝利や、前政権の失態や、市場の勝手な反応を取り上げて「結果が全て」と言い募る安倍首相のこの言葉遣いに私は違和感を抱いてしまうのです。一国の総理大臣であり、何より「再チャレンジ」を経験した方の口からの「結果が全て」という物言いは相応しくないのではないかと思います。そして総理の言葉は、重いのです、例えニュースでは編集されて取り上げられないとしても、その言葉が醸す空気は日本という国にじわじわと広がっていくことでしょう。既に私が見ていた国会の予算委員会の議場にはその空気がありました。それを考えた時に、「結果が全て」という酷薄な空気が広がってよいのかどうか。その結果本当に「美しい国」が作れるのかどうか。
安倍首相が遠くない日に自らの言葉にしっぺ返しをされないこと、そしてこの国が再び多くのものを経済的繁栄の犠牲にしないことを願わずにはいられません。