濃くて、勇気ある一冊、ジェーン・スー著「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」を読んで 雑感


この手のエッセイとしては、非常に文章が上手く、濃密な一冊です。
類似の本では、単行本の体裁はしても、内容はスカスカ、「買って損した!」と思うものが殆どであるのに比べて、読後感は満腹・満足できるものです。
上手い文章を読むのがお好きな向きには、扱っているテーマ(=独身アラフォーで自称「未婚のプロ」である女子の主張)はとてもニッチなものではありますが、文章の上手さを味わうためだけで読んでも、十分元が取れるものです。
ちなみに、殆どの文章は彼女のブログでも読むことができるのですが(←営業妨害ではない)、ブログの横書きの文章ではなく、書籍化された縦書きの文章にして読むに相応しい一冊です(←営業促進)。


ざっと思い起こせば、林真理子氏、中野翠氏、岸本葉子氏、酒井順子氏、みうらしおん氏、等々、女性作家で文章巧者のエッセイは多々ありましたし、ジェーン・スー氏もその系譜に連なるのでしょうが、文章の上手さでは、並みいる諸先輩方に一歩も引けを取りません。
上手い文章とは、人によって判断の基準が異なるかもしれませんが、ジェーン・スー氏の文章は、比喩の使い方がそれは巧みで、切れ味のよい比喩、誰も使用したことがないオリジナルの比喩が使われるべき箇所にスパッと決まる様を読むのは、サッカーのシュート、テニスのスマッシュ、バレーボールのスパイクが決まるのに喝采を送るのと同様のカタルシスが得られます、読むだけで。

加えて、比喩の中でも、アレゴリー(寓話)というのか、一つの比喩のイメージで文章を重ねていく技が、読んでいてまさに快感であります。
例えば、この本のタイトルにもなっている「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」の章では、女子であることが、「刺青」の比喩で以て、延々と語られます。ジェーン・スー氏は、

板垣死すとも自由は死せず、加齢すれども女子魂は死せず!

という一文を冒頭直後に持ってきて、「女子」の定義を語るのですが、やがて、

三十路を過ぎた女たちの「自称女子」が感じさせる図々しさ、そして周囲の人間がそれを不意に受け取った時のドキッとする感じや不快感。これって刺青にたとえられると思います。私たちは「女子」という墨を体に入れている。

と、「女子」という自意識を刺青に例えて、誰も考えつかなかったこの比喩で以て、いい歳をした女が何故「女子」と自称するのかを解き明かしていくのです。的確な比喩で語られていく文章を読むのは心地よく、あっという間に、最後のこの部分まで引っ張られてしまいます。

板垣死すとも、タトゥーは消えず!

何とも痛快な「『女子』論」でした。

また、「私はオバサンになったが森高はどうだ」という章では、女性の身体を「庭」に例えています、「庭」ですよ、「庭」!

女はある日突然、自分が育て方の異なる何種類もの花が植わった庭の主であることに気付きます。庭主である私は、自分の庭はもちろん、隣の庭も気になります。若い庭よりも、同世代のあの人の庭が。木村さんとこの庭は、三十代後半のある日突然輝きだした。山口さんとこの庭は、いつも自然な印象なのに乱れがない。君島さんとこの庭は、一年中豪華な花が咲き誇っている。どんな庭師を雇っているのかしら?どんな栄養剤を使っているのかしら?


このアレゴリーには爆笑して、唸りましたよ。「木村さん・山口さん・君島さん」て!!!美魔女のことも、この比喩でスパッと語られます。

男ウケする庭よりも、自分の心が安定する庭にしたい。その結果が、あの美魔女のおどろおどろしい庭なのではないでしょうか。男性の目だけを意識していたら、ああはならない。あれは己との、そして同世代女との戦いなのでしょう。


普通に老化していき、老化を「レリゴー」している女性たちにとって、今まで言語化できなかった、自分とは異質なあの「美魔女」の皆様の佇まいを、「おどろおどろしい庭」という比喩で見事に定義しています。そして、「庭」の比喩で読み手が納得している間に、

「若い子には負けるわ」とは口ばかりの、恐ろしいほど綺麗な庭の主、それが森高です。


と、この章のタイトルに出てくる森高、即ち二十余年前に「私がオバサンになっても」というヒット曲を歌った森高千里(現在45歳)に戻って、彼女について当たり前の事実でありながら何故か言うのが憚られる事実を、ジェーン・スー氏は突きつけます。

異性に手間を悟られないああいう庭が、この世でいちばん凄い庭なのでしょう。もともと綺麗な庭が、美しさを保っているというだけの話ですから、森高の庭と荒れ放題の私の庭には、あまり関係がないと思うのが健全なのでしょうね。


このように、近年稀に見る文章巧者であるジェーン・スー氏の文章を読んで、巧みな比喩を読む快楽に浸りたいという老若男女の皆様、是非ご一読をお勧めします。
比喩に加えて、各章のタイトルがこれまた秀逸です。今までに挙げたもの以外でも、「女子会には二種類あってだな」「男女間に友情は成立するか否か問題が着地しました」「女友達がピットインしてきました」など、彼女ならではのセンスです。章のタイトルが、よく切れているのです。やさしさに包まれたなら、四十路」というタイトルの章は、書き出しが、

小さい頃は、神さまなんていないと思っていました。

で始まるので、爆笑です(ユーミン聞いた世代ならわかりますよね?)。
そして、これは主観ではありますが、この本は読後感が妙に爽快であり、暖かなものなのです。私生活の暴露やあけすけな自虐、一方で何かに対する怒りのぶち負け、というものが昨今の女性作家のエッセイなのですが、ジェーン・スー氏もご多分に漏れず、ご自身の失恋の話や、幼少期からのコンプレックスなどについて書いているわけですが、不思議と読んだ後に、嫌な感じが残らないのです。多くの女性作家のエッセイは、読んでいる時には作者に共感して笑っていても、読み終わった時に、何か見なくてもいいものを見てしまった、共感しなくてもいいことに共感してしまった(うやむやにしておいた方がよかった)、という気になってしまうこともあるのですが、この本にはそれがありませんでした、彼女と私が、全く違った形の人生を歩んでいるにもかかわらず、です。これはひとえに、ジェーン・スー氏の人柄、というか、人柄の深みに在るのでしょう。自分の主張を言いたい放題思う存分言って、それでいて違う立ち場の読者にも、後味が悪くない読後感を与えられるだけの、文章力であり、人柄、なのでしょう。



とは言うものの。

この本が扱っているテーマは、「ファミレスと粉チーズと私」「桃おじさんとウェブマーケティング」「東京生まれ東京育ちが地方出身者から授かる恩恵と浴びる毒」といった、老若男女が何とか読めるもの(←読めないかも!?)以外は、どれも濃淡こそあれ、アラフォー・未婚・女性、というポジションから書かれているので、このうちの一つでも同じ属性がないと、せっかくのジェーン・スー氏の世界を味わうのは難しいかもしれません。



そして、ここからはネタバレになりますが、この本の様々な章を通じて、ジェーン・スー氏が語っていることに関して、一言疑問を呈させていただきたいと思います。


この本の多くの章で横断的に語られているのが、ジェーン・スー氏と「可愛らしさ」の関係の歴史です。
「小さくて、か弱くて、庇護を必要とするもの」=「可愛らしさ」に対する自身のコンプレックスを、ジェーン・スー氏は分析してみせます。
ジェーン・スー氏は、ご自分のことをこう書いています。

幼少期に人より大きく育ち、

幼少期のかわいさ選手権予選落ち

「そこまではかわいくない女児」たち、たとえば私など

もともと少なかった私の小ささ資源やか弱さ資源は、成長に伴い一瞬で枯渇。

 

私は体格が大きかったばかりに、生意気だと男子から腹を蹴られたりグーで肩を殴られたりしていました。


僭越ながら、私がまとめるとこういうことのようです。

同年齢の女児よりも体格が良かったがために、「可愛らしさ」という自己肯定を得られず、それに代わる「人間軸」(勉強だったり、仕事だったり、話の面白さだったり)を鍛え、「可愛らしさ」だけに乗っかって世渡りしている同性の女性、及び、「小さく」「か弱く」「庇護の対象であること」を異性を選ぶ基準にしている男性の両方を、見返すべく人生を驀進してきたところ、四十路を越えて、「可愛らしさ」とか「ピンク」(可愛らしさを示す象徴)と和解するに至った、


しかし、私は疑問を持ちました。
枕草子の時代ならいざしらず、現代において、実際、女の世界で生きる上で「可愛らしさ」はそんなに有利なことなのでしょうか?
否、幼稚園から高校まで、少なくとも中学校卒業くらいまで、体格が良い女子・「可愛らしい」ではなく「カッコいい」女子、というのは、女の世界ではそれだけで有利な通行手形であったと、逆に私は思います。
クラスの女子の中で万年身長が真ん中からちょい小さいあたりのポジション、丸顔童顔少々ぽっちゃりでどうひっくり返っても宝塚の男役にはなれない属性。幼少期から中学校卒業あたりくらいまでそうであった私に言わせると、「体格が良い」「可愛くなくてカッコいい」ことは女性の社会では、少なくとも学校生活の中では、有利そのものであり、寧ろ学校生活の中では少々の「可愛らしさ」よりも、遥かに生きやすい!と言いたいのです。

私の人生経験を振り返ると小学校も中高学年になると、クラスの女子世界を牛耳っているのは、体格が大きな女子が集まったグループでした。一足先に大人の身体に変化した優越感、即ち「あんたたちは、まだ子供で何にも知らないんでしょ。」オーラを出し、教室の後ろの方の席から(背が高いから)、いつも教室内の空気を把握し睥睨しているような彼女たちが、私はとても苦手でした。小学校の高学年では、その体格が大きい女子の方が、男子なんかより遥かに腕力でも勝っていました(ドッジボールをやっても男子よりも強烈なボールを投げるのはこの手の女子)。「私も彼ら(註:男子)の腹を、思いっきり蹴り返していた」ジェーン・スー氏のような女子は、同性からは尊敬と憧れの眼差しで見られていました。彼女たちが「次女」時には「三女」だったりすると、「姉」という資源から潤沢に得た情報を持っていますから、精神年齢という点でも、無敵の存在でした。自分はまだ小学生であるのに、中学や高校の話をよく知っていて、芸能人のうわさ話からお洒落まで数歩先を行く彼女たちは、生まれながらにして、体格と情報という財産を持っていて、私(長子の長女)が努力しても得られないそれら天与の産物を当たり前であるかのように駆使して教室内女子世界を牛耳る彼女たちが、半ば怖く半ば羨ましかったものです。
前述のような「宝塚女役」属性を持ち、ジェーン・スー氏とは逆に母親の趣味で「可愛らしい」格好をさせられていた私が、学校の教室で上手く生きていくために、幼いながら先ず考えたのは、「決して彼女たちを敵に回してはいけない」ということでしたね。小学校の頃の「可愛い」なんて、本人の意思ではなく、親が着せる服、持たせる持ち物、手をかける髪型、なんです、畢竟。母親の趣味で可愛い服を着せられて、頭にはリボンか髪留め、これまた母が刺繍した手作りの鞄とか持たされていれば、本人(=私)の中身(実はラディカル)に関係なく、「可愛い」と認定されてしまい、それは、子供ながらそういう外見と自分の本当の内面は全く違うということに気がついていた私には苦痛でしかなかったのですが、同時に、それでも外見で「可愛い」と認定されてしまうことは、教室内の政治的には、全く何のメリットもないこと、つまり体格の大きな女子グループから良くは思われないということを、私ははっきりと認識していました。
そこで幼いなりに私がとった戦略とは、「話が面白いキャラ」「漫画や探偵小説に詳しいキャラ」(「オタク」という言葉がなかった時代です)であり、それに勉強頑張る成分やら、体格に関係ない「マット運動」やら「縄跳び」で頑張る成分を追加して(陸上競技やら、肉弾戦のバスケで勝てるはずがないから)、「宝塚なら間違いなく女役にしかなれない」外見を裏切るキャラを作り上げ、クラスの体格が良くて大人っぽくてカッコいい女子グループから嫌われるリスクを回避する、というものでした。彼女たちのグループに入る、ということなどは恐れ多くて思いつきませんでしたね、第一「チビ」では入会審査ではねられたでしょう。逆に、体格が良く大人っぽくてカッコいい女子たちは、キャラ作りなどすることなく、「ありのまま」で特権的地位にいられたのです、女子の教室内政治においては。
その「体格が良く大人っぽくカッコいい女子が教室内政治を牛耳る」というのは、中学卒業くらいまでは続きました。
高校になって、教室内政治がもっと複雑になり、また漸く体格で女子に追いつき追い抜いた男子の存在もあり、体格が良くて大人っぽくてカッコいい女子グループの覇権は一時の栄光を失いますが、それでも女子だけの場面ではその存在感と影響力は根強く残っていましたね。
私はと言えば、高校生になってから奇跡的に身長が伸びたのと、さすがに持ち物や髪型から母親の趣味を排除でき、そして引き続きニッチなキャラに磨きをかけた私でしたが、三つ子の魂百まで、と申しましょうか、動物が自分より体が大きい同種には最初から戦意を喪失してしまいひれ伏し従うように、「体格が良くて大人っぽくてカッコいい女子」に対しては、「彼女たちに嫌われないように上手く立ち回らなければ」と本能的に構えていたような気がします。まだ、スクールカーストがなかった、あったにしても長閑なものであった時代の高校生活でしたが。
大学生になって、制服を脱ぎ捨て自分の好みで装えて、ヒールの高い靴を履けて、本当に解放された気分になったものです。

自分の体験を長々と書いてしまいましたが、私が言いたいのは、ジェーン・スー氏は同性である女子(←敢えて「女子」とします)の政治的世界においては、常に覇権を握る恵まれた側であったのではないか、ということです。
ジェーン・スー氏は、体格が良いだけではなく、文章から推し量るだけでも、勉強・仕事は有能で、会話をすれば知的な丁々発止で合コン相手を虜にし、ピンクは似合わないかもしれないけれど「辛口」のファッションを都会的に着こなし、等々、これは同性の世界では、いつも無条件で一目おかれ、発言権があり、慕われるポジションなのです。
「可愛らしさだけを通行手形にして人生関所をらくらく通過する女たち」とジェーン・スー氏は言いますが、実際は、「可愛らしさだけを通行手形」に定めた瞬間に、女子はイバラの孤高の道を歩むことになるのではないでしょうか?「可愛らしさだけを通行手形にする」という同じ方向を目指す同類とはライバルですから、周囲との連帯などあろうはずもありません。「可愛らしさ」を磨くために一瞬たりとも気を抜くことさえできません。白鳥がその美しい姿を湖面に晒していると同時に水面下では水掻きであがいているように、苦労や血の滲むような努力を隠して「可愛らしさ」をキープしたとして、或る日気がついたら「老化」という抗えない壁にぶち当たる、あたりを見回しても連帯できる友人もいない、というのは、「女」という生物にとって幸せな生き方なのかどうか。

ジェーン・スー氏自身は意図していないかもしれませんが、彼女が自らのコンプレックスと和解する過程を読者に見せることによって、また四十路を迎えた彼女の人となりを文章を通じて知ることによって、「可愛くなければ幸せになれない」という世にはびこる固定観念とは違った考えを持つに至るのです。


とすると、ジェーン・スー氏の「可愛らしさ」との関係の歴史は、更に別の見方につながるのではないか、と思います。
「あとがき」でジェーン・スー氏はこう書いています。

理想という名の正論と目前の現実が大幅に乖離している時、理想以外をNGとすれば、必ず自分の首が絞まる。なぜって、世が明ければ気に入らない現実は必ずやってくるから。ならば、理想と現実の間に今日の落しどころのようなものを見つけよう。それが諸々の事象に対する、私の暫定的着地です。これが、楽。すごく楽です。


「可愛らしさだけを通行手形」にして、結婚を手に入れ、出産して「少子化」を食い止めるために貢献し、子育てと仕事を両立させてアベノミクスとやらに貢献するだけが、幸せな女の人生@21世紀前半の日本、ではない、ということです。

ジェーン・スー氏は、「可愛らしさ」との関係において自己のコンプレックスと和解しただけではなく、四十路であったり、未婚であったり、未出産であったりする自分を肯定しています。

酒井順子氏が「負け犬の遠吠え」を書いたのは、1992年の国民生活白書が「少子化」という言葉を使ってから10年後でした。「30代以上、未婚、未出産」である女性へのエール(自虐風味ではありますが)とも言えるこの本は、世に反響をもたらし、反響があったということは、勇気ある著作であったということです。
で、それから10年経ち、10年もあったのに、政策の貧困と対策の遅延が相俟って「少子化」は依然として全く解決していませんが、明らかに風向きは「30代以上、未婚、未出産」の女性には逆風です。
現政権がうたいあげる「女性が輝ける社会」とは、「結婚して仕事も子育ても頑張る」道のみを指しているかの如くです。
例えば、企業人やら官僚、政治家の女性でも、独身で、もしくは結婚していても子供は持たずに結果を出している方よりも、「子育てと仕事を両立させている」方に注目が集まるのは、おかしなことではないか、本来なら、「未婚・既婚」「子持ち・子なし」関係なく女性という括りの中であっても成し遂げた仕事上の「結果」だけで判断されるべきなのではないか、と思います、男性はそうなのですから。
「女性が輝く社会」という言葉に隠された別の形の「女性の分断」を感じてしまう今日この頃、「未婚のプロ」ジェーン・スー氏のこの本は、2003年に「負け犬の遠吠え」を書いた酒井順子氏にも増して勇気ある提言だと言えるのです。
「可愛らしさだけを通行手形」にしなくても、心豊かで幸せな生き方ができること、全ての女性に対してそれを示した、意義ある一冊でした。