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2012-06-17 何から書いたらいいのか。

はてなダイヤリーアカウントを残しておいたのは、私が彼是書いたことがなくなってしまうのが忍びなかったからです。バックアップを取ったり、本にしたり(はてなに本にするサービスがあったと思いましたが、まだあるのかな。)って、そういう方法もあるにはあるわけで、自分で読み返す方法はあるんですが、人目に触れる場所で「こんなことかいてたんだ」っていう感覚がなくなるのがイヤだったのかもしれない。

2年ぐらい、このブログエントリーを書いていなかったけれど、先日、随分昔のエントリーコメントを頂いたこともあって、読み返す機会ができました。「Tumblrもいいけど、俺ははてなで色々書いてたんだな」と何となく、回顧的な気分になってエントリーを追加。

はてなダイヤリーを中心にブログを書いてた頃が一番素直で、マスターベーティング的に色々と恥かしげも無く吐露していた時期だったかなぁ、というのもあって、懐かしいのです。

この3年くらい随分と変わった。

なんか、はてな記法も懐かしい。忘れていることも多いけど、コレはすごく気に入ってるはてなの昨日でした。

この3年で変わったのは、自分過去の振り返りがスゴク多くなったことと、新しい感覚というのが非常に少なくなったこと。

最後転職現在会社就職した)が2008年3月で、実はその頃から仕事への感動が、劇的に下がりました。2009年までに1度、大きめのプロジェクトの立ち上げに失敗してからは尚のことダッチロールする時期が長く、2011年度の後半に少し持ち直したところで、異動となり、またやり直し的な感じ。

過去自分を振り返ることで、いくつか自分自分のために果たす責任を感じました。こういうと非常に前向きで誠実な感性に聞こえるけれど、自分過去に思っていながらやらなかった、決断しなかったということで、今コレだけつまらないことになっているのかと思うと、もうこんな目に合いたくないというのが実感です。

  1. やるべきときにやるべきことをやる
  2. いうべきときにいうべきことをいう
  3. やりたいな、と思うことをやる。
  4. 嫌なやつとは働かない。

なんだこれ・・・まぁ、デモこんな感じです。ともかく、営業で出てくる話で「Right Place, Right Time」ってありますが、これって、実は自分の一つ一つの決断は日頃の自分感性で決まってくることが多い。

そういう話すると、「楽観、悲観」「積極、消極」「前向き、後ろ向き」の議論になるけれど、そんなことは全く無いと思っていて、自分が思ったように、今の自分は居るべき時に居るべき場所にいるものです。だから、「思うこと」は大切で、それがその人の感性に直結してきて、最後はそれが決断として将来の自分や周りの人間に影響がでる。そして、そのフィードバックをもってまた自分は次に進んでゆく。

面白いことなんかなんもない

ポジティブが前面に出ている人が苦手です。私はネガティブシナリオライターだし、その方がどっかで面白いと思っているのと、創造革新ばかり話しをする人は信用できないってのもあります。

例えばビルを建てたいと思ったときに、今あるビルに居る人を立ち退かせ、権利関係を整理して、ぶっ壊して、瓦礫にして、何事も無かったように更地にして・・・っていう作業を無視しているように聞こえる。

創造の前にある破壊に、興味があるわけです。想像するやつなんて、山ほど居るけれど、破壊できる人のほうは余りいないし、目に触れない。それのほうが、価値があります。数が少ないのと、それがないことには先に進めないのだから

本当に辛いことを経験した人が、前向きになるのは、スゴク価値があります。そういう人は、大体が口に出さない。切迫感や心の奥にある方向感が結果的に前向きなだけで、本人はそんなことを思っていないというのが、実感です。

から面白コトなんかなんもねぇんだよ、楽しめるなんてことは、殆ど幻だ・・・くらいに思っている人のほうが、馬があう・・・というのが実感だな。

ともかく、死ぬまで生きる

そういうことです。クルマでも家でも、諸行無常でいつか無くなる。我々人間も、いつか前触れも無く死神に首を刈られて一巻の終わりとなるかもしれない。人生はソモソモ1度きり。2度ないものに1度も何もない。

次は無いのだから、正しくやるのではなく、やれることを最大限、自分感性でやってみる。そんでだめなら、それまでよ。もう、色々ありすぎて、それでいい気がしてきました。

この数年、私は少し日和見主義でいすぎたのかもしれない。なにせ、今の会社が一番在籍年数が長いのです。いつでもお別れできるように、いつでも高飛びが出来るように、自分感性をいつも見つめておくことが、私が社会で生きている実感なのかもしれません。