楽膳

2015-12-08 「自分」に合わせる。

 不器用って言葉はネガティブな単語が入るからあんまり使いたくないなあ。

 ピアノを弾く。「ピアノの弾き方」については毎回毎回新鮮な発見がある。最近は左手の各々の指の力の不均等さに気づいた。アルペジオで手首を返す度にテンポや強弱がデコボコになる。それを均等にするのは「バランスを取る力」であり、それは指ごとに違うパワーの出力を要求するという事だ。筋力は均等にはならない。ならば、出力を逆位相にしなければいけない。

 最近「一人で出来るもん」の派生としてコーヒーをハンドドリップで淹れるようになった。フィルターで豆を濾してコーヒーにする。一つ一つの行動が全て最終的なコーヒーの味に影響する。ふとした事でそこらへんの手抜きカフェとは段違いな味が出たりして、そんな時はかなりテンションが上がる。

 珈琲を淹れても俺には料理は出来ない。

 ピアノは決められた数曲ばかりで、新しい曲は覚えようとしない。

 もちろんやろうと思えば出来るだろう。でも、俺が自分の力を存分に発揮できるのって、多様性というよりかはシングルタスクで、それも「テンション」によってすぐにチャンネルが変わってしまう。「長持ちしないシングルタスクのチャンネルを沢山持ち、気分により切り替える」という感じで、それはやっぱり不器用な性分という事になるだろうか。

 それでも「不器用」という言葉はネガティブだ。仕事に焦点を合わせるなら「不器用」なのだろうけど、仕事以外の時間に於いてはそれは単なる「性分」であり「癖」という事で良いのではないか。それは、「直すべきもの」では無くて「性分に合わせれば快適に生きられる」のではないだろうか。

 最近、ようやっとその使い方の端がわかってきた気がする。基本的に足は遅いけど、悪いばかりでも無い。色んなチャンネルは、時に互いに影響し合って、「俺なりの」多様性がそこで生まれてくれる。

 効率は悪くても、それはそれで良いんだ。

2015-10-24 行為の積み重ね

 10月24日。

 日々内面と戦っていますが、まあそれはさておき今回はランニングの話です。

 まず、最近ランニングを始めて、これがそこそこ続いています。と言っても一週間程度ですが。長い事部屋での軽い有酸素運動(踏み台昇降とかスクワットとか)を続けていた事で走る足腰の基礎がそこそこ戻っていたのかも知れません。それと、下記の「気づき」から始めたやり方が体に合っているのかも。

 そのやり方というのは「距離では無く時間で考える」「肺が苦しくないペースで走る」「嫌になったらいつでもやめて良い」「目標を作らない代わりに、最低限のノルマはその日の体調に応じて作る」と言った感じで、要するに「頑張らない」ランニングです。ランニングというのはどうしても「辛い事を頑張る」というニュアンスが生じがちなので、その要素を限りなく抜いてみようと試みたわけです。

 俺の近所で一周大体900mほどのコースがあり、それはどの場所で終了してもすぐに家に帰れるようになっています。そしてそれをとりあえず一周くらいは走ってみる。息が切れないペースで。足はもちろん疲れていきますが案外その疲労は脳には届かないようです。

 一周走って余裕だったらもう一周走ってみる。もちろん「嫌になったらやめる」というルールは忘れずに。距離ではなく「疲れるまでの時間」を考慮しているので、ただボケーっとしながら足を動かして体力がなくなるまでの時間を待っているような感じです。日に日に「疲れるまでの時間」は長くなっていって、先日は疲れてやめるまで35分かかりました。距離にすると5キロでした。

 意外と走れるじゃないか、という達成感はあります。ただ、そもそもランニングを始めたきっかけは「運動を続けよう!」というだけのものだったので、達成感というのも善し悪しな気がします。達成感はより高い目標につながり、それは結局「より高い目標に届かずに挫折」になるからです。俺は過去これで何度も何度もランニングをやめており、その度に数年のビハインドを作ってきました。もちろん今回も来るかも知れませんが、それはなるべく一日でも遅らせていきたいものです。

 今回の方法の優れた所は、最初から最後まで「苦しい」という体験が無いため、ランニングに対するネガティブな印象を次回に持ち越さない事です。

 思うのですが、案外世の皆さんはランニングに真面目に向き合い過ぎなのではないでしょうか。「苦しさを越えた所に気持ち良さがある!」とか「ダイエットの為に頑張る!」とか、ンな事考えなくても適切な運動をしているだけでそこそこの恩恵はある気がするのです。そして「適切な運動」に「辛さ」はつきものだと考えられていますが、ぶっちゃけ「辛さ」は限りなく軽減する事が可能です。ペースをただ落とすだけです。しんどいと思うのは単に貴方のペースが自分の出来る範囲よりも速すぎるだけだし、ちっとも前に進まないというのは「距離」を目標にしているからです。必要な運動量は距離ではなく、強度と時間で決まるのだから、距離なんてハナから考えなくても良いのではないかと思います。

 まあ、もちろんどんなにペースを落としても「走る」という行為そのものが苦痛な人は世の中に多数いると思いますが、幸いにして足腰を使うという行為は普段から俺は自転車やら部屋の運動やらでクリアしていたようです。そういう意味では適正があるのかも。そんな訳で、今日もこれからいっちょ体力を抜いてきます。

2015-09-15 買ったからには俺は消費者なのだ。

 連絡も取っていなかった10年(!)程前の友達がいつの間にか小説家デビューしていたので、早速その本をamazonでゲットして読んでみたはいいが、あまりポジティブな感想を言える自信が無いのでこっそりとリンクも貼らずに書いてみる事にする。ごめん某さん。

 物語はフリーターの主人公がふとした所で全く興味の無かった政治の世界にお手伝いとして携わる事になり…というもの。物語というよりもほとんどドキュメンタリーのような形を取っている。ある政治家が震災の中、出来る事に奮闘し、そこから皮肉にも世間に誤解が広がり、それによって窮地に追い込まれながらも目の前の選挙戦に向き合っていく。主人公はそれに共感し、内部から必死に応援する。

 正直に言うとかなり粗い小説だと思った。

 まず、文体のバランスの悪さが気になった。例えば「私はこの事に対して憤りを感じた」のような文章を「私は憤りを感じた。この事について。」のように何故か分割してしまっている。また、突然「あの××を」とか指示語が出てくるが、その「あの」が何を指すのか読んでてわからない。こういった事が多々あって、いちいち読んでて「ん?」と目が留まってしまう。

 次に、応援している政治家に対して「××『さん』」と敬称で呼んだり、参謀ポジションの人の行動の描写にいちいち敬語をつける(「説明してくださった」等)のに違和感を持った。主人公(=作者)は素直にその政治家を応援しているのだなと思ったのだが、どうしても読者としては政治家という生き物に対して主観的に見る事を憚ってしまう。反射的に距離を取りたくなってしまう。

 単純に実録政治ドキュメンタリーとして読んでみると、この物語に書かれている政治家に対して俺は全く共感が出来ない。善人というのはよく伝わってくるのだが、「仕事」としては感情的に過ぎるし、震災の対応、また、炎上の対応としては短絡的に過ぎる。主人公のように主観的に応援していこうという気にはなれなかったし、もしそれを狙っているのなら描写が足りない。「何も知らない」主人公が「一生懸命に政治を応援する」ようになる変化も読んでいてわかりづらかった。

 物語の進行についても不満が残る。後半の選挙戦について政治家の演説を長々と引用しているのに、選挙結果については数行しか書いていない。あの数ページを削れば色んな事が描けたように思えるし、他にもそういう箇所がいくつか見られた。全体的にバランスが悪いんだな。何というか、書きたい事を時系列ごとに書きたいだけ書いた、という印象を持った。

 正直な所、ここまでの俺の思った事ってそこそこの編集さんなら絶対に指摘すると思うんだけど、ちゃんと校正してんのか?タイトルとかデザインとか、出版社が売る気があるとは思えない。作家が意図しない扇情的なタイトルを出版社の戦略でつける事が昨今そこそこあって、それに対して是非はあると思うんだけど、本題に対してはある程度いじった方が良いと思う。某さんは物事を深く掘り下げるタイプの人で、象徴としてあのタイトルにしたと思うんだけど、いくらなんでも単語としては平凡過ぎて、正直俺は本屋でこの本を見かけたとしてもページを開く事は無かったと思う。リアル鬼ごっこ見た時は開いたんだけどね。

 で。

 某さんは(まだ期限が切れてないなら)友達なので良い所も挙げたいのだが、とにかく彼女は思考の深みと多様性、そして独特な感性を有している人で、本文の中にも「なるほど」と思う文はかなりある。ぷつぷつと切れてる独特の文体も上手くハマるとリズムが気持ち良いし、時折混ざる可愛らしいユーモアはまさに彼女ならではのものだろう。それが活かされるのはもう少し「物語」というものを書き慣れてからなんじゃないかなあと思ったりもする。もう2,3年くらいして経験値の上がった彼女の作品をまた見たいと思います。

 とりあえず色々書きましたが、俺は職業クリエイターというのはとても憧れるし、尊敬します。次の作品が出たらまた買うでしょう。がんばれ某さん。