Why (speed_mod’S REASON)

2013-01-30

[] スマイルプリキュア、最終回を終えて

スマイルプリキュアが最終回を迎えてしまった。
足早にラストに向かって収束させながらも視聴者へ精一杯のサービスをしようと感じられる展開と、それとは裏腹なTL上のファン達の不満の声を同時に目にしながら、いいようのないもやっと感が残った。

今でも、スマイルプリキュアのOPのイントロを耳にすると、約50回、1年間に亘って、この同じイントロを聞き続けてきたのにも関わらず思い出すのはあの1話を観た時のわくわく感だ。あの、川村女神がキャラデザインを手がけた、奇跡のように可愛く美しい中学生の女の子達。スマイルプリキュアは全てがキラキラと輝いていて、私達の胸はこのプリキュア達への希望でいっぱいに膨らんでいた。

それから1年。スマイルプリキュアはどの回もよい話ばかりだった。私達はどの話にも満足してきた。
敢えてそう言い切る。これに真っ向から異論を呈することができるファンは少ないんじゃないかと思う。
それなのに、なぜ今、私の中に、私達の中に、この最終回への違和感が生じなければならないというのだろうか?

理由はひとつしかない。私達は単純に、このスマイルプリキュアが持っている潜在的な魅力を味わいつくしたとは、到底信じられないのだ。
伊勢物語を宝石を連ねたネックレスに例える例えがあるけれど、スマイルプリキュアも、1話1話が宝石で、全体は宝石を連ねたネックレスのようだと思う。
しかし、私達は、スマイルプリキュアの1話で見た、あの青空に輝くスマイルプリキュアの文字と、みゆきちゃんの「素敵なことが起こりそうな」予感を忘れられないでいる。まばゆく光る宝箱の幻を忘れられないでいる。ネックレス1つで、スマイルプリキュアがこれで終わりなんて、ここで終わらせるなんて、絶対に信じられない。

個性的で、魅力的で、1人1人が主人公とも見紛う魅力に溢れたプリキュア達。様々な種類のキュアデコルとその力を引き出すスマイルパクト、メルヘンランドやバッドエンド王国、秘密図書館、本棚を使ったワープ、1回しか撃てない必殺技、謎に満ちたジョーカーという存在、そしてピエーロ・・・。彼女らの、彼らのストーリーは50回やそこらでは描ききれない程に、濃厚だったはずなのだ。

よくTL上で、「スマイルプリキュアは成長を描いていない」という意見を見た。「スマイルプリキュアは内容が薄い」「スマイルプリキュアはストーリーが単純」という意見も見た。しかしこれらの意見はいずれも、上に示したこの違和感をそれぞれ違う言葉で表現しようとしているだけに思える。プリキュアという枠組が大好きだったからこそ、1年で無理やり終わらせなければならないその枠組が疎ましく思える。わかっていてもこのジレンマは、プリキュア達がみな魅力的であればあるほどに強まるのかもしれない。

それでも間違いなく言えることは、スマイルが1年という短い間に、私達に「宝石の連なり」を残してくれたということ。
プリキュアはどの作品においても、大事なことは、きっと、「プリキュアが文字通り身体を張って示してくれたことから我々が学ぶ」ということ。
これまでと全く同じように、残してくれた作品を、私達は精一杯に愛して、そしてそこから学んだことを自らの人生で実践していこう。
辛かったり、悲しいことがあっても、笑顔で前向きに、前に進んでいくことができれば、スマイルプリキュアはきっと、TV放映とは違う形で、新しい「作品」として私達の元に戻ってきてくれる、そうなんだと思っている。

2012-11-26

[][]映画スマイルプリキュア感想その2

 懲りずに新しい感想を書きます。前回は「影の両義性」と絵本の謎、そして「Love your enemies」のメッセージについて、がメインでしたが、今回は「翼/羽根」と「ニコ」について考えてみました。

映画における翼

 プリキュア映画を観に来た子供たちには、恒例のミラクルライトが配布される。今回のライトの名前は「ミラクル『つばさ』ライト」。そして絵本の表紙には翼が描かれている。「翼」は本作における重要な役割を担っており、様々なところで思わせぶりに登場している。映画に翼や羽根が登場したシーンを振り返ってみよう。

1. 冒頭
 暗闇に光が生まれ、それが羽に変わる。羽はみゆきの頭上に落ち、みゆきをニコの絵本に誘う。みゆきが本の表紙の上に落ちた羽にみゆきが手を伸ばすと、羽は消滅し、絵本が勝手に開いて最後のページを示す。

2. 絵本
 絵本の表紙の中央には翼のレリーフがついている。登場する動物たちは皆背中に同じ形の翼を持っているが、これと同じ形。また、ニコが胸につけている飾りも同じ形。ニコが物語を改変した時に、彼女はこの絵本の表紙に手をかざしていた。

3. ニコ
 絵本の登場人物で唯一翼を生やしていないのはニコだが、髪型はまるで畳んだ翼のような、非常に独特な形状をしている。ニコの後ろ姿はまるで首をすくめた鳥のように見える。

4. 影
影に操られた者は黒い蝙蝠のような翼を備える。もちろん、映画の序盤に登場した金角、銀角も同様。影が剥がれると、翼は無くなる。

5. 魔王
 「みゆき、やっぱりあの約束忘れてるんだ」とひとり呟いた時にニコの影に生えた翼。これは魔王の翼と後にわかる。魔王は巨大な翼を持った竜のような形状をしているが、途中にも形状を変化(進化?)させる上影のような色をしており本当の姿を明らかにするまでは姿は曖昧なままである。

6. 鳩の羽根
 ニコがみゆきたちを困らせようとした瞬間に白い鳥(鳩?)が一斉に飛び立つ。冒頭に出てきた羽と同様、ここで1枚の羽が落ちる演出がある。

7. ミラクルつばさライト
 ニコが「みゆき、私に勇気を分けて」といったときに生まれるミラクルつばさライト。「みんなの、笑顔の力をプリキュアに!!」プリキュアを包むつばさライトの光は笑顔の力の表れ。

8. ウルトラキュアハッピー
 ハッピーが翼を得たパワーアップバージョン。笑顔の力に包まれたハッピーは、自らもまた「笑顔で包む愛の光」となった。降り立った荒野は一瞬で花に包まれ、ロイヤルレインボーバーストを弾き返す程強力な魔王エネルギー弾を一瞬で消滅させる圧倒的な力を持つ。

9. つばさデコル
 ラストで絵本の上に現れた1枚の羽根は、つばさデコルに変わった。

「本当の心」としての純白の羽

 元々、スマイルプリキュアと翼・羽根には深い関係がある。コスチューム、髪飾りや耳飾りに翼があしらわれ、初変身の瞬間やOPには羽根が舞い散るカットが加えられている。
 映画冒頭のシーンも、羽根から始まっていた。
 暗闇の中に光が生まれ、それが1枚の羽根に変わり、幼いみゆきの元に届く。羽根はみゆきを絵本へと導き、最後のページを開いて消えた。魔王の城に囚われたニコの助けを求める思いは、羽根の形をとってみゆきに届いたのだ。純白の羽根は、ニコの純粋な心であった。
 ニコは、自らの物語の終わりを見失い、憎しみに囚われ、憎しみを周囲(絵本の登場人物たち)に伝染させて、みゆきを激しく非難し、プリキュア達を攻撃した。
 しかしハッピーをはじめとするプリキュアたちの誠実な、無償の愛のみを原動力とする行動に、彼女の閉ざされていた心はついに動いた。
 遂にはニコの盾となり、真っ向から魔王の凶弾を受けて倒れたハッピーを抱きあげて、ニコは必死に叫んだ。

「お願い、みんな、力を貸して。みんなの笑顔の力を、プリキュアに!」

 映画の冒頭で現れたニコの純粋な心――一枚の羽根は、最後に世界の皆の力を集め、巨大な翼となって、プリキュアを立ち上がらせ、世界を救ったのである。
 ただ、翼は心のあり方によって正反対の意味に変わってしまう。憎しみの心そのものである魔王や影において強調されて描かれているのは、その蝙蝠のような漆黒の翼である。

ニコの謎

 そもそもニコとは何だったのか。ニコは翼を持つ動物が暮らす世界の住人であるにも関わらず、翼を持たず、一人だけ人間と似た形をしている。物語の中の扱いがどのようなものであれ、彼女が物語の中で異端な存在であることは明白である。しかし、それについての説明は一切ない。一体、ニコとは何者だったのか?
 ストーリー上、ニコは「不完全な存在」でなければならなかった。魔王に囚われて「真っ先に笑顔を無くした」り、「自分の物語を自分でやめて」しまう存在*1でなければならなかった。さらに、自分自身の選択の結果でしかない自分の現状の責任を他人になすりつけ、苦しみや辛さをその他人にも味わわせようとする存在でなければならなかった。
 そんな弱い存在を我々は身近に知っている。それは、他ならぬ映画を観る我々自身の一側面であり、この映画を観る子供たちの一側面である。我々に似た存在であることを表現するために、ニコの姿は出来る限り鑑賞者にとって身近な形でなければならなかったのではないか。

不完全な勝利の女神

 ニコの髪は翼によく似ている。後姿はまるで翼をたたんだ鳥のようだ。私はその髪型を観て、ふと、サモトラケのニケに似ている、と思った。サモトラケのニケは、ギリシャで発掘された勝利の女神ニケの彫像である。頭部と両腕を失い、不完全な姿のままで現在ルーブル美術館に展示されているという。失われたその顔と腕はどんなものだったのだろうか。彼女の像は観る者の想像をかきたてずにいない。もし、彼女が完全な姿で発掘されれば、現在のそれよりも、はるかに価値のある美術品となっただろうか?
 最後に笑顔を取り戻すことができたニコは、いつも、憎しみの心そのものである「魔王」と一緒だ。魔王といることを選択したニコの笑顔は、時にまた失われるかもしれない。不安定で、迷いの多い存在であり続けるかもしれない。しかし、自らの物語を自らで作っていくことを決意した彼女の笑顔は、その都度自らの力で取り戻されるはずだ。そんなニコの物語は、頭部と両腕を失いながらも――いやむしろ、だからこそ、「傑作」として、世界一の美術館に燦然と輝くサモトラケのニケの像に重なって見える。

*1:牛魔王が、影に操られた主人公達に向かって言った言葉。ニコもまた、自ら自分の物語の終わりを無くしてしまったのである。本解釈に関して詳細は前回の感想をご覧下さい

2012-11-04

[][] 映画スマイルプリキュア感想

「映画スマイルプリキュア!絵本の世界はみんなチグハグ!」本編も目覚しい勢いのプリキュアの新作映画。
最初にこの映画を観た際、絶妙なCGの使用や演出、作画の秀逸さに感嘆する以上にこのストーリーと設定の謎に振り回され、正直全く理解できず、ミステリー作品に近いとさえ思った。
チグハグな絵本の世界に「一体どうなってるのー!?」と叫んだみゆきに、いやいやそれはこっちの台詞だ、と言いたくなった位だが、何度か観ているうちにこの映画のメッセージの深さに気づかされることとなった。
既にプリキュア映画史上初の記録を打ち立てている本作であるが、商業的な成功とは別の意味でもプリキュア映画史上に残る名作になったのではないかと思う。

「影」の両義性

映画序盤の大博覧会の映画館のシーンで、ニコは「影」に取り付かれた金角・銀角に追いかけられていた。
しかし、物語中盤で、狂ったシンデレラから剥がれてサニーに捕まえられた「影」を、ニコは操り、自らの影に同化させるなど明らかに影を自在に操っている描写が見られる。いったい、「影」はニコの敵なのか、それとも仲間なのか?
この「影」の両義性は、映画のストーリーの根幹に関わる重要なテーマである。
先の問いに対して「敵である」「仲間である」のどちらかで答えることはできない。「影」はニコ自身であり、ニコ自身はニコの敵にも味方にもなり得る。ニコは、自身の「影」、いわば負/憎しみの力でプリキュア達を苦しめたが、同時にその力によって自分自身も恐怖に追われ続けていたのである。
同様に、「魔王」もまたニコの憎しみの心そのものであり、「魔王の城に囚われていた」ことは、すなわち「自分自身の持つ憎しみの心に囚われていた」ことの暗喩である。ニコがハッピーに「お願い、魔王を…(消滅させないで)」と言ったのも、ハッピーが魔王に「行こう、ニコちゃんが待ってる」と言ったのも、エンドロールで描かれたその後のストーリーでニコと魔王がいつも一緒に描かれていることも、それを示唆している。
本来ニコ自身の心であったはずのその憎しみのエネルギーは、物語の登場人物を操ったり、物語世界を思い通りに改変する力を持つだけではなく、増大するにつれていつしか自分では制御できない程巨大になり、ニコ自身を縛り付けると共に、世界そのものの存在を脅かすことになってしまった。
このような意思の「暴走」は、(善意であれ悪意であれ)インターネットによって世界と繋がりを実感しやすくなった現代において、我々にとってはより身近な問題として立ち現れてきているのではないだろうか。

ニコの絵本

映画の舞台は絵本の世界である。その世界は、絵本の登場人物たちが住み、その登場人物たちは自身が「絵本の登場人物」であり、絵本のストーリーを生きている存在であることを知っている、という独特な(そしてある意味不気味な)構造を持つ。
ニコもまた、絵本が途中から破られているという点を除いて例外ではない。ここでいくつかの疑問が生じる。

  1. ニコの絵本が途中から破られていたのはなぜなのか?また、誰が破ったのか?
  2. 破られる前に、元々絵本に書かれていたストーリーはどういうものだったのか?
  3. 絵本はなぜ元に戻ったのか?

「魔王」もしくは「影」が破ったのだろうか?あるいは「ニコ自身」が破ったとも考えられるが、まずは2番目の疑問である「元々のストーリーはどういうものだったのか」について考えてみたい。

元々のストーリーは、最後に作られたハッピーエンド*1とそう大差ないものであろう。ただ、異なる点がある。魔王の城に囚われたニコは、元のストーリーでは恐らく誰かに助け出され、そうして彼女の絵本はハッピーエンドを迎えていた。恐らくはニコ自身のストーリーも、その通りに進んでいた。途中までは。
さて、そこで起こったことは何だったのだろうか?私は以下のようなショートストーリーを考えてみた。

笑顔が大嫌いな「魔王」がニコを「連れ去って」しまった。憎しみの影が、様々な形に姿を変えて、ニコを追いかけ始めたのである。ニコはその度に必死に影から逃げ続けるしかなかった。
「私はいつも笑顔のニコだもん、憎しみなんて、私の心にあってはいけないんだ。」
自分が持っている絵本では、自分が助け出されることになっていた。
ニコはただそれを待ち続けたのである。

待っても待っても助けは一向にやってこなかった。憎しみは悪夢のようにニコを襲い続けた。
「どうしてだろう、絵本には私がここから助け出されて最後にはハッピーエンドを迎えるはずなのに。」
しかし、希望は毎日裏切られた。
ニコはいつしか笑顔を忘れてしまった。

自分がこんなに苦しんでいるのに、絵本の中でハッピーエンドでニコニコしている自分の顔は、まるで別人のように思えた。それどころか、自分とは全く違ったストーリーでハッピーエンドを迎えた、絵本の中の自分の笑顔は、ニコ自身をせせら笑っているようにすら思えてきたのだ。

ニコが憎しみの表情でそのページを睨みつけた途端、そのハッピーエンドに続くページは途端に目の前から消えてしまった。残されたのは魔王の城に閉じ込められている、まさに今の自分の姿が描かれたページまでだった。

ニコは、物語の筋書きに自分のストーリーを委ねてしまった。その途端、ニコの物語から未来は失われてしまった。ニコは自ら、終わりのない憎しみの続く世界に自分を陥れてしまったのである。

恐らく、みゆきと出会ったのはこの直後であった。話はこんな風に続く。

そんな時、ニコは小さい女の子の声を聴いたのだった。
「私が続きを書いてあげる」
その子はみゆきという名前だった。みゆきは本当に楽しそうに絵本を読んでくれた。
もしかして、この子が私をハッピーエンドに導いてくれるの?
魔王の城から助け出してくれるの?ニコは一縷の望みを彼女に托した。

その後、何年もの年月が流れた。ニコは影に襲われ続けながらも、みゆきが絵本の続きを書いて、自分を助け出してくれることを待ち続けた。しかし、その子は一向に絵本の続きを書いてくれる気配もなかった。その子は絵本のことなんて忘れてしまったかのようだった。
「嘘つき。」ニコはそう呟いた。

ニコは手元の絵本を見た。絵本は相変わらず、ニコが魔王の城に囚われ、悲しそうな顔をしているページで終わっていた。絵本からはハッピーエンドが失われてしまったけど、ニコはこれでもういいんだと思い始めていた。もう笑顔なんて見るだけでも嫌だったから。自分が笑顔をなくしたように、皆も笑顔をなくしてしまえばいいと思った。嘘をついたみゆきの笑顔もなくなればいいと思った。

ニコは終わりのない世界で、永遠に恐怖の影に追われ続け、そうなった運命と自分をそのまま放置し続けた周囲を憎みつづけた。魔王と影の力はニコの憎しみの力を得て、益々増大した。

恐怖の影に襲われるのはもはや何度繰り返されたかわからなかった。
しかしそれでも、ニコの本当の心は、意識の下で助けを叫び続けていたのだ。

そんなニコの思いは、意図せずして思わぬ展開を招いた。
恐怖の影に追われる中で、突然ニコは絵本の世界を飛び出してしまったのだ。
ニコは岩山の中で、西遊記の悪役に追いかけられていたはずだった。
突然目の前に真っ暗な劇場の観客席が現れた。自分を追いかける影の恐ろしい声は消えて、ニコは映画館のスクリーンから飛び出したのである。

ニコは憎しみに心を奪われ、笑顔を失ってしまった。それでも、無意識の内にそこから出たいという思いはもっていた。その思いが、影の力の増大とあいまって思わぬ展開を招いた。彼女を絵本の世界からプリキュアのいる現実世界にいわばワープさせたわけだ。
しかし、それはあくまでもニコが無意識下で行ったことであった。その展開が二コの未来を開く一歩となったことは間違いないが、絵本の続きが生まれるためには、ニコが自律的に、意識的に、自分の本当の心を開く必要があった。
だから、絵本に白紙のページが再びつくりだされたのは、ニコが自分の気持ちで「もう誰の笑顔も奪いたくないの」と言って、自ら呪縛から出ようとしたその時だったのである。
暴走した憎しみの心(魔王)に対して、「私はいつも笑顔の二コだもん!」と主張したのは、絵本の筋書きを単になぞったのではなく、二コの本当の心が結果的に絵本の筋書きと一致したことを象徴的に表す台詞であると感じる。
なお、ニコが常に作中で絵本を抱きかかえていたことは、既存の絵本の筋書きに縛られていたことを象徴している。呪縛の中で絵本を手放したことは、ニコが絵本の筋書きから自立して自分の本当の心で動き始めたことの表れであろう。

笑顔で輝く世界

YouTubeで、パラパラ漫画のようなアニメーション動画を観たことがある。
Love Your Enemies http://www.youtube.com/watch?v=L0HhHLHLHaA
まるで難癖のような不条理な主張によって責められても、どんなに拒絶されても、仲間の協力を受けてニコの許に降り立ち、ニコを抱きしめ、自らの非を繰り返し詫びたハッピーの姿に、私には前述のアニメが重なってみえて仕方が無かった。
Love your enemies.(汝の敵を愛せよ)聖書に記されたイエスのこの言葉を、ハッピーは衒いなく素直に体現したのである。*2

「世界は笑顔できらきらして、とても綺麗なんだよ。」

ニコの願いと皆の応援の奇跡の光が生み出したウルトラキュアハッピー魔王を諭した台詞である。
目から鱗とはこのことだ。私は、世界が「笑顔できらきらして、とても綺麗」などと思ったことは一度も無かった。生の衝動は常に死の恐怖に裏付けられているとしか思えなかった。
世界の別の可能性に気づかせてくれたプリキュアとこの映画に、私は感謝する他ない。

*1:パンフの絵本も作ってみてください

*2:ちなみに、このニコとハッピーの関係に、韓国と日本の関係を連想させられたのは自分だけではないだろう。

2012-09-23

[] 最近のお絵描き

プリキュアのファンになってからプリキュアの絵を描くようになった。

ビジュアルにギャル成分が入ったキャラが好みなのか、Splash☆Starの主人公である日向咲プリキュアの中で一番のお気に入りで、彼女のイラストを描くことが多い*1

絵はモチベーション閾値を超えたときにだけ描くことができ、超えないときには完全に絵を描くことを忘れてしまう。これまで10年程、1年に1度程、絵描きのモチベが急激に高まることがあり、長くても1ヶ月程度で終息に至っていた。

ここ数ヶ月は、珍しくモチベーションが高めで安定している。そこで絵を描き続けているのだが、驚くべきことに自分なりのスタイルが少しずつ作り上げられてきたようだ。今まではそこまで到達することがなかったので、今年の得がたい収穫である。

その「スタイル」を、次回モチベーションが高まったときのために、ここに備忘録として記しておく。

作画の目的

表現したいのは「プリキュアの可愛さ」。自分なりに感じているこの素晴らしいプリキュアの魅力を他人に伝えること。

作画プロセス

  1. 【構図決め】ゼロから妄想を組み立てられれば一番よいのだが、そこまで構図のセンスも画力もないので、モデルをまず探す。ネットで画像検索をすることが多い。あとは雑誌の女の子とか。
  2. 【下絵】白いA4のコピー用紙に、シャープペンシルで下絵を描く。ここは別にいきなりデジタルでもよいのだが、デジタルよりも今はアナログで下絵を描くのが描きやすい。
  3. 【デジタル化】デジカメで写真をとる、スキャンする、などの形でまずはファイル化する。
  4. ノイズ除去】紙に描いた絵をそのままjpgなどのファイルにしたものは、影や色、折り目や消しゴムで消した跡、無駄な線など、ノイズが非常に多いので、Picasaなどを使ってノイズを除去する。Picasaでは、1.モノクロ化 2.明るさの調整(ハイライト最大、シャドウ最大にすることでほぼ2値化することができる)によってノイズを除去できる。
  5. トレースノイズを除去したjpgファイルを、pxaファイルに変換する作業。jpgファイルをPixiaで開くと、一見そのまま使えるようだが、実際には白い部分は透明ではなく白く塗りつぶされた形になっており、このままではレイヤーを用いた作業は困難である。そのため、レイヤーを重ねてトレースしてやる。
  6. 【準備完了】トレースが上手くできれば、元絵はもうお役御免となる。あとはトレースした絵を元に、色を塗ったり影をつけたり背景をつけたりハイライトをつけたりといろいろ遊べる状態になる。この状態から、Picasaでいろいろ面白い効果をつけるだけでもなかなかの画像になる。

作画環境

アナログ

A4のコピー用紙に描く。シャーペンはGRAPHGEAR-1000の0.9mm、芯は2B http://www.pentel.com/store/graphgear-1000

ぺんてる シャープペン グラフギア1000 PG1019 0.9mm

ぺんてる シャープペン グラフギア1000 PG1019 0.9mm

ぶっちゃけ何でもいいが芯は柔らかいのがイイネ!

デジタル

フリーの「Pixia」とwacomのBAMBOOというペンタブレットを用いている。アナログ絵ではUndo絵の効果はGoogleに買収された「Picasa 3.9」を用いている。Picasaではpngファイルはデフォルトでは編集できないらしく、ツール→オプションオプションダイアログ起動、「ファイル形式」タブで「.png」にチェックをつけることにより編集可能になる。

最近描いた絵

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=30336435

こんな感じ。

*1:というと、「咲ってギャル成分入ってたっけ・・・?」という疑問を抱かれる向きも多いと思うが。

2012-07-29

[][]「おおかみこどもの雨と雪」を観て感じたことなど

串焼きの話

映画の中に串焼きが何度か出てくる。花がおおかみおとことの同棲生活の間によく作っていたと思われる料理だ。セリフのないシーンでしか登場しないこの串焼きだが、これを好んだおおかみおとこへの花の思いを表すと同時に、ガラスのコップ (?) に入れたタレに漬けるという食べ方の独特さは、生々しくリアルな家庭の姿の一種の象徴として一役買っている。

アニメーションは絵から構成され、絵は「記号」である。記号は表現者と鑑賞者との共有を前提とする。花の家庭独特の文化は、映画の観客であるわれわれの前提にはない文化である。アニメでこのような新しい記号を提示する際には必然的に言葉による説明が必要となるはずだが、われわれはこの花の料理の意味とそこから漂う家庭の匂いを、台詞のないアニメーション映像のみで何の苦もなく自然に受け容れることができる。

実写志向?

この串焼きの表現をアニメで行うには相応の困難が伴うだろうが、一方で実写でやろうとすれば、撮影技術などを別にすれば作画の困難を省くことができるのではないかと思う。では、細田監督はなぜこれを実写でやらなかったのだろうか?

これはアニメ「らしい」演出が多用された前作サマーウォーズを観たときにさえ感じたことだ。特に仮想空間OZ上のアバターの表現はまさにアニメ向きで、アメコミのように動作を極端に誇張されていたし、ラストシーンの鼻血などまさにアニメや漫画の「お約束」である。しかし本作ではそういった演出が殆ど用いられなかった印象がある。細田監督の作品はある側面では現実をナチュラルに、またリアルに描き出す傾向が強いと感じていたし、専門の声優を余り起用せずに専ら主要キャラクターのCVは俳優に担当させていたことも思い起こされる。

そういえば、この作品は、声優と劇中キャラクターがよく似ている。監督自身、宮崎あおい大沢たかおに会った時に花に会えたみたいなことをいっていたと思うから、当初意図していたものでもないのかもしれないが、この2人に留まらず韮崎のおじいさんやその他モブの大人たち、また雨と雪についても本当によく似ていると感じた。あたかも彼らを俳優とした実写作品が想定されているかのようにも思える。細田監督は、アニメーションではなく実写の映画監督への過渡期にある、ということなのだろうか?

アニメ勝利宣言

幼少時の雨と雪が、引越し前の都内のアパートの狭い部屋の中で走り回る姿はいいようもなく愛らしく、またとても自然な動きに見えた。その動きが実際に「リアル」かどうかは僕には判断できないが、犬や猫の好きな自分にとって、このこどもたちの動きはとりわけ印象的で、映画を観終わった後も思い返すともなく幾度も思い出された。奔放なおおかみこどもたちの、この弾けるような走りは、恐らくアニメでなければ実現できない「本物以上に本物らしい」動きの表現である。

映画の中盤に、冬の朝、一晩にして積もった雪に喜んだおおかみこどもたちが真っ白な山を滑り降りるシーンがある。最初服を着た人間の姿で走りはじめた彼らが、途中で狼の姿に変わり服を脱ぎすてて雪山を駆け下りていく。時間にして5分に満たないと思われる短いシーンだが、そのスピード感、爽快さ、開放感。まるで自分がそこにいて彼らと一緒に走っているかのような錯覚すら覚えさせる、まさに圧巻の一場面である。

アニメーションの本質は動きの表現だと思うが、真っ白な雪の中での彼らを描くアニメーションは一際冴え渡っていたと思う。そして、彼らの歓喜の遠吠えは、アニメという表現手段において実写の表現を手中に納めた上で、さらにそれを超えた表現を描ききった細田監督の高らかな勝利宣言のようにも感じられるのである。

(※この感想は一度だけ観た記憶を元に書いた印象に過ぎません。記憶違い、勘違いなどの箇所があるかもしれませんが悪しからずご了承ください。)