「プリキュアオールスターズNewStageみらいのともだち」感想

プリクラの中で、いろいろな観方をされている本作品ですが、私なりの感想/考察も書いておこうと思います。

坂上あゆみ」というヒロイン

あゆみちゃんというゲストキャラがヒロインとして登場、というのがまず従来のASDX作品とは違います。というか、これまでのあらゆるプリキュア作品と違う。
当初あゆみは慣れない街に転校してきたことを苦痛に感じています。新しい街も、学校も、馴染めない。級友の話題に加われない。そんな転校を強いた母親にも不満を持つ。誰しも似たような経験を持っているのではないかと思います。
つまり、あゆみは「普通の女の子」代表。映画を観る小さな女の子達は、このあゆみという普通の子に感情移入してこのNewStageを観ることになるでしょう。
「あゆみはこの作品の主人公である」というのは大事な認識だと思います。

あゆみとフーちゃん

あゆみとフーちゃんの出会いにおいて重要なのは、「あゆみの払ったコスト」の小ささです。あゆみがしたことは、少なくとも物理的には一枚の葉っぱを取り除いたというただそれだけ。幼稚園児にも出来る行為です。別にあゆみが悪いわけでもなんでもないですが…。

例えばスマイルでみゆきが何者かもわからない狼の化物と対峙して、キャンディをそれから守ろうと必死でがんばったあのシーンとの違いを思い出してみれば、あゆみは「棚ぼた的に」フーちゃんという可愛い友達を得てしまった。物語的には転落フラグとも言えるでしょう。後にフーちゃんが(よりによって)貴金属のブレスレットに変形してあゆみを喜ばせたというシーンもあたかも詐欺の隠喩に思えてきます。

転校をきっかけに周囲との齟齬を感じて孤独感に苛まれていたあゆみにとって、その可愛らしい謎の生き物は絶好の友達になりました。もしあゆみが健全な状態だったとしするなら、フュージョンと出会ったとして、フュージョンに依存することには恐らくならなかったでしょうから。
あゆみにとって、プリキュアはかっこいいヒーローではあっても、やはり人間、最も大事なのはそばに居てくれる友達。だから、どう見てももはや化物にしか見えないフュージョンプリキュアと戦っていても、あゆみはプリキュアよりもフュージョンを選んでしまいます。
孤独感に基づくあゆみのフーちゃんへの依存は、最終的に街全体の大破壊という惨事へと繋がってしまうことになります。努力なしに手に入れられるものの危うさを警告しているようにも見えます。

あゆみとプリキュア

プリキュア達と、他のモブとの対比は意識的になされていると思います。
後ろからぶつかった中学生の男子生徒は当然あゆみなどいなかったかのように無視するし、クラスの級友はグループの中だけで話して、そばに居るあゆみに声をかけることもない。
一方、あゆみに後ろからぶつかってしまったみゆきは、謝ってすぐに立ち去ってしまうあゆみを走って追いかけます。響は、走ってきたあゆみにむしろぶつかられた立場でありながら、ブレスレットが奇妙に変形したのを視認して、やっぱり走って追いかける。そして、自分がどこにいるのかも気にせず追いかけて、あゆみの目をしっかり見つめて、深々と頭を下げて「ごめんなさい!」という。結構地味といえば地味なシーンかもしれませんが…。自分なんかはここで、

これぞプリキュアだ!

…って思っちゃいます。私たちが年甲斐も無く、心から好きになった女の子達。彼女達が共通して持っている、キラキラ輝くハート。それを目の当たりにして、誇らしい気持ちにすらなります。
ごく一端に過ぎないように見えますけど、結構本質的な行動を描いているような気がします。だって、こういう行動って、絶対大人には真似できないですからね…。全く見返りが期待できない行為なので…。(「大人」はそうして下手糞な計算をしては自滅していきます…)

再び出会ったときの、屈託無く手を振ってあゆみに近づき「みゆきって呼んでね!」と自己紹介するという、こういうさりげない行動も眩しく見えます。
もちろん、そんなプリキュアの明るさは時として、また心に陰を持つ子には眩しすぎる事もある。プリキュアは思い立ったら即行動するので、相手の気持ちとのズレが生じることはもちろんある。でも、その行動の根拠に後ろめたいことは何もないので、プリキュアと接する人は最終的には心を開くことになります。あゆみが例えば絶望的な自暴自棄ではなく、プリキュアを選択することができたのは、プリキュア達の太陽のような明るい人柄によるものでしょう。

TVの中にそういうヒーローはいつも居るけど、改めて、孤独な自分に笑顔で接して、本当に親身になってくれる人なんてそうそういないですね? 毎週観続けてきた、「当たり前のプリキュア」がいかに貴重な存在か。あゆみの目を通して気づかされた気がします。

プリキュアオールスターズ!

フーちゃんの許に向かうあゆみとそれをガッチリガードするスイートとスマイル組。ここのプリキュア達の頼もしさは半端ないです。それでも凌ぎきれず、遂に犬の形をとってフュージョンがあゆみに襲い掛かる!その時、現れるハートキャッチ組。そしてフレッシュ組。

ところで、ASDXシリーズ(1, 2)で特徴的なのは、通常の本編では常に視聴者の目線で戦う主体であったプリキュアが、映画では「ピンチの時に現れて助けてくれるヒーロー」として現れるということ。
本編では、一般人は間違いなく結果的にプリキュアに助けられてはいますが、視聴者はプリキュアを謎のスーパーヒーローとして実感する形では描かれていません。プリキュア達の視点で物語が描かれているからです。
ヒーローとしてのプリキュアを実現したのがASDXといえると思います。ASDX1で、迫り来る飛行機ザケンナーを一撃の蹴りで撃破するブラックとホワイトが神々しいまでにカッコよく感じられるのも当然です。それまで視聴者はそういう経験を持たなかったのだから。

ASNSでのハートキャッチ組、フレッシュ組はまさにその役割を担いました。来るまでは走ってた癖に、登場シーンは木陰からもったいつけて(?)現れるハートキャッチ組4人の姿。やー、これでもう何が来ても大丈夫!ヒーローの登場に絶対的な安心感を抱くことができるのは、ASDXと同じオールスターズの醍醐味と感じます。

ちなみに、ここでフュージョンがモモ(フュージョンに取り込まれた隣家の犬)の形をしてあゆみに襲い掛かろうとしているのは面白いギミックで、「フュージョンが消したものは、形を変えて再び襲い掛かる」ということを暗示していると思います。つまり、フュージョンによる「リセット」も、何も本質的には事態を変えない、ということですね。

さらにミラクルライトで初代、S☆S、5GOGOのプリキュア達が駆けつける。初代登場のシーンは私も涙腺がヤバイです。確かに、言われているようにセリフは無いんですけど。余り重要な問題ではないと感じます。「私たちも含めて、総勢28名です…!」ビューティのセリフがあらわすように、あのプリキュアオールスターズが、また全員登場してくれたのですから。

キュアエコー生誕

そんな伝説の戦士達の力と愛に包まれてあゆみは前に進みます。そんな時、不意を突いてハッピーに襲い掛かるフュージョンに、あゆみは思わずハッピーを助け、代わりにフュージョンに捕らわれてしまう。スマイルで何度も復習させられましたが、私利私欲を省みずに心の底から友達を助けたいと思う気持ちこそ、プリキュアに必要な条件。ここであゆみはプリキュアの資格を得たのだと思います。
あゆみを飲み込んで伸び上がるフュージョンの体はまるで真っ黒のきのこ雲のよう。そんなフュージョンの体を、プリキュアの聖なる光が内部から貫く!「普通の女の子」がプリキュアになった瞬間。キュアエコーの生誕です。

黒い霧に覆われて、メロディとハッピーが動きを止めても、エコーは一人、ミラクルライトの導きを得ながら走り続け、フーちゃんの許に辿り着きます。そして、エコーはあれだけのことをしでかしたフーちゃんに、「友達が欲しかった願いを叶えてくれてありがとう」と感謝し、「フーちゃん、大好き」と言って笑顔で抱きしめるのです。紛れも無く、エコーはプリキュアなんだと感じます。
あゆみの友情の心に浄化されたフーちゃんは、その力をスマイル組に託して消えていく。二人は未来もずっと友達、という言葉を残して。
最初にも書きましたが、このように改めてストーリーを追ってみると、しみじみあゆみメインのストーリーと気づかされます。プリキュアオールスターズはもっぱら脇を固める役なんですね。

「キュアエコー」と「みらいのともだち」

さて、フーちゃんというのは何だったのか?このNewStageのストーリーを寓話としてみなすなら、フーちゃんはあゆみが乗り越えるべき、あゆみ自身の課題の象徴といえるかもしれません。あゆみはこの一連の事件を超えて、フーちゃんを浄化することができた。しかしそれは決別ではなく、「未来もずっと友達」としての別れ。自分の前に立ちはだかる問題は、ただ壊したり、目を背けたりするのではなく、向き合って解消することで、その後の自分の生きる糧となる。(この辺り、ハートキャッチにおけるプリキュアパレスの試練を連想させるものがあります。)
あゆみもまた同じで、あゆみが行ったことは、過去の弱い自分(=あゆみ自身の問題点≒フーちゃん)を、「未来の友達」に変えたということ。サブタイトルの「みらいのともだち」とはフーちゃんをあらわしていると思いますが、深読みすればこれは「過去の弱い自分がチェンジした姿」を象徴している言葉なのではないか、と思います。

「キュアエコー」の「エコー」には「こだま」の意味もあります。昨年の震災後にACの広告で話題になった、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」を連想します。この詩の最後のフレーズは、「こだまでしょうか、いいえ、だれでも。」
キュアエコーだけの話ではなく、女の子は誰でもプリキュアになれるんだよ、という映画のメッセージとの符合を感じずにはいられません。

最後に

ここまで読んでくださった方に感謝です。かなりはしょった感じの感想になった気がしています。、今回の映画ではテーマに基づき練られたストーリーが構築されていました。そのことを自分なりに表現したつもりです。
これまでのASDXシリーズの存在は余りにも大きく、そのため、新しいNewStageへの変化のギャップは非常に大きいものになりました。ファンは、過去のDXシリーズの幻想をこのNewStage上に追い求めてしまいかねません。しかしそういう観方では、おそらくヒロインたるあゆみに注目することもなく映画を観終わってしまうことになるでしょう。それって本当に勿体無い話だと思うんです。
あゆみが、転校前の街や友達のことを忘れられず、新しい街に馴染めない姿は、NewStageに違和感を覚えるプリクラ達と重なって見える気がします。あゆみがフーちゃんとプリキュアとの出会いを経て「昨日までと少し違う朝」に到達できたように、私たちもまたNewStageを発見するために努力をする時ではないでしょうか。