spi0208152005-02-11


胤森家の4人の子供達は、守ってくれる人も導いてくれる人もなく、つらい海原へと放り出されてしまった。父の死によって、私達は“親なし子”になった。親子の絆が何にも増して尊重されていた日本の伝統的な社会の中で孤児になるということは、社会から締め出されるということだった。どういうわけか、私達家族に起こった悲劇は、私達自身が悪いとみなされ、村人達の多くは私達を避けるようになった。


私は父の写真に向かって、ただ孤児というだけで何故日本の人々は子供達をそんなに冷たく扱うことができるのか、と何度も尋ねた。侮辱を受けるたびに、私は段々意地悪で皮肉っぽく反抗的になっていった。周りにいる気取った人々が、すべて偽善者に思えた。父が死んだ次の春には、私は常に怒っている状態だった。村が私に何かを迫っているように感じた。私はいたたまれない気持ちで、ある日千早子の助言に従って車掌さんの目を盗み、広島行きの列車に乗り込んだ。


学校では、これから75年間は広島に何も命が生まれることはないだろうと教えられていた。しかしどうしても、私には広島の廃墟を自分の目で見る必要があった。広島に着いた時、町は私が想像していたよりもずっと活気があった。駅の近くの通りには、当座しのぎの段ボールで作った露店が雑然としていて、食料や服などの生活必需品を売っていた。建物の崩壊による残骸に囲まれているものの、人々は精力的に買い物をし、彼らの生活を続けることに一生懸命だった。私は、1人の老人が火鉢の上で小さなスズメを焼いている露店の前にたたずんでいた。その肉のジューシーで柔らかい一口を口に入れているふりをして、空気を深く肺まで吸い込んだ。すると私のお腹はぐうぐうと鳴り、空腹のために痛くなってきた。


私達の住んででいた通りまでは行けなかったので、その代わりに天満川の土手を歩いた。水際のむき出しになった土の上に座ると、非難の時の恐ろしい映像が自分の中からあふれてきた。深い悲しみや嘆きが噴出し、激しく泣きじゃくった。その涙は悲しみを洗い流してくれ、しだいに私はほっとした気持ちになった。そして、父と何度も砂浜を散歩しながら深い会話をしたことを思い出し始めた。まるで父がいるような感じがした。


しばらくして、私は1本の草が岩陰から芽を出しているのに気づいた。周りが廃墟にもかかわらず、その草は生えていたのだ。私はそうっとすくい上げ、手の中でやさしく抱きしめた。「小さな草がこんな廃墟の中から顔を出している。それならおいらにもできるはず!」とわかり、そうっと元に戻してあげた。


この過酷な現実から逃げることはできなかったが、私が紅葉村に戻った時、そこには新たな決意があった。「命をくれた青い草」のイメージは、それから先も生きていく強さが必要な時には、いつも私の中に再び現れてくるのだ。