救援の成果は人々のものである

経産省前で抗議活動を展開していたために5月28日に警察に拉致・監禁されていた3名が6月8日に解放された。なによりもこのことを喜びたい。解放は、監禁という絶対的に不利な状況で冤罪を跳ね除けた3名、全員を救出するために尽力した救援会、そして彼らの一日も早い救出のために動いた人々の成果だ。

第一の成果は、もちろん彼らを救い出したことにある。ほんとうによかった。拉致・監禁によって彼らに身体的、心理的、社会的、経済的に刻まれた傷が、これ以上ひどくなることを防げた事実はとても重要なことだ。これからゆっくりと時間を使って、3名にはできる限り傷を癒してほしい。そのために必要な支援があるだろう。

だが救援の成果はそれだけにとどまらない。3名は一方的に救われる対象ではなかったからだ。彼らは自らが救われることを通じて、私たちの社会に大きな成果をもたらした。そのことを私たちは大事にしなければならないと思う。

彼らを拉致・監禁した理由として警察が主張したのは経産省敷地への「建造物侵入」であった。経産省の門の外側は経産省の敷地であり、経産省に抗議するためにその場に立ち入る者は「侵入犯」であるとしたのである。むちゃくちゃな理屈である。これがまかり通るのであれば、市民運動労働組合運動などの社会運動が展開してきた行政官庁への抗議活動は不可能になることは明白だった。実際、大阪では「Xバンドレーダー」への抗議活動にバスを手配した人を「道路運送法違反」で逮捕するという弾圧も行われている。

富裕層はそれでもかまわないだろう。支援する議員を通じて行政機関に影響力を行使し、広告代理店を用いたキャンペーンで公論の議題を左右することも可能だ。わざわざ自身の身体をそのために運ぶまでもない。だが貧困者はどうか。自身と社会にとって死活的問題について、辺野古新基地建設、原子力公害、安保法制、派遣法改悪、などなどの問題について、行政機関の姿勢を告発し問題化するために私たちには何が使えるだろうか。自身の身体と声と言葉と知恵と時間をそこに費やすことで、訴え、理解を求め、抗議し、公論を喚起するしかないではないか。

改めて問わなければならない。これまで経産省の門に近づいた者すべてが「建造物侵入」の警告を受けてきたのか。門の前のスペースに立ち寄った観光客は警備員に追い払われたのか。抗議の意思を持って門の前に現れた者だけが、それしか手段を持たない者だけが追い払われ、警察によって拉致・監禁されたのではないか。

今回の弾圧に経産省・警察・検察が意図したのは行政機構への「抗議の犯罪化」である。とりわけその手段を持たない者に対する犯罪化だ。しかし監禁を容認した裁判長ですら、勾留理由開示公判での弁護士の質問に何ひとつまともに答えることができなかった。彼らの意図は挫かれた。拉致される前から始まり、監禁の最中にも引き続いて取り組まれた、3名の持続的抗議がその意図を挫いたのである。

両手首の皮に食い込む手錠、一日中引きずり回すためだけにつけられる腰縄、寄りかかることももたれることもできない直角の椅子。そして検事の仕事を待つためだけに半日にわたって無為に待機させられる地検同行室の時間。12日間にわたって繰り返されるこれらの虐待の上に、公安刑事・検事の甘言と讒謗が繰り返される。「お前の責任だぞ」「仲間に申し訳ないと思わないのか」「彼に言われたんだろう」「巻き込まれただけだよな」「誰もお前たちのことなんか聞いてないぞ」「他にやり方があるだろう」「もっと賢く振舞えよ」

自らを陥れようとする圧倒的な悪意に直面すれば、誰であろうと疑心暗鬼を生じるものだろう。だからそれを越えて3名が、彼らを救い出そうと尽力する救援会が、そして彼らを取り戻そうとする人々が、互いにつながることに希望を見出せたことはもはや幸運としか言いようがない。誰もが最初から仲間であるわけではない。希望への隘路を通じて仲間となるのだ。

再び3名と救援会、そして「拉致・監禁」に怒りを感じた人々の運動がこの社会にもたらした恩恵を確認しよう。行政機構への抗議を犯罪化しようとしたもくろみは、東京でみごとに跳ね返された。検察が彼らへの起訴を断念するまで、また、再び行政機関が「抗議の犯罪化」に乗り出すことの無いように、運動を続けよう。(y)