男性の助産師について

 まず、助産師は女性の方が好ましいということはひとまず言える。それは言うまでもなく、女性器と直に接する職業であるからである。
 賛成派は、男性の産婦人科医もいるのになぜ助産師はダメなのかという議論を持ち出す。統計を取ったわけではないが、おそらく産婦人科医は男性の方が多いだろう。これは医師に男性が圧倒的に多いことの帰結だと思う。医師は高度に専門的な職業である。その場合、自分の性器を見られることの羞恥心は、相対的に小さくなる。恥ずかしいのは確かだろうが、生殖などの自分の手に負えないことに関する限り、それは許せることになるのだ。
 ところが、それほど専門性を必要としない女性の性に関する職業では、男性は忌避されている。たとえば、トイレの清掃(トイレの清掃は、直接性に関わるものではないが、排泄は性に間接的に関連する)は、基本的に女性がやっている。なぜか? それは女子トイレの清掃があるからである。男性が女性のトイレを清掃するのはだめでも、その逆はOKなのである。ここに性の非対称性が見て取れる。男女間のセクシャリティには明らかな差異がある。男性が女性を欲望することは配慮されても、その逆は配慮されていないか、またはないとされている。女性が男性を欲望することはあるだろうが、そこには男性が女性を欲望する仕方とは明らかな違いがある。これについては詳述しないが、大雑把に言うと、男性は、初対面の女性でも欲情できるが、女性は、物語がない限り、欲情できないように思える。これはポルノが男性向けで、ハーレクインが女性向けであることからも明らかである。
 現状では、女性の性に関わる職業への男性の起用は、専門性の多寡で決定されている。誰でもできるのなら、あえて男性がやる必要ないというわけだ。また、性別にこだわることは、暗に専門性を否定しているとも言える。このような状況を踏まえると、助産師への男性の起用が許可されていないのは、助産師はそれほど専門的な職業ではないと考えられているからだろう。

スケベであることは非難に値するか?

 スケベであること、またはスケベな人は通常好ましくない属性または人と考えられている。社会的地位のある人がスケベであることを積極的に示すことは地位からの転落につながりかねない。しかし、スケベであることに非難される合理的な理由があるだろうか?
 まずスケベなヘテロセクシャルの男性の定義を試みよう。かかる男性は、女性への性的好奇心が旺盛な男性である。したがって、隙あれば女性の下着を見たり、女性と性的な関係を持とうとする。
 では、なぜかかる男性が非難されるのか? 社会的には、一夫一婦制を危うくするからであると考えられる。不特定多数と性的関係を持とうとすることは、一夫一婦制の社会では反社会的な行為である。また、恋愛の観点からも非難されるだろう。つまり、恋人や妻は、相手がスケベであることを好ましく思わない。それは潜在的に浮気の可能性を示すことになるからだ。では、社会的地位がないか、恋人または妻がいなければ、スケベであることは問題ないだろうか?
 ここまでの議論で、問題があったことを認めなければならない。まずスケベな男性という定義が妥当かどうか。もし男性がすべからくスケベであるとしたら、どうだろうか? その場合、スケベな男性という定義は無意味である。まずは、男性がすべからくスケベであるという命題から出発し、その上で、男性のかかる属性が非難に値するか否かを考察すべきであった。
 男性のスケベさを考察する際、留意すべきことは、スケベのモード(態)である。スケベは潜勢態と現勢態に分けられる。男性は潜勢態として常にスケベであるという命題は真であるし、それ自体は何ら非難されることではない。なぜなら、まずその限りにおいて、他者に迷惑をかけないからである。また、スケベなこと自体に対しても当事者の責任を問うことはできない。なぜなら、それは男性自らが望んだことではないからだ。しかしながら、スケベが現勢態になるときは、TPOに応じて、男性は非難されることがあり得るし、そのことについては妥当だと考えている。
 同じ状況でも痴漢を犯す人もいれば、犯さない人もいる。犯した人はスケベの現勢態に移行し、犯さなかった人は潜勢態にとどまったのである。罰せられるのは前者であるが、両者ともスケベであることには変わりない。後者も特定の状況であれば、現勢態に移行するであろう。たとえば、誰からも監視されていない状況で、性的な好奇心を満足できる覗きができる状況を考えてみて欲しい。そこで潜勢態を保てるとすれば、その人は真に宗教的および/または倫理的な人であるとが考えられる。あるいは、もしそのいずれでもないとしたら、その人こそ変態=異常性欲の持ち主なのではないだろうか? ただし、この議論はあまり意味がない。なぜなら、そのような状況を想定することは不可能だからである。もし覗けるとしてもそれが罠ではないことを保証する審級はない。
 さて、話がそれたが、結論は以下のようになる。スケベであることは――TPOに応じて理性の力を動員して潜勢態に踏みとどまる限り――、何ら非難されることではない。

「メランコリア」@ブルク13

ストーリーよりも、リアリティやディテールに注目すべき映画だと思った。
メランコリアの存在感がすごい。2つの月のシーン、電柱からの放電、不吉な重低音などとにかくリアルだった。
メランコリアはアンタレスを遮って、地球へと向かう。ブランショによると災厄(désastre)とは星の失墜が語源だと言う。メランコリアは、語の正確な意味で災厄である。
【以下ネタばれあり】
映画では、フランス式庭園を持つ有閑階級の世界しか描かれていない。映画のような状況になったら、どうなるかと考えた。メランコリアのニアミスが確実になった時点で、社会はまともに機能しないだろう。金銭の価値が恐ろしく低下し、人々は物資の確保に汲々とするだろう。ラスト数時間では、大半の人々は、クレアかその旦那かのどちらかの行動パターンを取ると思う。ジャスティンだけが落ち着いていたが、ジャスティンはすでに結婚式の時点で死を悟っていたのだと思う。だから、結婚式で夫と上司をともに失う。
あれほどの災厄になるともはや災厄は存在したとは言えないだろう。なぜなら、人類が殲滅した場合、存在は認識されないからである。

文学部で学ぶ意義

最近創設された大学にはまず文学部がない。このことは文学部がもはや必要ないと考えられているかのように思える。しかし、本当にそうだろうか。
ここでは文学部で文学を学ぶ意義について考えてみたい。
文学は、テキストにより人間の内面を深く探ることに主眼としている。また、文学の学習は、テキストを読むことを通じて行われる。ここで留意すべきことは、文学作品の読書が経済学や化学のテキストを読む行為とは質的に異なるということである。文学作品を読むことは、必ず著者と読者間の個人的体験になる。読者はテキストを通じて著者の内面に接する(ロシアの詩人ヨシフ・ブロツキーは、『私人』で読書体験を「相互厭人的」体験と言った)。これが文学を学ぶことの特徴である。社会科学や自然科学系の学問領域では、学説提唱者などが積極的に個人の内面を披瀝することは決してない。
よくある批判は、そのような文学体験が何の役に立つのか、というものだ。たとえば、英米文学の作品であれば、英語力の向上につながるし、またどの言語で書かれた文学作品でも、読解力や文章の作成能力の向上につながるだろう。しかし、それらは結果的なことである。それらは文学を学ぶことの積極的な目的ではない。
積極的な目的は、もちろん人により異なるだろうが、理想的には享受することである(つまり、それ自体が目的と言える)。しかし、大学で学ぶ以上は、社会に対して何かしらフィードバックを提供しなくてはならないのではないだろうか。それが、何の役に立つのかという問いで問われていることであるが、文学が積極的に何かの役に立つと答えることはできないと思う。だからといって、何の役にも立たないというわけでもない。ただ明確に何かの役に立つと言えないだけである。文学のテキストは、何らかの具体的な知識の伝達を目指しているわけではない。だから、文学を学んでも、教員を除き、専門的職業に就くのは難しいだろう。
しかし、文学は確実に生きる力になり得ると思う。それは文学で、絶望など負の側面も含めて、人間の感情の深みを体験できるからである。それにより、現実での絶望に多少とも免疫を与えてくれるのではないか。また、感情だけなく、思考の記録でもあるので、当然、思考力をつけるのにも役立つ(思考力の強化は、語彙の獲得および文章作成能力の向上とパラレルに達成される)。感情と思考力というだけでは具体性を欠くが、それらは人間の行動全般の動力である。よって、それらを陶冶することの重要性は明白である。
以上の側面から――文学が何の役に立つかという問いについて先に述べた意見を翻すが――、弁護士など人間の内面に深く踏み込む職業にとって文学の学習・体験は役に立つと思う。他学部の学生に副専攻として文学を学ぶという道があっても良いのではないだろうか。

「絶対の愛」

キム・ギドクの映画の中でベストかも。テーマは愛の唯一性である。Timeという原題は、時間に経過による、愛欲の低下に関連付けられると思う。
セヒは、恋人のジウが別の女を思い自分を抱いたことに、悲しみを覚えて、整形手術を受け別人になり、常にジウの関心を自分だけに向けようとする。ここにセヒの誤りがあったと思う。とはいえ、絶対の愛を願い、それに絶望したのなら、そのような突飛な行動も感情的には理解できる。
しかし、整形手術後のセヒの不気味なこと。あんな異様なマスクにサングラスの女を見たら、逃げ出すわ。
ともかく、セヒは、整形手術に成功し、別人になり、スェヒと名乗り、ジウに近づく。そして、スェヒとして結ばれるが、スェヒの気持ちは晴れない。スェヒはジウの中にセヒを探さずにはいられない。スェヒはセヒを演じ、セヒの名前でジウにラブレターを出す。そして、セヒのお面を被り、ジウに会う。これがまた不気味この上ない。ジウはその後スェヒがセヒであることに気づき、絶望するが、そこでジウの取った行動に驚いた。ジウはセヒを模倣するのである。これにより立場が逆転する。
この映画で描かれているのは、愛の不可能性の迷路に迷いこんだ男女である。これは絶対の愛を目指すという、セヒの法外な胸を打つ企図によるものである。
映画全体としては、一種の劇薬で、肺腑を抉る強烈さがある。スェヒ役の女優の切れた演技がすごい。走るときとか、まったく美しくない。音楽は最高に良かった。圧巻はラスト(オープニング)である。これは繰り返し見ないとわからないかもしれない。背筋が寒くなるようなラストである。

クラブイベント@ageha

初のageha出撃だった。しかし、京葉線のホームの遠いこと。
agehaも新木場から結構歩いた。

外のロッカーに荷物を入れて、エントランスに入る。途中、映画のチケット売り場みたいなところで、入場料を支払う。
いよいよ会場への入場口に。驚いたのは、入念な手荷物チェック、ボディチェック、およびIDチェックがあることだ。財布の中身までチェックされ、手で服の上から体を探られた。そうでもしないとドラッグを見つけられないとは思うが。しかし、クラブでそこまで手の込んだチェックを受けたのは初めて。
晴れて会場に入ることができた。

ARENAというメインフロアを撮った写真。フロアへ降りる階段の前にはセキュリティがいて、ドリンクを持ったままフロアに降りようとすると注意される。もちろんフロアで喫煙はできない。今は他のクラブもそうなのかもしれないが。迷惑行為をなくすよう、いろいろ配慮されている。
プレイ中、一定の時間を置いて半裸の女性がお立ち台みたいなところで踊ったりするが、エロというよりは、アート色の強いパフォーマンスだった。
Sven Vathのプレイは、堅実の一言に尽きる。多幸感を感じる瞬間が何度もあった。また、Wombのように激混みにはらないのも、良かった。

「クライング・ゲーム」

IRA絡みの話だが、社会派の映画ではない。
ラカンの有名な(悪名高い)テーゼ「男女関係は存在しない」を表す例として、ジジェクが言及していた映画だ。
見て良かったと思ったのは、重要な役でフォレスト・ウィテカーが出ていたことだ。味のある役者だと思う。
映画は良かった。ストーリーが納得できたし、音楽やアクションも効果的だった。
女だと思っていた相手が、男だったらそのショックは計り知れないものがあると思う。ファーガスがその後、謝ったのは立派だなと思った。
男女関係だけでなく、人間関係全般で相手の欲望に照準することはあると思う。相手に何かメリットを与えるのでなければ、関係が成り立つかどうか疑問。夾雑物のない純粋な関係があるとすれば、血縁や幼なじみとの関係になるだろうか。