家族ノカタチ (感想)

香取慎吾上野樹里、この組み合わせを見た時は期待が膨らんだ。どんな科学変化を起こしてくれるのか、と。


しかし、私は第2話にして途中から録画視聴(見ながら録ってた)に切り替え、ついには第5話を最後に見るのを止めた。
その理由は、ストーリー展開が「主人公にカッコ良さげな台詞を言わせる為」に敷いたレールを走るだけだからだ。
これは香取慎吾ファンにはたまらないだろう。主人公以外の登場人物が全て主人公の引き立て役なのだから。
だが特に香取君に思い入れもなく「面白いドラマ」を見たかった人達にとって、そのストーリーは「気持ち悪い」ものだ。
どんな物語も、登場人物同士の葛藤の結果で発生する感情のベクトルの方向に向かって行ると思わせるように作るのだが、
このドラマは「この事件ならこう言う感情のぶつかり合いになる」のではなく、「この方向へ向かわせる為の会話」なのだ。
そして、その方向へ向かわせる為に周囲の人物が介入し舵を切るのだが、それに誰もが平然と従うのだ。
見ている方からしたら「おい、そこ勢いで持ってったけど全然自然じゃ無いぞ?」と感じてしまうのが普通だ。
挙句、最後には主人公がテーマ的な事をセリフで言って終わる。


まず、各話数毎の「家族テーマ」があり、それに沿った「言わせたい名言」が予め用意されているような印象を受ける。
シチュエーションもその為に作られ、登場人物たちも「話を進める為」の「台詞化されたト書き」を発する。
それはまるで、ドラクエで町に入って出会うキャラが話を進める為の情報セリフを言っているのと同じなのだ。
彼らの台詞が文章的にどんなに美しく、また含蓄があるように書かれていても、それは粉飾でしかない。
ボーヴォワール風に申せば「言葉は名言として生まれない。名言になる」ものなのだ。
そう言えばタモリさんには「名言は好きですが、名言を言おうとする人は嫌いです」という名言がある。


これは俳優の演技の問題では無い。演者たちは皆、良い演技をしているのだ。


「主人公が裸の王様でドヤ顏をする様を描く」ドラマなど、見たくは無いのである。

転がれなければ苔生すだけ

最近のアレはどうだとか、昔は良かっただとかは、転がれない己を正当化しようとしているだけ。

転がる事、それは迎合ではなく、進化とも少し違う。
常に生きていれば必然なのだ。
角が取れても石は変わらない。