代わり映えしない前置きですが、前回同様、内容やストーリーの感想ではなく、描写として気になったところや「ここを見ると面白いよ」という制作側のこだわりを見つけていきたいと思います。
見出し
・草原と羊と馬車と
・ミセス・トロロープの「髪型」
・ビーフティー
・「見えない」「聞こえない」でも「見て」「聞いている」
・雨
・やっぱり使用人が好き
描写の解説面で説明の都合上、描き方に踏み込んでおります。まだ見ていない方はネタばれになるので、ここから先は読まないようにお願いいたします。
草原と羊と馬車と
ドロテア奥様とエマさんが馬車で外出している風景、石垣と草原と羊の群れ、という感じですが、倫敦を離れるとこうした光景は珍しくありません。
実際に久我は舞台となったハワースに行っていないので、旅行記を書かれた方のURLを以下に紹介します。
ハワース旅行記
ハワース旅行記:村上リコさん
原作でいうところの3〜4巻辺りを扱っています。
以前、ハワースのある北ではなく、西のバースへ向かったとき、鉄道に乗りましたが、同様に緑の平原が広がり、羊がいっぱいいたのを覚えています。
あぁいうところをのんびり歩きたいですね。
ミセス・トロロープの「髪型」
これは原作でもありました光景です。エマさんが赤面していたのは、珍しいから見惚れていたことなのか、当時の風習的なものなのかわかりませんが、短い髪の毛は非常に珍しかったのです。
ヴィヴィのような子供ならまだしも(折りしも次回予告で少女時代のエレノアと姉のモニカは髪を垂らしています)、成人した女性は髪の毛をきちんと束ねる習慣があり、髪の毛を垂らした姿を見られるのは、恥ずかしいこととされていました。
時代は少し後になりますが、アガサ・クリスティの自伝にはこの辺りの「羞恥心」を示す風景が出ています。手元にあった本が無いので正確な引用はできないのですが、フランス人のメイドはほどけた髪の毛をクリスティの父親に見られるのを嫌がった、という記述があったかと思います。
ほどけた髪の姿をしていいのは、個人に立ち返っている時であって、人前に出ていい姿ではないのです。『エマ』においてもその辺りはきちんと描かれていますし、『Under the Rose』でも、「髪がほどけている」状態の女性は、普通の状態にない、というように当時の文化、髪を垂らしている姿の意味を伝えてくれます。
『エマ』4巻を見ると、倫敦でドロテア奥様とミセス・トロロープは「オフィシャルな場」で再開します。(P.125)この場でオーレリアはあの短い髪の毛を、きちんと結っていますね。細かいです。
この当時のアメリカを知りませんが、もしもイギリスと同じだとすると、『若草物語』のジョーが髪の毛をばっさり短く切った決断の大きさが、伝わりますね。
ちなみに、女性の髪を手入れしていたのは侍女です。彼女たちには「理髪」の才能も求められました。第一話でナネットが「私にもレディーズメイドのプライドがある」と言ったのは、「理髪」「服飾」など、高度なスキルを培ってきたこれまでを振り返ってのことになるでしょう。
と長々と書きましたが、ミセス・トロロープは島本須美さんです。もう何も言えません
ビーフティー
この言葉を知ったのは『シャーロック・ホームズ家の料理読本』です。この飲み物、その名の通り牛肉を用いた「お茶」です。
同書によると、「ビンに牛肉と水を入れて、ビンごと煮込み、それを濾したスープ」のようなレシピになっていますが、「おいしいのか」どうかは不明です。
病人のグレイスが顔をしかめていたので、その味はそのまま肉汁で、強力すぎるのではないでしょうか? 綺麗なカップに入っていましたが。
このシーン(グレイスの寝室)、アーサーが暖炉を火かき棒でいじっているのがいいですね。暖炉の炎、大好きです。今回、アーサーはかなりいい役回りです。
「見えない」「聞こえない」でも「見て」「聞いている」
主人たちはプライバシーを守るのに苦労します。屋敷の中には仕事をしているメイドが大勢いるからです。メイドと主人たちはなるべく顔をあわせないように、或いはメイドたちは存在しないかのように扱われました。
彼女たちは、私語も笑い声も禁じられました。
なぜならば、階段の上で「暮らす」のは主人たちであって、使用人ではないからです。ある意味、ホテルやレストランをイメージしていただければよいでしょうか? 店員同士が私語を楽しんでいたり、笑いあうようなところでサービスを受けたいでしょうか?
話がそれましたが、可能な限り、使用人は時間を厳守して、掃除のスケジュールにも配慮しました。主人たちが部屋を空けたら、メイドが掃除をしていた、なんて光景が無いように。
とはいえ、人間のやることですから、完璧ではありません。今回のメアリーとフランシスのように、仕事の途中でたまたま通りがかってしまうこともあります。『MANOR HOUSE』では当時のルールにのっとり、主人たちが通りがかるときは「メイドは壁の方を向く」といったことをしています。
では、使用人の手助けが欲しいときはどうするのでしょうか?
そのとき、必要になるのが階下にある呼び出しベルに繋がる「ハンドル」(呼び鈴)です。各部屋にはベルに連動した仕組みが用意してあり、使用人が必要になれば、主人はそれを鳴らして、呼びます。
合理的なようで、これは使用人の仕事が「絶え間ないストレス」にさらされることを意味します。休んでいたのに急に呼び出される、常に呼ばれる心理にさらされるのですから……紳士協定的に、「使用人がお茶の時間を楽しんでいるとき」などには呼ばないようになっていましたが、どこまで守られたかは不明です。(あまりその辺の不満は呼んだことが無いので、そこそこ守っていたとは思います)
そういうメイドが主人たちの話を盗み聞きするのはよくありませんし、推奨されませんが、使用人にとっては数少ない楽しみだったかもしれません。ある意味、主人たちは「観察」されてもいるのです。
DVD『MANOR HOUSE』でも主人たち夫婦の間柄について「別々に寝ている」と言うあけすけな証言があったり、実在のメイドであるマーガレット・パウエルも聖職者に仕えたとき、「子供が何人も要るってどうなの?」などと、容赦無く切ったりもしています。
それで言うと、「こんな面白いお客さんいたよ〜」という店員の心境に近しいかもしれません。
雨
今回、エレノアの靴を持って、雨の中、立ち尽くして控えていたフットマン。こういう視点、素晴らしいです。
雨と傘とお嬢様。最近、そういうエピソードを読みました。それは、少年時代にあるクラブで使用人として働いた方の思い出です。
雨の日。クラブに来たゲストが馬車に乗るとき、雨に濡れないように、大きな傘と半円形の雨よけ?を持って、少年は一緒に移動しました。特に女性の衣装は裾が長く汚れやすく、それを如何にして守るかが、腕の見せ所でした。
少年はクラブのオーナーの令嬢に淡い慕情を抱いていました。階級、そして存在感の違い。彼女を「守りきった」時、彼女の無言の微笑みと「ありがとう」のうなずきを受け止めるとき、言い知れぬ満足を得ました。
60年経った今でも思い出せる、と語るほどに。
使用人描写が少なく寂しいですが、原作もこの辺りはこんな感じですね。ウィリアム+エレノアが非常に強まっていますが、エマさんとハンスでどうバランスをとるのか?
というか、エマさん、出番少なかったですね。例の猿のシーンもちょっと短く……残念です。
しかし、なんというのか、今回はミセス・トロロープの登場で心が折れました。素晴らしすぎです、島本須美さん。ナイスキャスティングです。なぜ、原作の頃はこれほどこの人に目を向けなかったのでしょうか?
そんなあなたに公式サイトのミセス・トロロープを。
やっぱり使用人が好き
久我はヴィクトリア朝が好きですが、ただのヴィクトリア朝ではなく、「暮らしの匂いがする」「温度を感じる」ヴィクトリア朝が好きです。使用人たちは、そうした世界を楽しめる「ひとつの切り口」です。
「使用人を主人公にする」というと、「メイドマニアか」「この執事フリーク」と呼ばれそうですが、彼らの視点はとても大事で、地に足がついているところや、働く姿に共感を覚えられます。
で、アニメは「生活・暮らし<ヴィクトリアン<ラブ・ロマンス」となっていて、暮らしの匂いがしないから、そこで物足りないのだなぁと思いました。『エマ』が他のマンガと異なっていたのは、日常描写があってこそ、だと。
が、もうどうでもいいです。こうしたすべての理屈を吹き飛ばすような世界があることを、森薫先生の部屋で感じてください。自分が小さく思えました。
考えずに、ただ感じればいいのです。
新米ハウスメイド「アニー14才」
ハウスキーパーも、昔はメイドだったのです。あのヨハンナにも「ちょっとした」頃があったのです。アデーレにも、少女時代がありました。
メイド万歳。
世界はただ広く、果てしない。
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公式サイト:英國戀物語エマ
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