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2007-07-08 『英國戀物語エマ』第二幕が終わる

[]『英國戀物語エマ』第二幕感想〜全体を振り返って

何かを吸収して、伝えることの難しさ

しばらく『エマ』のアニメ版『英國戀物語エマ』第二幕の感想を書いていません。一番「書けない」と思ったのは、同じ世界を見ても、感じることは違うんだなぁという事実です。当たり前のことですが、あまりにも認識の差が、大きいのです。


久我は「使用人を描ききれていない」と、第二話「月光」の感想で書きました。使用人たちのエピソードで、最も面白い題材であり、森薫先生の筆も走っていた「使用人だけのパーティ」。使用人を描くならば、これを外すはずがありません。第二幕で最も期待したシーンでした。



しかし、アニメではあっさり終わってしまい、華やかさも、使用人がそれをどれだけ楽しみにしていたかも、伝わらなかったのが、寂しかったです。


が、「今回は恋愛がメイン(使用人を描くのは今回の目的ではない)」と監督のインタビューを教わり、また第二幕だけで「7巻までを完結させる」というありえないぐらいのスピードで進むことを知り、「じゃぁ、しょうがないか」と諦めていたのですが、ある記事を読んで、「それはないだろう」と、思ったのです。


それが冒頭の「認識の差」です。


脚本家のインタビュー

長い前ふりですが、たまたま『月刊コミックビーム』にて、脚本家の方のインタビューを読みました。実際にイギリスに取材をして、屋敷の中を歩いていて、その上で、『エマ』を読んで、使用人を学んでいて、あのアニメを作っています。


MANOR HOUSE』を見て、『ヴィクトリアン・サーヴァント』も読んで、森薫先生が言うところの、「メイドマンガ」を描ける条件は整い、また日本ではかなりのレベルの資料・体験をしたでしょう。久我はその世界が好きですし、森薫先生が様々に勉強した結果に出力するそれを、好んでいました。


以前にヴィクトリア朝メイドを語ること・『エマ』に思うことと題して、『エマ』の原作、小説、アニメへの感想を書きましたが、結局、「その人しか見えない世界」が、『エマ』にはありました。


インタビューの中で、脚本家の方は「使用人の生活風景を描く」(描いた)と応えていました。


「そのつもりで作っていたの?」


久我は驚きました。


森薫先生と同じ視点ならばそれを言う資格はありますが、言葉とは裏腹に、久我には使用人を描いているように、伝わりませんでした。


確かに、使用人の仕事の描写、生活する風景は映像として増えています。しかし、それ以上ではありません。だから、あの記事を読んで、驚きました。


『恋愛を優先して、使用人を描くのを減らしたはずでは?』

『原作と同様に、使用人を描いているつもりなの?』


風景は描けても、『エマ』にあった価値観や質感、温度は伝え切れなかったと言うのが感想です。メルダース家の魅力的な使用人は、その輝きを失い、数は多くても、背景でしかありません。


時間的制約(第一幕の3倍のスピードで進む)があったとはいえ、劇的な展開を描かんがために、原作では大切にされていた小さな風景が、疎かにされたことは、残念でなりません。


『エマ』には、メイドブームに一石を投じ、あの時代を生きたメイドたちの風景を、段々と伝えていくようになった、新しい価値観に光を当てた功績がありました。


その功績とは、「ゴシックでダークで退廃的な雰囲気がするヴィクトリア朝に対して、光が当たり、人が暮らしている息吹が伝わる日常生活を描いた」ことです。使用人がいて、貴族がいて、彼らが暮らしている風景を、彼らが見ているロンドンの街並みを。


勉強しなければわからない、使用人の目で見た生活の風景を。


今回のアニメでは、普遍的な恋物語をメインの題材にした結果、原作のオリジナリティは損なわれました。原作を離れた結果、原作の作り出した「価値」を損ねる描き方になりました。


あのインタビューを読まなければこういう文章は書かなかったのですが、本当に、使用人は描かれていたのでしょうか? あれで描けていると思われたら釈然としませんし、原作とは別物だと言うことを伝えておくために、それを検証します。


使用人の生活風景を研究する立場として原作とアニメの「使用人の描き方」の差を、明確にしたいと思います。


以下、今までのような「描写の解説」ではなく、作品全体への感想です。まだ見ていない方はネタばれもあります。またアニメ版に対して、論理的に批判を試みています。対象ではないと思われる方は、ここから先は読まないようにお願いいたします。










屋敷のルールを無視

今回の物語で釈然としなかったのは、ポリーの起こした事件です。原作のポリーは少し間が抜けていて、ちょっと口は悪いですが、お間抜けないい子でした。アニメ版のポリーはロンドンに行きたいがために、屋敷の高価な財産である壷を破壊しましたが(第四話『求婚』)、劇的なエピソードを描くためとはいえ、これはありえませんし、即刻解雇に繋がります。


正確に言えば、「エマさんがへまをすればロンドン行きが無くなる」と聞かされ、「へまをしようと壷を割ろうとして、思いとどまる」「ポリーが割ってしまい、エマさんのせいにする」(ロンドンに行きたくないエマさんと、ロンドンに行きたいポリーで利害が一致)と言う流れですが、こういう発想を『エマ』という作品で描くこと自体が、意外でした。


メイドは、そんな発想はしません。


壷を自発的に壊す=人生を壊す、からです。


自分で弁償できないほどの価値あるものを、そもそも簡単に壊せるものでしょうか?


アニメ版『エマ』ではその辺、使用人の価値観、風紀が緩みきっています。使用人たちの「プロフェッショナルを感じる仕事風景」がそれほどありません。彼らはプロフェッショナルだからこそ、魅力的なのです。


『よくいわれているように、彼らは"自分の立場を心得ている"が、立場を心得ているということはけっして卑屈ということではなくて、専門家としての誇りを持っているということなのだ』
(『アガサ・クリスティー自伝』(上)P.58〜59より引用)


今回の『エマ』において、自らの職務に忠実だったのは、エレノアの侍女アニーと、雨の中で彼女の靴を渡そうと立ち尽くしていたフットマンぐらいで、他のメンバーは「そのプロフェッショナルを発揮する舞台が無いこと」で、単なる働く人、になっていました。後半は特に、登場シーンの多くは仕事をしながらではなく、雑談でした。


ポリーの事件は、原作において尊重していた当時の規範を破りながらも、特にそれによって劇的な面白さも得られない、という結果になっていました。


使用人の規律や仕事風景を描くことは、ウィリアムと住む世界の違いを、より明確にする効果があります。それが、今回のアニメでは使用人全員がエマさんに甘く、階級を超えた恋愛、という階級の違いをあまり感じられない、職場の違い、というぐらいに感じられる印象を受けました。


もちろん、ここで述べているのは「当時そうだったかもしれない規範」であって、絶対に守るべきものでもありません。しかし、原作『エマ』では、こういう描写をしなかったでしょう。


原作の話と展開が異なるのは仕方が無いと思いますが、せめて、「原作が大切にした規範」ぐらいは、守って欲しいと思うのが、久我の気持ちです。


プロフェッショナルな規範、アデーレも存在感が薄く、淡々としながらも職務を遂行して仲間から一目置かれるハンスも、「ありえない」ぐらい、別のキャラクターになり下がりました。


緩い職場とご都合主義

何よりも、原作云々を離れて、「ご都合過ぎる」描写だと思ったのは、エマさんが故郷に戻るシーンです。屋敷を飛び出して、鉄道に乗って故郷に帰るのは、どうなのかと思います。使用人にとって、鉄道は「簡単に乗る」ものではありません。


第一幕の最終回にありましたが、あれだけの条件、「主人のケリーが死ぬ」「ウィリアムの屋敷でウィリアムとの階級差を自覚する」、そういう「これまでの自分から一度離れる」「大好きだからこそ、身を引く」だけの覚悟があって、鉄道に乗り、故郷に向かうのを選んだはずです。


しかし、今回は恋敵ともいえるエレノアの傷心の姿を見たとはいえ、使用人としてのプロフェッショナリズムのあるはずのエマさんが、職場を離れ、走り出して、衝動的に鉄道に乗って故郷に帰る、なんていう行動をとりました。


故郷まで、何時間かかるのでしょうか?


お金、持っているのかと。


さらに最悪だったのは、ハンスがそれに追いついていた、ということです。エマさんのみならず、ハンスまで巻き込まれています。


原作において、「ケリーの死」「住む世界の違い」が引き金になって、エマさんは故郷へ帰ろうとしました。しかし、今回のは勢いのまま、よくわからない流れの中で逃げるように旅立っています。「逃げて旅立つ」には、遠すぎる場所へ。


感覚としては、勤めている社会人が、つらいことがあったら、勤務時間中に職場を飛び出し、荷物を持たずに地方の実家へいきなり帰ってしまう、という展開です。


そもそも、使用人が職場を離れるのは、よほどのことです。解雇されても間違いないにもかかわらず、屋敷に戻っても一切咎めは無く、ここでも「緩い」使用人の世界の描写があります。


使用人は簡単に解雇される環境にあった、それは階級の違い、彼らの置かれている立場不安定さを物語るものです。使用人を描く、とはそういうことです。


が、アニメ版ではそういう規範を一切無視しています。

エマさんとハンスが戻ってきたとき、誰もそれを強く非難せず、結果として、また許されました。「常に温情あふれる裁定を下す奥様」と、規律に厳しい・権威があることで魅力を増す「ハウスキーパー」も単なる理解者になり、使用人が全員エマさん支持と、リアリティを欠いています。


軸が無く、ぼんやりした印象になりました。


また、外に飛び出したこと、責任放棄をしたこと自体を、エマさんが深刻に受け止めていません。今回のエマさんは「激しい行動をする割に、感情描写が無い」のです。


エマさんがいない(メルダース家の使用人たちも)

エマさんが魅力的に描かれていません。


たとえば、メルダース家のリス、テオが逃げ出したとき。それを助けようとエマさんは追いかけます。木に登る、ところまではいいとして、ハンスの手助けを断り、無意味な意地を張って樹から落ちるところは、プロフェッショナリズムの発揮する場所でしょうか?


意外と彼女は頑固者なんだよ、と言う描写なのでしょうが、人の意見を聞かない今回の「頑なさ」を見せただけに思えます。


それほど職務熱心かと言えば、上に書きましたように、ありえないぐらいの職場放棄もします。


結局、今回のアニメ版ではエマさんが不在過ぎるのかなと、感じました。モノローグはあるものの、あまりにも淡々としすぎて、感情表現が成されていないのです。恋愛の当事者であるエマさんが共感を得られないぐらいに埋没してしまっています。


その一方で走り出したり、遠くまで出かけたり、行動にはむらがあります。


原作でエマさんが際立ったのは、「ウィリアムとの再会の後、メイドの制服に着替える」「その後、よくしゃべるようになる」「メルダース家で火事があって、一生懸命消火活動をする。それやその後の何気ない会話がきっかけで、エマさんが仲間に受け入れられる」エピソードです。


それまで一人で働いて、感情を出すことが不器用だったエマさんが、火事の騒動を通じて躍動し、仲間として認められ、またちょっと「掃除フェチ」的なところを見せ、他のメイドから「えー」と言われますが、そんなふうに仲間と一緒に仕事をして、声を上げて笑っている姿は魅力的でした。


また、同僚からちょっと引かれるぐらいのメイドという職業への愛着は、自分を拾い上げて育ててくれたケリーに対しての愛情にも思えるものがありました。


しかし、今回のエマさんは、他人の中にいません。


常に受動的で、同僚への無関心さも、目立っています。心配してくれる同僚に、心を開きません。ろくに返事もしません。ナネットが話しかけても、ターシャが話しかけても、ハンスが哀れなぐらい一人芝居を演じても、返事をせず、感謝もせず、淡々としすぎていました。


ナネットを助けた以外に、エマさんが同僚として魅力に思える描写はほとんどありません。よくわからない、でも仕事は出来る、なんとなく信頼されて、奥様に可愛がられる、優秀な使用人。


ウィリアムのことしか考えていない、と言う描写があればまだよかったですが、それも伝わりません。


原作には、「真面目そうに見えたけど、ちょっと変なところもあるし、意外と話せる子」みたいな、「一人で勤めていたメイドのときには無かった環境を、楽しめる」エマさんの姿がありました。


エマさんは、物静か過ぎて、何を考えているかわかりません。共感できないのです。そのわりに人の言うことを聞かずに、あちこち出かけてしまうのもどうかと……


また、折角登場したナネットも、早く消費しすぎた感じがします。「身分違いの恋」をしているエマに共感する立場を描くならば、もう少し、「士官との恋の破局」は先にしておき、エマとの対比を描いてよかったかもしれません。


自分の破滅に繋がるような窃盗を強いられても、好きを貫いたナネット。その責任を取って、命まで絶とうとしました。


相手が、ろくでなしだとわかっていても、好きになってしまう、そんな人間のどうしようもなさを、ナネットで描けたら良かったと思うのですが(エマとウィリアムが離れ離れになって、階級違いの恋の壁が第二期だけでは伝わりにくい)、折角無理をして出した新キャラクターも、華やかなシーンは入浴だけですか、と。メルダース家の使用人の光を消すだけかと。


ナネット、もったいないです。


監督の言葉どおり最後まで見ましたが

何をしたかったのでしょうか?


何を、伝えたかった、のでしょうか?


アニメの第一期も、久我は途中で感想を書くのを止めました。「イギリスを取材したことは全部出す」「ヴィクトリア朝の再現」ということへのこだわりが強すぎ、そこに登場する人物や原作の空気感は消えて、背景が一人歩きしていました。


だいたい、こだわりが強い作品は、失敗します。


久我がよく挙げる事例として、司馬遼太郎先生の『梟の城』の映画化があります。個人的にこの映画はあまり好きではありませんでした。監督に「忍者は超能力者ではなく、身体能力が非常に優れていた人たちだった」という仮説があり、それを描写することに主眼が置かれて、原作の魅力を伝えるのが「二義的」な作品だったからです。


観客にとって重要なのは、面白いか、どうかです。


リアリティは、面白さの前には一歩譲ります。


だから久我も、原作が描いていた「使用人のリアリティ」(それっぽい雰囲気)が損なわれたとしても、作品が面白ければいいとは思っていました。しかし、今回、「恋愛物語優先」したにもかかわらず、それが成功したようには思えません。


恋愛の当事者であるエマさんが、魅力的に描かれたとは言いがたく、余分なエピソードが多く、ウィリアムがどうして彼女をこんなに好きなのか(彼女のどこを好きなのか)、あまり伝わりませんでした。(ウィリアムとエレノアのエピソードが多すぎた、というのもあるかもしれません)


原作のすべてが完璧で素晴らしい、と言うつもりはありません。どんな作品にも長所や欠点があります。今回のアニメ化は、原作が持つストーリー上のご都合的な展開を変えて、恋愛を描こうとしましたが、原作からの脱却が中途半端となり、結果として、原作の大切にした雰囲気・キャラクターをおろそかにした展開になりました。


長所を伸ばすことなく、短所を長所にしようと描いた結果がこれです。


「使用人を描けていない」


「恋愛当事者のエマさんを描けていない」


原作を先に知っており、フラットな目で一度としてアニメを見たことが無いので、偏った評価になっているとは自覚しておりますが、ただ資料を描くだけでは血が通いません。『エマ』『ヴィクトリアン・サーヴァント』『MANOR HOUSE』などの作品に接しているはずで(『MANOR HOUSE』の誕生日のエピソードが第二幕では盛り込まれていましたので見ていないはずがありません)、それにイギリスの取材をして、このレベルだと言うのは残念です。


ヴィクトリア朝をそのままに再現して欲しいとは思いません。


見たければ、歴史を見ればいいのですから。


最終的には「物語」「フィクション」である以上、正しいことを伝えるのは副次的なものです。面白ければ、すべてが許されます。だから、明らかに短い時間で進まざるを得なかったアニメには、素直に、面白いと言わせて欲しかったです。それが難しいならば、「森薫先生の、『エマ』と言う作品で表現された、独自の魅力である視点や価値観を再現して欲しかった」です。



第一幕には、一話だけ、素晴らしい回がありました。『エマ ヴィクトリアンガイド』の短編を広げた、原作の魅力を最大限に照らし出したあの一話は、森薫先生が描きたかった世界に色と動きを与えた、アニメと原作の見事なコラボレーションでした。


あぁいうのを第二幕でも期待していましたが、ありませんでした。


原作者が作品中で大切にしたことへ敬意を払っている様子を感じるシーンがあまり思い浮かばないことが、残念です。見落としているかもしれないのですが……『エマ』と言う作品は、本人以外が描写しようとすると、どうも「義務的な」感じを受けます。


『エマ』は小説版においても、「あとがき」を見る限り、恵まれませんでした。作家の方は「ヴィクトリア朝の再現がとても大変だった」とばかり書いていて、『エマ』の作品としての魅力、森薫先生への言葉など、ほとんどありませんでした。


作品への愛、敬意が伝わりません。


同様に、『エマ』第一幕も「ヴィクトリア朝の再現」にこだわり過ぎました。第二幕は「恋愛物語」にこだわり過ぎました。ただ作品から、原作の魅力を伝えようとする気持ちが伝わってくれば、いいだけなのに。これならばまだ「同人作品」の方が、原作への愛を感じます。


小説版やアニメから伝わったのは、「愛」ではなく、「義務感」です。これは、森薫先生にとって当たり前になった「ヴィクトリア朝」と言う風景を、そういう土台の無い人たちが無理に構築しようとすると付け焼刃的になって、必死さが伝わるからでしょうか?


小説とアニメ第一幕はそうした「再現における義務感」、第二幕は「この第二幕で完結させなければならない義務感」と、作品とは関係ないところの義務感が伝わりすぎているようです。


最後に言いたいことは、アニメだけを見た方には、原作を読んで欲しい、ということです。原作で魅力的に描かれた使用人の世界が、アニメではあまり伝わっていません。アニメで描かれた世界は、「森薫先生の作品の表層」であって、真価ではありません。


ただ、それを言いたくて、長い文章を書きました。


[web拍手]ご指摘ありがとうございます。

>2007.7.8の日記の最後が切れているようです。続きを楽しみにしています!

携帯で修正したところ、文字数制限があったようで、ばっさり後半が切れていました。修正しましたので、ご指摘ありがとうございます。


関連するコラムなど

メルダース家の屋敷のモデルはshugborough(正解でした)

ウィリアムの屋敷のモデルのひとつ〜Kenwood Houseへの訪問記

リスト:-ヴィクトリア朝の生活関連本リスト

公式サイト:英國戀物語エマ


英國戀物語エマ』第二幕の感想

・第一回目の感想は『新しい家』

・第二回目の感想は『月光』

・第三回目の感想は『涼雨』

・第六回目の感想は『成功と喪失』


英國戀物語エマ』第一幕の感想

・第一回目の感想はこちら

・第二回目の感想はこちら

・第三回目の感想はこちら

・第四回目の感想はこちら

・第五回目の感想はこちら

・第六回目の感想はこちら

・第七回目の感想はこちら