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2010-08-28 日本におけるメイド表現を考える

[]メイドブームの終焉は「衰退」か、「定着」か

目次

・私が見てきた同人におけるメイド

・日本で「普遍化」する(ように見える)メイド表現

・屋敷を飛び出したメイド

・「日本に実在したメイド」と過去を見るまなざし

・まとめ:メイドは21世紀の「吸血鬼」たるか



私が見てきた同人におけるメイド

きっしーさんのつぶやきで、今年のメイドオンリー同人イベントの『帝國メイド倶楽部十一』の参加サークル数が18に激減したのを知りました。私は2004年、2005年、2008年と参加しましたが、最盛期は150以上あったと思える規模が、2008年参加時点では50程度に減少し、そのことに驚いて、同人イベントとメイドジャンルについての雑談(2008/04/29)を過去に書きました。


今回に関しては通常5月に開催のイベントが9月に開催、それも夏の大イベントの後なのでこの規模になってしまったように思えますが、個人的には「メイドブーム」が落ち着き、メイドの存在が「当たり前」になりすぎてしまったために(商業における表現や存在として)、全体のトレンドとしてあえて同人で表現される部分、同人に求める部分が減ったように感じられます。


『帝國メイド倶楽部十一』公式


とはいえ、ブームが落ち着いていることをマイナスに思いません。ブームは過ぎ去ったかもしれませんが、衰退というより、定着しているように思えるからです。


以下、こうした考察を専門にしていないので、「思う」「考える」との表記が多くなりますが、自分の考えをまとめる意味と、どなたか詳しい方の叩き台になればと思い、日本のメイド表現についての考察を書きます。


前提として、私はメイドブームの最中、英国のメイドと屋敷ばかりを探求しており、「日本のメイドブームの代表的・主流的な消費者」ではありません。英国メイドの研究者であっても、日本のメイド作品の研究者ではない点を考慮した上で、お読み下さい。


日本で「普遍化」する(ように見える)メイド表現

秋葉原のメイド喫茶の文脈で語られることがあるとはいえ、昨年はTBSで『小公女セイラ』や、テレビ朝日で『メイド刑事』(小説からのドラマ化)、今年はアニメで『会長はメイド様!』が放送されるなど、「メイド」の言葉自体は既に一定の認知を得ているのではないでしょうか。少なくとも、過去、メディアでは「メード」と表記されていた文言も、「メイド」へと転換が見られます。


創作表現においてメイドが特別ではなくなったと感じる機会もあります。たとえば、『機動警察パトレイバー』がきっかけで、中学生の頃から私は『週刊少年サンデー』を読んでいますが、伝統的な意味での「屋敷に勤めるメイド像」は、『ハヤテのごとく!』のマリアさんが目立っています。今でも、多くの創作で「お金持ち」を表現する手段として、メイド(あるいは執事)は登場しています。


同じサンデーの作品で、個人的に『はじめてのあく』が日本の「今のメイド表現」を表象するものに見えます。この作品では「悪の組織の科学者(主人公)が作った、ヒロインそっくりのメイドロボ」「お金持ちの友人の屋敷にいるメイドさん」、さらには何かのイベントの際に「メイド服を着よう!」との表現も出ていたと記憶しています。


最後の、学生生活の創作表現においてナチュラルにメイド服が出てくる起源がどの作品かはわかりませんが、「文化祭でメイド服」というのも定番化しています。これは「家事を仕事とするメイド」に加えて、「喫茶店で働く店員としてのメイド(メイド喫茶)」という要素を取り込んだものですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』では文化祭でメイド服を着る話がありつつ、朝比奈みくるが部室でメイド服を着せられるように「メイド服」が「メイド服がかわいいから」と、「仕事」と切り離されて登場しています。


メイド服がかわいい、だから職業としてのメイドを離れて、メイド服を着るような表現がいつ日本で成立したのか分かりませんが、こうした傾向はいくつも指摘できるでしょう。(直近では『けいおん!!』でメイド回がありましたが、あれは喫茶でバイトという文脈。この「メイド回」という表現は、知人の方の受け売りですが)


屋敷を飛び出したメイド

話が錯綜したついでに広げますが、「屋敷に仕えるお金持ちの象徴の表現」だったメイドが、たとえばいつ「屋敷ではない普通の家庭」に所属するようになったのかは気になります。


私が初めて「屋敷のメイド」に遭遇したのは『はいからさんが通る』(女装メイドの蘭丸がいましたが)でしたし、以前、読者の方からは「少女マンガで見た屋敷で、どうしてそんなにメイドが雇われているのかわからなかった」とおっしゃっていましたが、過去の創作表現においてはこうした文脈が強かったように思えます。


また、その時代を生きていないので分かりませんが、たとえば海外ミステリがブームを起こしていたとすれば、「屋敷・探偵モノ」というテキストにおいて、屋敷とセットで海外のメイドが日本に「輸入」されていたのかもしれませんし、日本で「お手伝いさん」(女中、メイド)が雇用されていた時期の名残りとして、「お金持ちの象徴」として、表現に登場したのではないかと考えています。


こうした「屋敷」(屋敷自体が豊かさの象徴ですが)と「メイド」が切り離されて、『まほろまてぃっく』(1998年-)のように、メイド雇用が中流階級含めて社会に広く普及したヴィクトリア朝的な意味ではない形で個人の家庭に住み込む表現、いつ起こったのか、興味があります。


家電的な意味合いを持つメイドロボという表現も「屋敷とメイド」を切り離した要素だと思いますが(ロボ→住み込み→ドラえもん?)、ここは根拠がなく、答えを知りたい疑問のひとつです。


(補足:文中で個人の家庭例として『これが私のご主人様』(2002年-)を挙げましたが、屋敷でした。訂正します)


「日本に実在したメイド」と過去を見るまなざし

もうひとつ、最近の動向として気になっているのが、今年の直木賞受賞作『小さいおうち』と、その作者中島京子さんによる『女中譚』です。両作品は、かつて日本でメイドが雇われていた時代を扱い、前者はやや明るい雰囲気(献身・奉公)、後者はリアルな「家事使用人」に近い作品となっています。


小さいおうち

小さいおうち


女中譚

女中譚



中島京子さんが日本のメイドブームに多少自覚的だと思うのは、『女中譚』の冒頭において、「秋葉原のメイド喫茶」と、「かつて実際に女中として働いた老婆」を邂逅させている点です。その製作意図は私には分かりませんが、今の日本が行き詰ったように感じられるからこそ、何かしら「日本にかつてあったかもしれない、豊かだった在りし日の暮らし」を描く作品が受け入れられているようにも思えます。


少し話が飛びますが、英国では長い間、ヴィクトリア朝への評価は否定的だったといわれています。道徳的で同調圧力が強かった時代であり、同時代にもそうした気風への反発があり、1870年代以降に、これらヴィクトリア朝の「重たい空気」への反動から批判や揶揄や解放の動きが進み、表現の幅がより多様に広がっていきました。


続くエドワード朝は解放的な雰囲気を生みましたが、ヴィクトリア朝に決断された多くの帝国主義政策や第一次世界大戦の惨禍などを受けて、若い世代がヴィクトリア朝そのものを辛辣にこき下ろす態度をも招き、それは長く続きました。(『ヴィクトリア朝の人と思想』P.343-345)




こうしたヴィクトリア朝への再評価は第二次世界大戦後に行われたといわれていますが、大戦後には覇権を失っていた英国で「かつて存在した、時代への懐旧の情」が存在したとしても、不思議ではありません。この辺りは専門ではないので言及を避けますが、もし仮に何かしら現代的なニーズを満たす意味で「過去が取り上げられる」部分があるとすれば、「日本に実在したメイド」は、その時代を映すひとつの役目として、今後も取り上げられるかもしれません。


まとめ:メイドは21世紀の「吸血鬼」たるか

私は、メイドと吸血鬼の「表現」に類似を感じています。吸血鬼は様々な作家が表現を重ねる中でイメージが形成され、時代背景も反映し、やがてはドラキュラが生まれ、さらには映画化することでイメージが膨らみました。


作家の表現によって設定が使いまわされたり、あるいは設定が新規に追加されたり、表現様式として広がりました。今時点で吸血鬼のブームは起こっていませんが、時々強力な作品が生まれたり、今でも題材にしたドラマが定期的に作られていたりと、創作の世界においては定着しています。私の世代では『吸血鬼ハンターD』『怪物くん』『インタビューウィズヴァンパイア』などでしょうか。『Wizardry』や『悪魔城ドラキュラ』など、ゲームのモンスターとしての登場も欠かせません。


メイドは「家事使用人としてのメイド」「英国のメイド」「日本の女中」「メイド喫茶の店員としてのメイド」「メイド服」「創作表現のメイド」のように多くの異なる存在が並存して、様々に表現が行われる中、「メイド服」を軸に相互にイメージを共有し、多面的に広がっていると考えられ、そこに吸血鬼表現との類似を見出します。


吸血鬼成立の社会背景的要素については、『ドラキュラの世紀末―ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』が詳しく、社会背景のテキストで同様にメイドを読むこともできるでしょうし、ブームとなったきっかけにはそうした要素もあると考えられますが、私はそのレベルにないので、ここでは言及できません。(こうした観点を私に教えてくださった墨東公安委員会様に期待しています。参考例:『わたしのリコネクションズ〜メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など』


神話や英雄、歴史上の登場人物のイメージ形成でも同様のことが言えるかもしれませんし、坂本竜馬や沖田総司の強力なイメージを確立した司馬遼太郎さんの作品群の例が分かりやすいですが、多面性、そして使われた表現の共有こそがブームを引き起こし、その中核としてイメージを束ねたのは「わかりやすい記号としてのメイド服」ではないでしょうか。


以上、論として足りない部分も多々ありますが、上記のような認識から、私は「メイドブームが終焉している」としても、「表現として定着している」との仮説を持っています。本来的には「メイドブームって何か」という定義が必要かもしれませんが、論文ではないのでご容赦を。


なお、「職業としてのメイド」は多くの場合、経済格差を前提に成立しており、現代の世界でもメイド雇用は広がっています。職業として高額の報酬を得る人々がいつつ、過去と同じように低報酬・低待遇の人々の方が多いのが実情でもあります。私は長く、英国に実在した使用人の「仕事」を軸に見ていたので、現代との接点は大きな課題です。


日本で行われている上述のような錯綜する「メイド表現」が成立するのは、少なくとも日本で経済格差の縮小、家電の利便性、家事負担の軽減がある段階まで到達しており、メイドの雇用が過去のものとなったことと無縁ではないと思いますが、上海やシンガポールなど今もメイドの雇用が行われる国で輸出された日本のメイド喫茶が消費されていることは、とても興味深い事象です。


関連リンク

続きの考察:補足・メイドブームの断続性と連続性を考える

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