原稿が書けないっ


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2013/02/24 (日)

[]博士論文、終わりました

FBで身内には好評だった改作。若干修正して書き留めておく。


くぅ〜疲れましたw これにて論文完結です!

実は、就職したらすぐ、「俺くんも取らなきゃ」と持ちかけられたのが始まりでした

本当はまとめるネタ能力もなかったのですが←

文理大卒大先輩のご助言*1無駄にするわけには行かないので誰もやらない北海道教育史で挑んでみた所存ですw

以下、論文パートからのみんなへのメッセジをどぞ


結論「みんな、読んでくれてありがとう

ずいぶん飛躍したところもあったけど・・・気にしないでね!」


タイトル「いやーありがと!

私のマニアックさは二十分に伝わったかな?」


先行研究「言及してくれたのは嬉しいけどちょっとまとめがアレだったわね・・・


誤字脱字「スルーしてくれてありがとな!

正直、雑な筆者には私もあきれ果ててたよ!」


史料「(集めてくれて)・・・ありがと」バァサァッ


では、


序章、本章、結章、俺、嫁、長子、二子、末子「皆さんありがとうございました!」



俺「って、なんでおまえら!?

改めまして、ありがとうございました!」


本当の本当に次の研究のはじまり

*1心理学のM先生、結局お見せできなかった

2012/04/06 (金)

[]なぜ高等学校には設置義務がないのか

久しぶりだなあーー

さて、周知のように小学校と中学校については市町村に設置義務が課されている。まあ、そうですよね。義務教育だと言ってる以上、それを果たすための義務教育学校は必要なわけで。

から義務教育ではない高等学校についてはどこにも設置義務が課されてないわけです、をわり。

とはならない。なぜなら戦前義務教育ではない中等教育機関である中学校や高等女学校の設置を府県に課していたからである

というわけで、仕方がないのでとりあえず教育刷新委員会議事録を斜め読みすることにしてみた。全部で十数巻。よくもまあ短期間でこんなに論議を積み重ねたものだ、といつもながら議事録図書館で見ると当時の教刷委メンバーに敬服してしまう。岩波出版したときは衝撃だったなあ。借金してでも買えばよかった。

で、不勉強を恥じながらわかったことを。

刷新委員会の議論では、中学校(下級中等学校)の後続く高校(上級中等学校)については希望者全入とか、最初の1,2年は必ず通うことと、といった部分的な義務制を考えていたみたいだ。中等教育を長期にわたり義務化するという発想はそれほど驚くものではない。戦前すでに、中等学校に進学しない子供定時制青年学校へ入ることが義務づけられていたからだ。

教刷委はその戦前を念頭に置いて、全日制の高校と定時制の高校を考えていた。そして中等学校を全日制高校、青年学校を定時制高校に転換させようとしていたことがわかる。どうりでY先生が、定時制高校ルーツ青年学校に求めていたわけだ。

さて戦前青年学校の多くは市町村によって設置(というかほとんど市町村立の小学校国民学校)に併設)されていた。そのため、新制高等学校は中等学校と青年学校という異なる二つの前身校の系譜をひくことになる。これは別な見方をすると、府県立学校と市町村立学校が混在することを意味していた。

なので、教刷委でも設置者については、地方公共団体が主な設置主体となるということでいいよね、という雰囲気が濃厚で、そのまま建議に進めていったような感じです。

穿ち読みだが、設置義務でも小学校についてはもともと国民学校があるので学校教育法で規定せずともなんとかなるが、直接の母体を保たない新制中学校については課しておかないとまずいと思ったのではないだろうか。そうだとすると、比較的中等学校や青年学校といった引き継ぐべき資源のあった高校は、あえてどこかに設置義務を課すこともしなったのではないか、というのが当座の結論である


あと、もし青年学校が中等学校より格下、ということになると、県立移管を昇格と捉える心性はかなり明瞭にすくい取ることができる。設置主体を考えると戦前は、青年学校=市町村、中等学校=府県、というのが常態だったのだから、学校の格の違いは設置者の違いとして捉えやすいからである

たとえ県立が主体となるとしても、設置義務を学校教育法レベルでは曖昧にしておく方が、設置費用をいろんなセクターから調達できるのでよかったのかもしれないしね。

2011/08/26 (金)

[]いまふたたびの釧路医科大

今朝、釧路プリンスで朝食を食べながら釧路新聞をみて、かなりびっくりした。

明日釧路市内のホテルで、「くしろに医大・医学部を!」というフォーラムが開催されるという。

釧路の医大誘致が復活している(調べたら平成19年くらいからみたいだ)。

道東医療事情が一向に改善しない状況ではその考え自体は大事なことであろう。ただ、この釧路の医大誘致の問題はすでにいったん潰えているはずであり、今回の動きは焼けぼっくいに、という感じが強い。

昭和40年代半ば、全国的に医師不足が叫ばれる中で新設医大が設けられていった。北海道では、旭川釧路(それと深川)が名乗りを上げ、最終的には北海道が二つの国立医大の設置に努力することを約束して、まずは旭川に設置を、となったのであった。

その後、釧路は二つ目の医大開設を働きかけるが、国立大学を増設しないという高等教育政策の転換に直面し、釧路市長は誘致運動の断念を市議会で語ったのが昭和50年代のはずである

(その代わりだったのか)釧路公立大学が開設されるのが昭和末期である

こう言った経緯を知っていたので、医大誘致は公立大開設という形に昇華されていたとてっきり思っていたが、どうやら平成20年代になって復活したようだ。依然として解決されない医師不足が背景にあることは十分に理解できる。問題は、すでに国立大学の望みもなく、公立医科大も難しい状況をどうするか、である

釧路新聞によると、北海道医療大学医学部の誘致を考えているようである。正確に言えば、医療大が医学部新設を考えており、その際の設立地として名乗りを上げていると言うことらしい。

医療大が医学部設置に意欲を見せているのは知っていた。

日医白クマ通信(No.1334)定例記者会見「医師不足および偏在解消に向けての日医の見解示す」

の参考資料によると、釧路市内の病院を実習先として大学病院的に用いる、道東歯科医師薬剤師看護師のために編入制度を設ける、といった構想を医療大はもっているようである医療大の方でも道東課題の解決や釧路の施設の活用を考えていることが伺える。

なるほど、道東ニーズにも合致していることを強調すれば、新設が認められることにもつながるかも知れない。


ただ、医療大の前身、東日本学園大学はかつて音別町に教養部を置いており、それは昭和60年前後に閉鎖されている。

その音別町は、平成の大合併によって現在釧路市

という経緯を知るものにとっては、因果だなあ、と感じる次第。

もっとも、なぜそもそも音別教養部を置いたのか、その背景は知らないが。


国立大学を増設しなくなったというのはもちろん財政的な問題がある。それは建てるお金がない、と同時に維持するお金がないという二重の問題であるぶっちゃけ国立学校がほぼ例外なく地元負担によって建てられていることを考えると、むしろ財政的な問題というのは後者の方である。言い方を変えると、学校はいったん作ってしまうと簡単にはつぶせないので、金がなければ作れないし、作らないのである国立大学はそうだし(合併という変則技で数を減らすことはできるが)、公立大学ならなおさらであろう。

しかし私立は経営上必要であれば撤退に躊躇しない。平成10年代に入ってから道都大学紋別市から北海学園大学北見から退いていった。

私学の誘致はその点で、国立学校の誘致や公立学校の設置とは話が異なる。

医学部であれば、そう簡単には…、という見方もできるかもしれないが、この医学部誘致の話はどのように展開してゆくのだろうか。


個人的には、結果として医大誘致の運動がもう40年以上続いていることになる、という点が気になる。

今回の誘致運動の中心になっているのは釧路市の商工会議所であるが、釧路新聞検索すると、2008年東北海道商工会議所連絡協議会の席上で釧路への医大誘致について言及することを見送った、という記事がでてくる。

no title

その理由を、1967年道東地域で「国立釧路医科大学誘致期成会」を組織したことがあるが、今回の誘致運動の復活に際しては、慎重な調整と協議が必要と判断したから、と伝えている。

運動が長くなればそれだけしがらみも増えるということなのだろう。

ただ、長い分だけ先例を検討する部分があるとも言える。旭川に医大ができて道北医療問題が解決されたか、さらにさかのぼって終戦前後に札医を設置する際、道議会議員が「吹雪の中往診してくれるのは、内地で育った医者ではなく、北海道で育った医者なのだ」とその必要性を強調したが、実際どのような医者が輩出されたのか、とか。

2011/08/12 (金)

[]タモリ倶楽部

これ長いですよね。

大学生の時、普通に見ていましたが、年をとるとなかなか見れない時間帯。

「流浪の番組」という出だしの台詞は変わらない。30年前近くから、ずーっと流浪を続けるのはたいしたもんです。

よく覚えているのは、東京デズができたとき、取材させてくれなかったので、花屋敷で「デズ」ですといって制作を強行したという下り。お化け屋敷の油すましが細野晴臣さんだったぞ。

結局、誤解されてはたまらん、とデズが取材に応じたという落ちがついたはず。

これは記憶違いかも知れない。しかしあまりにできすぎて、胸がすく話だったと記憶している。

2011/07/31 (日)

[]高等学校高等教育機関か否か

ワシの後輩にあたる人が、

「高等」と冠されているからか、高等学校高等教育の場として間違える人が結構いる

という趣旨の発言をしたので、すかさず、

旧学校教育法では「高等学校は」「高等普通教育及び専門教育を施す」と規定されていましたが何か?

と突っ込んでおいた。

まあ意地悪い先輩だ。

なお、現在では「高度な普通教育及び専門教育」となっているので、今現在認識としては彼の発言は誤りではない。

むしろ、中等教育機関であるにもかかわらす、法令上つい最近まで「高等普通教育」を施す機関として高校を規定していた方がおかしいわけであり、なぜそのような状態が1947年から60年間も続いていたのかの方が問題かも知れない。


戦前の学校制度と現在の学校制度を比較すると、同じ名称なのに戦後になると一段段階が下がる学校というのが散見される。

例えば、中学校という学校は戦前にもあったが、昔の中学校は小学校(6年間)を終えた生徒が5年間かけて勉強する場所で、卒業時の年齢を考えると、むしろ今の高等学校に近い。

それから戦前高等学校は、現在大学最初の2年間(20年前だったら教養課程と言えたのだが、今はもうない)に相当する学校であった。すなわち戦前高等学校はまごうことなき高等教育機関

なので、戦後教育改革期、小学校接続する3年制の学校を「中学校」と呼ぼうと決めた際、そこに高等教育機関である旧制の高等学校接続する旧制の中学校を見いだそうとした人と、小学校に引き続きさらに3年間義務教育を施す国民教育機関を設置するのだと考える人が混在していた可能性は大いにあり得る。

同様に、その新しい中学校に続く3年制の学校を「高等学校」と呼ぼうと決めたとき、その学校は義務教育である前期中等教育に続く任意の後期中等教育機関であると考えた人と、戦前中等教育大学での専門教育を取り結んでいた高等教育機関である旧制の高等学校イメージした人が同床異夢だった可能性も高い。教育刷新委員会議事録なんかを読むと、そういう食い違いが発言のそこかしこに認めることができる。

「高等普通教育及び専門教育」というフレーズの「専門教育」という語もまた誤解を生んだと思われる。戦前専門教育を行っていたのは、専門学校。これも旧制中学校を卒業すると入学できる高等教育機関であることは、当時の英訳collegeとなっていたことからも理解できる。

結局、3年制の中学校に接続する3年制の学校を「高等学校」と呼ぶことにしたのであるが、戦前の学制に馴染んだ人の一部には、この学校は戦前高等学校専門学校と同様、従来の高等教育レベルの学校である、と認識されることになったのではないか

しかしこの新しい高校は、米国教育使節団のレポートを受けて成立したものであり、その際レポートは、はっきりと「upper secondary schoolの設立お勧めします」と言っていた。これによるならば、新制の高等学校は間違いなく中等教育機関である


以下は推測。

戦後教育改革期においても旧学制に憧憬をもつ一派は決して小さくなかったであろう。しかアメリカの意向は、前期3年、後期3年の中等学校を設け、少なくとも前期は義務教育、後期も希望者全入でいきなさい、というものであった。この両者の溝は、義務教育以後の教育エリート教育として温存するか、それとも誰でもアクセス可能なように大衆化するか、という義務教育教育制度観の対立であるが、それについての論議が本格化することなく、学校教育法が成立してしまったのではないか時間もなかったしね)。もっと言えば、本当は、後期中等教育機関なんだけど、高等学校と命名しますよ、そしてそこでは「高等普通教育専門教育」をしますよ、と規定しておくことで、守旧派の反発を避けようとしていたのではないかとかなんとか。

これについては、刷新委員会議事録を精読するなどで調べようがあるんだろうが、時間がない。

ただ、大まかな見立ては間違っていないと思う。


そう考えると、数年前、高校の教育目的が「高等普通教育及び専門教育から「高度な普通教育及び専門教育」に改められたことは、数十年来の齟齬を解消する画期的な改正だったのかも知れない。その際この件について関心を寄せ忘れたことをちょっとだけ残念に思う。

2011/01/28 (金)

[]スキー大学

そんなわけで帰り道にある公園スキー大学にやってきたのだ。

ウソです。

上越国際スキー場スキー大学第2会場に参加したのだ。

講師に対しては文句がなにひとつないのだが、会場にあるホテルに宿泊していることを前提とした進行設計になっているのがやや気になった。

今夜は多分ホテルで懇親会を開いているはず。ホテル宿泊者以外でも参加可能なのだが、あのホテルのロケーションを考えると実質非常に困難。

他にも、

  • 宿泊者は費用全日程のリフト券が含まれているが、日帰り参加者には割引とかそういうのは一切無し
  • ホテル内で行われる2日目の理論、宿泊者は部屋からスリッパで参加。ワシ等はヘタするとスキー靴のまま受けなきゃならんとこだった(ホテルの係員さんにお願いして出してもらいましたが)

などなど。

なんでホテルに泊まらなかったかというと、近くにもっとやすい宿泊施設を確保していたから。

SAJもスキー人口の拡大云々を本気で言うのだったら、

金のかからん

スキーのあり方を真剣模索すべき。

2011/01/17 (月)

[]いろはにほへど

故あって、嘉納治五郎の文部省在職時の行動を観測しいるのですが、彼は結構攻撃的な性格だったようで、気にくわない人物が上司になりかけると、同志と一緒に大臣に直談判しに行ったりしている。

柏田盛文という男が文部次官に就きそうになった時も、考え直すよう大臣室に乗り込んでいるようなのですが。

で、問題はその柏田盛文なる人物をもう少し調べる必要がでてきた。Wikipeは『慶應義塾出身名流列伝』を見よという。しかもこれ、国会図書館近代デジタルライブラリーに収められているというし。

さっそくアクセスしてみると、やはり書籍からわかるように人物事典。コマ数500枚ということは、800頁ぐらいか? これで「柏田」を探せばよいのだが、しかし目次なし…

でもまあ事典なので順に見ていけばいいんだよね、とクリックし始めてみたが、昔の事典ってイロハ順なんだよねえ。

頭の中でいちいち「いろはにほへと」をやらねばいかん。

アイウエオ順であれば、「かしわだ」が結構早めに出てくるだろうと予測できるのだが、イロハ順だと「か」はいつ出るんだ?

いろはにほへとちりぬるをわか」、おおここだ。

しかし、アイウエオ順だろうとイロハ順だろうと、「か」からはじまる姓は多い。なので次は「し」だ。「し」ってイロハ順ではいつ出てくるんだ?

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむういのおくやまけふこへてあさきゆめみし

でたっ、やっとでたっ

とやってるだけで、柏田さん(いつのまにか親近感が…)のところにたどり着くまでに結構なエネルギーを消費してしまった。

アイウエオの五十音表というのは一種の行列なので、例えば「チ」の音を探そうとすると、「タ行イ段の」という具合に検索が早いのだが、イロハはどうしても最初から唱えないとそこにたどり着けない。

あるいは昔の人は、イロハ順でワシ等並みにスムーズ検索できたのかもしれない。

それはそれでどういう頭の使い方をしていたのかが非常に気になる所ではある。