美空ひばり


下の世代が、上の世代の人物のことを正確に語るのは難しい。語る対象が故人ともなれば、なおさらである。ここで言う「人物」とは、有名人のことである。下の世代にとっては、上の世代をリアルタイムで知らないので、自分たちで好きなように解釈して満足してしまうのであろう。
美空ひばりという人は、実は正確に語られていない代表のようなものであると、私は思っている。
今年は、ひばり逝去からちょうど20年だが、いまの時代に語られるひばり像は、「歌謡界の女王」であり、曲で言えば、もっとも脂が乗り切ったのが「悲しい酒」、そして、ひばりと言えばなんといっても、晩年の「川の流れのように」ということになっているようである。
私の母は、ひばりと同世代である。その母から聞いた話と、本田靖春氏らが書いた著書から総合して判断すると、ひばりをひばりたらしめているのは、戦後の焼け跡に登場して人々に希望を与えたということと、昭和20年代から30年代前半にかけて、数え切れないほどの大衆映画に出演したという事実である。
私の母は、「悲しい酒」や「柔」などは、「ひばりではない」と断言する。母にとってのひばりは、「悲しき口笛」であり、「東京キッド」であり、「私は街の子」であり、「越後獅子の唄」であり、「あの丘越えて」であり、「リンゴ追分」である。また、それらが主題歌となった、数多くのひばり主演の映画である。
本田靖春氏も、同じようなことを著書で述べておられ、時代的に線を引くなら、自分のなかのひばりは、昭和32年の「港町十三番地」あたりまでだと記されている。
私は、もちろん映像でしか見たことはないが、燕尾服にシルクハット姿のひばり(悲しき口笛)や戦争孤児のひばり(東京キッド)は、たしかに「柔」や「悲しい酒」よりもずっと見る者、聴く者の胸を打つ。
戦後、廃墟のなかから立ち上がり始めたばかりの人々にとって、ひばりの出現は、我々が想像する以上にはるかに衝撃的であったと思われる。ひばりが亡くなった20年前、多くの特番が組まれたが、そこで証言する人々から漂ってくるのは、敗戦という大きな痛手にも関わらず、スクリーンのなかで歌い演じるひばりに未来への希望を託した、という心情であった。一見暗いと思われる世相であったが、戦争は終わり、人々はなんとなく苦しいなかにも未来への希望を持ち始めていたのである。その象徴がひばりであった。
敗戦からの復興という「極限」と結びついてしまえば、後の「女王」の称号も色褪せると、私は断言できる。
しかし、平成も20年を過ぎたいまの世にあって、みんながみんな、ひばりの本質を追求し、想像力を働かせてひばりに想いを馳せる訳ではない。
マスメディアが作り上げたひばり像だけが残っていくのだろう。
その意味では、時の流れというのは残酷である。
結局、音楽とか芸能人を語るなんていうことに普遍性を持たせることは不可能で、一人ひとりが個人的にすることなのかもしれない。