事後解釈の集積体を物語と呼ぶことにする

せっかくリンクいただいたので、コメントでも。

[TRPG] TRPGにおける”物語”とは「ルール説明」と「事後解釈」である
http://dragonoid.txt-nifty.com/df/2009/09/trpgtrpg-fcf3.html

私は、”TRPGにおける物語”というのは「PL/PCの二重構造を利用したルール説明」と「プレイ結果を解釈したもの」の2つであると思います。

個人的には、前者についてはあまり意識していません。意識できないというか、意識しないようにしているというか、PCはPLに対しての従属変数、程度の認識なので。
ルールを解釈し、理解し、判定を行うのは、PCではなくPLであり、PCは判定のための変数の塊に過ぎない、という理解がわりと大きな割合を占めていて、ロールプレイそれ自体も、PLがやりたいことをやるという前提から、PCはPLのペルソナに過ぎず、よってPCというのは架空の存在である、という、フィクションである以上当たり前の部分については、あまり意識していません。
というのは、屈折してるとは思ってますが、PC(あるいはNPC)に対する「思い入れ」のようなものが度を越えるとろくなことがなかったので、PCを主眼としてどうこうという視座そのものを放棄しているから、です。
なので、私の中には、二重構造それ自体が存在しない、してても意識できないし、PL側に依存しすぎている、ということになります。


ですので

これは「各シナリオにおけるPLの勝利条件、制限、初期条件はそのシナリオごとに設定される」、「そしてそれらの条件はGM⇒PLというように直接伝えられるのではなく、GMNPC(あるいはその他の描写など)⇒PC=PLという回りくどい方法によって伝えられる」というTRPGの特徴から必要となるものだと思います。

という迂回経路の話も、GM⇒PL=PCというのが私の中での経路であり、そのために私はぶっちゃけを推奨している、あるいはするようにしている、ということになります。
まあ、あくまでも私がGMする時は、であり、他の人がGMするときには、GMのやり方に一定の敬意を払いますけども。
究極的には好みの問題になるので、深追いはしません。


後者については、「プレイ結果」をどこにおくのか、が関わってくるため、若干説明をはさみます。
まず、ここで使われる「プレイ結果」の定義は、私は「判定の後」あるいは「行動の後」として解釈します。セッション中も断続的に発生し、瞬間瞬間の「プレイ結果」が積み重なる、という意味です。
そして、整合性については、私は「判定の後」においてのみ取れていれば、そのあとで矛盾してもかまわない、というスタンスです。私は自分自身の短期記憶に真を置いていないので、「セッション中の物語」としての整合性には、あまり注意を払いません。
なぜなら、「人の意見」なんてものは状況に応じてすぐ変わるし、変わることに明確な理由がある、なんてのは幻想だと思ってるからです。わりとその場の気分とか、なんとなくとか、その程度で変わるんじゃないだろうか、という意味で。


これは、「セッション中の物語」が、PL(PC)にとってどう位置づけられてくるか、という話になります。例えばの話ですが「PC2はPC1の親友で、PC1に協力することを目的としている」場合、「PCに協力する」が一環していれば整合性は取れていると判断して、セッション中の状況に応じた行動については、細かいことは斟酌しない、ということになります。
そして、「PC1に協力する」というのも、結局は恣意性に大きく左右されてしまうものです。「他人」というのは大概、「そんなことするはずがない」と思ったことでもやらかしてくれる存在であり、ということはつまり、他PLにとっての自分もそんなもんだからだ、ってのがあるからです。
それに、またたとえ話になりますが、「誰かを驚かそう」と思った場合、「そんなことするはずがない」ことをしなきゃ話にならないし、それは(局所的には)整合性が取れてない行動である、ということになっちゃうので、あんまり意識しすぎてもなー、と思ってます。
他の参加者にとっては大変かもしれませんが。それはお互い様だろう、って認識です。


なので

「PCたちが取った行動と結果の積み重ねが”それなりの整合性を持っている”と解釈するのに都合がよくなるように間を埋めたもの」

という一文は、「PLとPCの二重構造」が前提にあると思うので、「PLの目的」と「PCの目的」は必ずしも一致しておらず、そのギャップを埋める必要があり、そこで「PCの行動についての整合性」が必要とされる、という文脈だと思うので(違うかもしれないけど)、流儀が違えばこんなに感じ方も違うんだなあ、という話になるんだと思います。
私の感じ方だと、「PL(PC)には目的があり、目的に沿って行動しているが、状況に翻弄されて場当たり的な行動を取ったとしても、その行動が説明可能であること」をして整合性、とすることになります。
そして、そうであるなら、「よかれと思ってやった」以上の説明は不要であり、あらゆる行動はそれで片がついてしまうんじゃないか、とすら思えます。


要約すると、物語は結果の積み重ねそのもののことであって、シナリオはその補助であり、PLは必ずしもシナリオの目的を把握する必要はなく、ただ無視しないようにすればいい、ってことになるのかなあ、なんて感じの結論が漠然と出ました。
シナリオとPL(PC)の組み合わせでどうにも予想通りに展開しないことはあるよね、ってのは、どうしようもないだろうなあ、って観察の元に。