TRPGにおける創作というスタンス

物語を作る遊び方に関する問題意識 - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20090927/p1

まず私のまとめとして、「TRPGはやっているうちに勝手に物語ができる遊び(ただし事後において)」というスタンスであることは、ここのところの応答で表明してきた通りです。もっとも、以前はわりと「TRPGは物語を作る遊び」としてプレイしていた、というのはありますが。
まあ人間、変わるもんです。

よい物語ができるのを待つんじゃなくて、自分から積極的に作りにいく楽しみというのもあるのではないかということです。
そういうのはTRPGじゃなくて小説でやってくださいよって意見もあるかもしれません。

「物語を作る」と表現した時に、どうしても商業展開されている(市販されている)小説とか漫画を想定してしまうというのは悪癖だと思っていますが、このいっそ呪縛とも呼びたくなる悪癖によって、「物語を作る」行為のハードルが上がってしまう(勝手に上げてしまう)ということが意識の問題としてあるのではないか、という疑問がまずあります。
しかし、作家個人で完結する小説や漫画(原作付だと違うのかもしれませんがそんな裏事情は知らないので省略)と、複数人で"遊ぶ"TRPGでは、「物語を作る」ということ自体がまったく別の文脈で語られるものになるはずです。そしてこの文脈というのは、あまり語られてきてはいないのではないか、と考えています。
もちろん、作成するシナリオの傾向によって、シナリオに必要とされる要素は異なります。ミステリシナリオであんまり矛盾があっても困るし、ダンジョンハックに物語的な修飾が過剰になっても冗長なだけでしょう。これは取捨選択でしかありませんが、「物語を作る」とした時にも、同様の取捨選択が必要になってくるんじゃないでしょうか。
そして、「物語を作る」時の取捨選択とはなにか、というのは……まだ考え中です。いろいろな要素のバランスをとること、だとは思うんですが、これは遊ぶ側としては一番難しいことなんじゃないか、とも思っています。なんらかの要素に特化したほうが、目標が明確になって意志統一も相互調整もしやすくなりますが、全部の要素をまんべんなくとなると、調整項目が増えすぎて負担が一気に増大することが想定できますので。
「物語を作る」ことに特化した時にどうなるか、というのは研究課題です。

メタ視点を重視した遊び方においては、PLも作り手としての意識を持たざるを得ないと思うのですよ。

私がその昔驚いたのは、PLというのは、そうした意識を持たないものなんだ、ということです。
TRPGを初めてすぐGM数のほうが多い環境だったもので、PLやってても必然的にそういう意識があったんですが、どうも違うということが、状況としては理解できるんですが実感として理解することができないのが私の立場です。
そして、作り手としての意識を持たないPLというのがなんなのか、なにが楽しいのか、私にはよくわからないのです。この辺、誰か詳述してくれないかなと思うところで。
GMとPLが対等であるためには、PLにもGMと同じぐらいの気構えが必要なんじゃないか(それは実際には大したもんではないんですが)、と思ってるんですが、そうしたものが嫌いか苦手かできない人ってのはいるよなあ、というのはわかってたので、そういう人は私と遊ぶのは大変よー、と公知もして、サークルでは新人さんの相手はしないとかいうルールが出来てたりもしたんですけども。
私がGMする時の意識というのは、「GMは場を設定する」ものであって、「PLも場を設定する」ことができる、というものです。ただし、GMとPLには情報格差があるので、PLが設定したい場があった場合、関連する情報をGMから引き出すか、GMが決めていない場合はPLが設定する必要がある、とも考えています。情報格差はあるのが必然なので、PL側からそれを埋めようとしなければ場の設定はできないし、GMはそれに積極的に協力するべきだ、という考えです。
だからこそ、PLからの提案がないと、なんだか虚しくなる、という性癖になると自覚はしているつもりですが、それもあって、PLをやる時はがんがんシナリオに絡んでいくんですが、どうにもこの辺、相手を選ぶよなあという当たり前の部分が、けっこう長く遊んでないと伝わらないというか、理解されないようで。
相互理解においてものすごい断絶があるんだなあ、というのを自覚したとしても、これは片方の立場からだけじゃ解消できないんですよねえ……