今さらですが、米沢旅報告

謙信公のとても美しい字の事を書いていたら、米沢旅の日記が下書きで放置していたことが判明。←遅!今さらですが、記録なんで。

行ったのが4月半ばなんで、寒い寒い。桜は咲いてなかったし、雪は残ってるし。季節外れの写真で、すまんの〜

ホテルの窓から。早起きして、まず向かったのが、上杉神社。こちらで、その日の旅の無事(?)を祈る。

しかし、はよー行きすぎたので、いらっしゃるのは明らかに地元の方と思しき人々。お目当ての稽照殿はまだ開館していなかったので、上杉家御廟所に向かう。あらかじめ用意の地図だけをたよりに歩く、方向音痴な旅行者。「途中で標識があるだろー」という期待もむなしく、あった標識は神社付近の一か所だけ。不安を覚えたころに出てきた「御廟」という町名に安心すると、見えてきた。

あの時は、雪が少々残っておった。謙信公をはじめとする皆々さまのお墓をお参りし(景勝公のお墓の前には、メガシャキが一本お供えしてあった 笑)「御朱印はこちらで」の案内があったことを思い出し、お願いする。
と、本日第一回目の「どこから来たの」が。「奈良です」と答えると「ほー、わざわざ」ここまでは、毎回同じ。「で、何しに来たの?」一瞬リアクションに詰まる問いかけが。上杉家のメンバーではないので「お墓参り」はおかしいし、かといって「観光です」は、不謹慎だろうし・・・。悶々とする旅行者をほっておいて、その方いきなり奥に向かって「奈良から来たんだって!!」「へー、奈良から。そりゃそりゃ」って、わしゃ珍獣か!?おかげで、御朱印を書いていただいている間、会話のイニシアチブをとられてしまった珍獣の関西人は、聞きたいことの半分も聞けないという不覚をとる(泣)

来た道を素直に戻り、稽照殿へ。いわゆる宝物館である。謙信公、景勝公の甲冑や遺品はもとより、鷹山公の伝国の辞(複製でした、残念)、直江兼続の愛の甲冑などなどなど。遺品の中には、謙信公愛用の琵琶(朝嵐)や、馬上杯、お数珠なんかもあった。もう上杉好きには、たまらんところであろう。そして、ここにかの信玄公の悪口の書(違)があるのだ。だって古今集の和歌なんか書かれた日にゃ、イチコロになりそうな字だよ。それをよりによって・・・。

謙信公の字と、伝国の辞に感動した勢いのままに上杉博物館へ。もちろんお目当ては、信長公から謙信公へ贈ったといわれる狩野永徳「洛中洛外屏風図」(上杉本)。実物が見れて満足。あの頃の信長公は、謙信公に媚びまくっていたんだね。他にも、上杉家が各方面からいただいたお手紙が展示されていた。面白かったのは、お手紙の折り方の実技が出来ること。折り方にもいろいろと作法があるようで、いろんなパターンが紹介されておった。
なんでも上杉家の手紙は、頂いた状態そのままで保管していたことが特徴なんだとか。よくありますね、お手紙を表装しちゃって・・・、というパターン。そういう、手間をかけていない分、よりリアルに、その時代に触れることができるというわけだ。

博物館を出ると、ボランティアガイドさんが多数いらっしゃる。旅行者には、とてもありがたいシステムだ。で、そのガイドさんに次の目的地「林泉寺」への行き方を尋ねる。「何で行かれますか」「歩きです」「ちょっと遠いですよ」「何キロあります?」「1キロ位ですかね」「じゃ、歩きます!」「だ、大丈夫ですか??」そんなにか弱く見えたのか、はてまた運動不足に見えたのか。おそらく後者だろう。地図をいただき、親切丁寧に教えていただいた。

迷うことなく、というか迷いようがなく無事に林泉寺に到着。上杉家の菩提寺で、上杉家の御正室や景勝の母仙桃院のお墓、直江夫妻や上杉家重臣のお墓がある。本堂入口で堂内案内図をいただくと、こちらにも案内をしてくださる方がいらっしゃる。なんとワタクシ、今回その方を独り占めするというラッキーなことにあいなった。謙信公のこと、鷹山公のこと、直江兼続のこと、もちろんお寺の成り立ちのことを懇切丁寧にお話していただいた。ありがとうございます。
「奈良に比べたらねー、そんなに大きなお寺じゃないんだけど」って何度も御謙遜されるが、そんなことない。曹洞宗のお寺らしく、華美ではないんだけど、凛としたいいお寺さんである。「気のすむまで、いてくださっていいよ」と言われたので、お言葉に甘えて長居してしもうた。すみません。


そんな林泉寺からの帰り道、きっと心の中で「さくら、さくら〜」と呟いていたのを謙信公以下、あわれに思し召していただいたのだろう。上杉伯爵邸にて。↓米沢でやっと見ることができた、桜。

今回の旅は、あっと言う間に終了した。この記事を書きながら、今でも物足りない気がしている。何かやり残したことがあるような気がしている。またいつか訪れたい、そんな奥深い場所である、そう思った。


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