こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

このブログについて

スマホやPCを持たない旅行者がまだ生存していた2011年の旧式スタイルの旅の備忘録です。名所にとらわれず徒然なるまま移動し、国と地域を把握することを心掛けました。旅は大きく分けて、【メコン編】、【中央アジア編】、【チベット編】の3つです。宿、為替レート、治安などは当時の情報です。特に中央アジアチベットは当時から情勢が大きく変化していることに注意してください。

メコン編1】ベトナムカンボジア⇒タイ

ベトナムを北はモンカイから南はハティエンまで1か月かけて縦断しています。
カンボジアアンコールワットは薄いめにして、当時軍事衝突のさなかにあったプレアビヒア、クメールルージュ史跡、美しいレリーフが残るバンテアイ・チュマールを訪れました。タイはカンボジアに続いて、タイ内にあるクメール遺跡関連の記録です。
ベトナム縦断≫ モンカイpic)⇒ハイフォン(pic)⇒カットバ島pic)⇒ハノイpic)⇒フエpic)⇒ホイアン(ミーソン遺跡)pic)⇒サイゴンpic)⇒フーコック島pic)⇒ハーティエンpic

カンボジア≫ プノンペンpic)⇒バッタンバンpic)⇒シェムリアップ(アンコールワット)
 pic,pic)⇒アンロンウェン(プレアビヒア、ポルポト史跡)
 pic,pic)⇒バンテアイ・チュマールpic)⇒

≪タイ≫ バンコク pic)⇒ナコンラチャシマpic)⇒ピマーイpic)⇒パノムルンpic)⇒カオプラビハーンpic)⇒

メコン編2】・・・準備中

中央アジア編】ウイグル自治区⇒カザフ⇒キルギス⇒タジク⇒ウズベクキルギス⇒中国

新疆ウイグル自治区ウルムチからバスで北カザフに入り、そこからひたすらキルギス、タジクへと南下し、パミールハイウェイとワハーン回廊を巡りました。未来都市アスタナ、ワハーン回廊がおもな見どころです。2010年のキルギス南部紛争とアンディジャン事件についても簡単に解説しています。ウズベキスタンは軽めですが、写真だけは載せています。

≪中国≫ 蘭州pic,pic)⇒ウルムチpic,pic

カザフスタン≫ セメイセミパラチンスク)(pic,pic,pic)⇒アスタナpic,pic)⇒アルマティpic,pic
キルギス≫ ビシュケクpic,pic)⇒オシュpic,pic,pic
タジキスタン≫ パミールハイウェイ(カラクル湖、ムルガブ)pic,pic,pic)⇒ワハーン回廊(ランガル、ビビファティマ、ホログ)pic,pic)⇒ドゥシャンベpic)⇒ホジャンドpic
ウズベキスタン≫ フェルガナ盆地(コーカンド、アンディジャン)pic)⇒タシュケントpic)⇒サマルカンドpic,pic,pic
キルギス≫ オシュ⇒サリタシュpic,)
≪中国≫ カシュガル⇒ホタン⇒ウルムチ⇒(pic,pic)⇒蘭州鄭州

チベット編】準備中

個人旅行がギリギリ可能だった2011年冬の記録です。

成都を出発点として、当時まだ知られていなかったラルンガルゴンパを巡り西寧まで北上。青蔵鉄道でラサ入りし、そこからさらに西チベットまで足を延ばしました。ピヤントンガの美しい壁画が見どころです。西チベットからの復路は同一ルートを避け、道なき道を南へ。エベレストBCを経由しネパールへ抜けました。

写真はこの辺(東~中央チベット西チベット,西チベット)に載せています。

鄭州 中国

2011年9月15日

夜が明けて僕は再び如意湖にいた。なぜわざわざ二日連続で足を運んだかは覚えていない。ぼんやりと記憶にあるのは、大きなコンベンションセンターの中に入ったことだ。コンセプトやテーマに統一性のまったくない展示会が開催されていた。キャンプ用品やお茶、キノコもあればなぜか書がずらっと並んでいて、日頃は書などまったく興味がないのに、まるで品評に来た関係者の体で一点ずつ眺めて時間を潰していた。





如意湖周辺は昨日のゴーストタウンぶりとはうってかわって多くの人で賑わっていた。昨夜見た夜景が幻だったのではないかと思うくらいに雰囲気が変わっていた。こういう都市の雑踏はかなり久しぶりだと思った。そしてそのことに気が付いて得体の知れない恐怖を覚えた。
この3か月近く、テロや紛争が身近なものとしてある中央アジアを旅してきた。それらの国ではどこでも警戒態勢は厳重だった。街の至る所で警察官が目を光らせ、駅や建物の写真を撮ろうものなら彼らがすっ飛んできて画像を削除させられたものだった(そのついでに袖の下を要求された)。車の中からトンネルを撮影しようとして、乗客からカメラを叩き落とされたこともある。国境を越える時の検査は、カバンの中をペン1本に至るまで調べ、空のカバンを文字通りひっくり返して隠し物がないか確認し、1,000枚以上の写真すべてに目を通す徹底ぶりだった。ウズベキスタンのフェルガナ盆地では100台以上の戦車の車列の横をびくびくしながら通り過ぎたこともある。
こうした光景が日常になった自分にとっては、逆に警官のいない雑踏は隙だらけに思えた。もしも市民の中に爆弾を持った人間が紛れ込んでいたとしても、防ぎようがない。それが今隣にいる人かもしれない。
想像が働き始めると心臓の鼓動が脈打っていることに気が付いた。この人ごみを一刻も早く抜け出して安全な場所に移動することにしよう。

こうして中央アジアの旅は終了した。





鄭州 黒川紀章の足跡をたずねて

9月14日 鄭州

鄭州に移動した僕は、宿泊拒否の洗礼を浴びていた。蘭州のように飛び込みですっと招待所に泊まれたのと落差が大きすぎて困惑していた。一般的に、中国では外国人の宿泊には「登録」が必要になる。この「登録」には2つあって、外国人を受け入れる宿泊施設として登録する宿側の事前手続きと、外国人を泊めた際に公安に届ける事後の手続きとがある。観光客の少ない鄭州では、外国人受け入れ施設として登録されている安宿がほとんどなかった。また、大都市鄭州では蘭州のようなもぐりの招待所なぞ見当たらない。街じゅうを歩き回り、ビジネスホテルを一軒一軒あたってようやく何軒目かで宿泊可能なホテルを見つけることができた。

ところで鄭州を帰りの経由地にしようというアイデアが浮かんだのは、アスタナである。おさらいをすると、カザフスタンの首都であるアスタナは1997年にアルマトゥイから遷都された人工的な街である。この街の都市計画を設計したのが黒川紀章だった。
アスタナの街を目にした時、僕は軽く衝撃を受けた。街全体の緻密で立体的!な設計や、奇抜な現代建築がそこかしこに林立している街の雰囲気が、今まで体験したことのないものだったからだ。それは写真で予習して想像していたよりずっと魅力的だった。そこで黒川紀章が設計した街がほかにないか調べてみると、中国の鄭州に黒川が再開発を手掛けた地区があるということだった。それで鄭州にやってきた。

再開発が行われた地区は、街の中心から少し離れた場所にある。如意湖という人造湖にホテル、コンベンションセンター、高層住居といった商業拠点が作られた。
ホテルに荷物を置いて、シャワーを浴びて一寝入りしてから如意湖に向かった。バスで30分ほどだったと思う。如意湖に着いた時には日は沈んでいた。如意湖周辺に人はあまりいなかった。

如意湖再開発地区の構成は、如意湖を中心に何層かのドーナツがあり、ドーナツの内層に展示会場やホテルが建てられ、外層はタワーマンションが取り囲む。そして内層と外層の間に片側5車線の広い環状道路が走る。直線でなく円でつなぐ発想がアスタナと同じで黒川紀章らしいと思った。ただ5車線を走る車は圧倒的に少なく、不気味さが漂う。

如意湖のへりに設けられた木板の遊歩道に沿って湖の周りを1周してみた。遊歩道は湖面に近い低いところに架けられており、手を伸ばすと水に手を触れることもできる。これも黒川のこだわりだろうか?南側にはトウモロコシ型のマリオット・ホテルが建設中。完成すると高さ280メートルになるらしい。サマルカンドの遺跡でやられていたような光のショーが建設途上のホテルを照らす。その西隣はアートセンターのエリアで、卵の形をした劇場や音楽ホールなどが並び、中心にオベリスク風の塔が聳える。ホテルの東隣は巨大なコンベンションセンターだ。どれも奇抜な現代建築である点もアスタナと共通している。

遊歩道に腰を掛けた。鄭州の空気は生ぬるかった。暑いわけでもなければ涼しくもない。湖面が近いからなのか湿気を感じるのだが、決して不快なものではなくすべてが丁度良い塩梅だった。湖の向こう、正面に巨大な卵型のアートセンターとオベリスクが見える。水面をすぐ触れることができるという自然の近さと圧倒的な現代建築の奇妙な組み合わせが、非現実的で幻想的な感覚に誘われるのだった。自分の旅の中でもこれほど気持ちの良い生ぬるさを味わったことはない。旅の緊張がゆっくりと解けていくに身をゆだねた。







二回目の蘭州

9月13日

二度目の蘭州はよく楽しめた。一度目は初めて触れる西域の空気と刺激に気圧されてしまったが、二度目は都会としてこの街を眺めている自分がいた。近代的なショッピングモール(どこでもありそうな代り映えしないものだが)や買い物客たちが緊張感なく無目的に歩くさまが、中央アジアの辺境に慣れた目には新鮮に映る。僕もそんなだらだら歩く観光客(自分がまさしくそうなのだが)に交じって、アイスクリームを片手に目抜き通りを歩いた。この警戒心のない感覚が妙に心地よい。このアイスは緑豆あずきキャンディーという中国ではいっぷう変わった和風テイストだったが、こうした既製品を食べるのが久しぶりだったせいかやたらとうまかった。

 =蘭州の繁華街=

 =あずき緑茶アイスバー

蘭州にはロープウェーで登れる山が2つある。黄河を挟んで北側の白塔山公園と駅背後の蘭山公園だ。一度目の蘭州では前者に登り、二度目は後者に登った。時間に限りがありどちらか一つしか選べないなら、駅裏の蘭山公園を推す。眺望の迫力ではこちらに軍配が上がる。高層ビル群が近いのだ。高層ビル群と乾いた大地の奇妙な組合せ。悪くない。中国一大気汚染の酷い街という不名誉な称号を与えられている蘭州だが、今日は青空が広がりすがすがしかった。過酷な中央アジアの旅が終わり、疲れた体と精神をいたわるように心を無にして、乾いた大地をじっと眺めていた。

 =駅裏の蘭山公園からの眺望=

蘭州では招待所と呼ばれる最下層ランクの宿に投宿した。窓すらない狭く小汚い部屋だったが、この頃にはまったく気にならなくなっていた。むしろ外国人登録という煩わしい(正規の)手続きがない点が気に入っていた。我ながら強くなったのかなと思う。そしてこういう激安宿に泊まったことを誰かに言いたくて仕方がない自分がいる。今の若者にはあまり無い感覚かもしれないが、バックパッカーの世界では、安くて汚い宿に泊まった方が勝ちという価値観がある。これは単なる節約自慢を超えて、安宿に平気で泊まれるたくましさが旅行者としての能力の高さを示すと信じられているからだ。私も(認めたくはないが)この価値観に縛られていることに気が付いた。昔はこういう安宿自慢が大嫌いだったのに。

夕食は駅近くの食堂で牛肉麺(いわゆる蘭州ラーメン)を食べた。2か月前に名店馬子禄を訪れた時、注文してから10秒かからず商品が提供されるシステムに驚嘆したものの、味については何かが物足りなく正直言うとがっかりした。ところがどうだろう、今食べている牛肉麺はなかなかいけるじゃないか。馬子禄と味が違うのか、自分の舌が変わったのかどちらだろう?2か月前の味を反芻しながら、客のいない深夜の食堂でラーメンを啜った。

 =鉄道の切符 ウルムチから上海まで750元(当時のレートで約1万円)=

 =ロープウェーのチケット 50元だった=

ウルムチから蘭州へ

9月12日

数日ウルムチでのんびり過ごした後、上海まで鉄道で戻ることにした。しかし予想した通り切符がなかなか取れない。作戦を変更してどこか乗り継げる都市がないかと電光掲示板を眺めていたところ、9月12日深夜4時発の蘭州行L108が異常に空いていたのでこの便の硬臥を予約した。

出発の日、2時30分に目覚まし時計をかけ、駅まではタクシー(15元)で行った。駅構内は真っ暗で、500人ほど収容できるがらんとした待合室にはわずか20人ばかりの客がいた。いつもと勝手があまりに違うので強い不安を覚える。深夜4時発というのも普通ではないし、この便だけが異常に空いていたのも気になっていた。何かの手違いで空の切符だけ販売されたのではないかと疑ったのだ。

列車はちゃんとやってきたが、同じ車両に客は3人しかいない。しかもシーツが敷かれておらず、自分でベッドメーキングをしなくてはならない。車内販売もなければ売り子もいなければ食堂車も営業していない。こんな、ないない尽くしの中国鉄道は初めてだ。キツネにつままれた気分のまま硬臥で横になった。

列車は定刻通り出発した。本当に蘭州に行くか疑念を抱いていたが、どうやら東には向かっているようだ。昼頃にはある駅からと乗客ががやがやと乗り込み、それで3分の1ほどの座席は埋められた。


長時間の鉄道旅で食料や水を得る機会がほぼないことが、この列車の致命的な欠点だった。水分補給といえば、途中の駅で売り子からハミクワを買ったくらいだ。熱湯はあるのでお茶を淹れることはできるが、もしなければ確実に脱水を起こしていただろう。
時刻表がなく到着時間のめどが立たないことがストレスだ。ほかの列車と比べて異常に遅いことだけは分かる。20時間ほどで蘭州に着くかと予想していたが、24時になってもまだまだ目的地は遠いようだった。
2回目の朝を迎えた。何をするでもなくただ心を無にして過ごしていた。到着は13日の10時。実に所要時間30時間だった。

中央アジア77 ウルムチに戻って

2011年9月8日
ウルムチでの宿は新疆飯店と決めていた。2011年時点で既にバックパッカーからは見放されていた旧式の宿であるが、窓が広く部屋が明るいことも、窓から望むロータリーの景色も好きだった。そして何より2000年代後半に雨後の筍のように作られた雑居ビルを改装した中国式バックパッカー宿が、僕はどうしても好きになれなかったのだ。ただ長い滞在中に日本人旅行者を一人も見なかったので、この感覚は僕個人の独特なものかもしれない。
部屋は前と同じ6階のロータリーに面した部屋をリクエストした。料金は60元から80元に値上がりしていたが、さすがに高すぎると文句を言ったら70元まで下がった。
2か月の間にウルムチも色々変わっていた。
イカ焼き屋台がなくなっていた。専用レーンを走るBRTというバスが開通していた。よく通った奇声わん場という地下のネットカフェも看板だけはきれいになっていた。街の浄化が凄いスピードで進んでいることを肌で感じる。
ホテル横の拌面(ラグマン)レストランは変わっていなかった。トマト卵拌麺は相変わらず安定の美味しさだった。このレストランが新疆飯店に泊まる最大の要因だったかもしれない。新疆ウイグル自治区の食事は美味しいということは声を大にして言いたい。夕食後部屋のベッドで横になり、戻って来た安堵感に包まれていた。ロータリーの喧騒が心地よい。窓から見える山が黄砂で霞んで見える。ぼんやりとY君のことを考えていた。
彼はたしかにウルムチでの経験を仕事や実用的なことに役立てることはなかったかもしれない。しかし3年ウルムチで過ごしたこと自体彼が望んだことなのだろう。その気持ちが何となく分かる気がする。この地で過ごした3年間は有意義だったのだろうと今なら言える。心残りは、ウイグル語の教科書を作るという話を果たせなかったことだ。一度話をしかたったな。
日没間近の街を歩いた。23時まで明るかったウルムチも今は22時で空が暗くなる。一陣の風が体をすり抜けた。ひんやりとした風が季節の変わり目を告げていた。

中央アジア76 ホタンからウルムチへ

9月8日

ウルムチ行きの寝台バスは清潔な白いシーツが敷かれていた。ウルムチまでの長旅が少しでも快適に過ごせそうで良かった。ホタン行は不潔で眠るどころではなかったのだ。
21時の食事休憩で、昼に続いて2食連続でシャシリクを食べた。今回のシャシリクはかなりのジャンボサイズで、肉も硬くて嚙み切れない。やはり大きさはほどほどがいい。バスが出発しそうだったので、最後の二個は殆ど噛まずに食道へ押し込んだ。あれだけ大きな塊を飲み込んだのは人生後にも先にもない。


地図上バスはタクラマカン砂漠の真っ只中のはずだが、外は闇夜で何も見えない。目を閉じ、眠気に体を任せた。日の出を迎えたころには、近代的ビルが林立するのが目に入った。まるで砂上の楼閣のような幻想的な光景だった。空は晴れて穏やかに見えたが、トイレ休憩で外に出ると風が強かった。




タクラマカン砂漠を抜けると岩山が立ちはだかっていた。岩だらけの坂道をゆっくり登っていく。あまりにも風景が単調でげんなりしてきた。日射しが熱く、ゆでガエルになりそうだ。まさか山越えがあるとは思っておらず、精神的にも身体的にもきつい。峠の標高は約2000メートルだった。なだらかな下りに入りバスはスピードを上げた。14時にウルムチに到着した。