演劇×劇場×文化施設建築

2017-09-08

福博の文化芸能の拠点として世界に発信する博多座へ(前)〜芦塚日出美相談役

2019年に開場20周年を迎える博多座。7年前、経営の建て直しのために、7年振りに民間人経営者として社長に就任したのが、現相談役の芦塚日出美氏だ。「福岡博多文化芸能の拠点である博多座をなんとしても死守しなければならない」という気概をもって取り組んだ芦塚氏の経営改革は功を奏し、12年度以降、5年連続で黒字化をはたす。公設民営の劇場としてのあり方を守りつつ、確立した“持続性のある施設運営”とはどのようなものなのか。芦塚相談役に振り返っていただいた。

「芸どころ博多」の復活を目指して

――芦塚相談役は、「芸どころ博多の復活」というスローガンを出されていますが、あらためて、博多座博多文化芸能の歴史について教えてください。

芦塚 歌舞伎は、幕末河竹黙阿弥(1816‐1893)によって多くの傑作が上演され、人気が再燃しました。中島公園には、天保5(1834)年、七代目・市川團十郎中洲中島町興行を行ったことを記した石碑が残っています。このことから、福岡博多文化芸能発祥歌舞伎といえるでしょう。

博多に常設の芝居小屋ができたのは、明治7(1874)年3月。現在のラーメン店「博多荘」の場所に設立された「永楽社」がはじまりです。「永楽社」は、当時、芝居小屋ナンバー1とされていますが、明治16(1883)年に聖福寺福岡市博多区御供所町)の境内設立された「教楽社」がライバルで、両社競い合うように巡業歌舞伎を上演していました。さらに、明治23(1890)年、近代演劇の祖・川上音二郎が、全国的に「オッペケペー節」をヒットさせ、明治29(1896)年から新劇活動を始めます。音二郎活躍で、博多の芝居人気は、一気に盛り上がりを見せていきます。

――川上音二郎といえば、博多座前の上川端商店街入り口に銅像がありますね。博多文化芸能の歴史を語るうえで欠かすことのできない人物です。

芦塚 そうですね。芝居人気が高まるなか、博多座※ができたのは明治43(1910)年。教楽社グループが東公園西洋風の演劇場として開設しました。その杮落しは、川上一座が務めましたが、これが川上音二郎最後の舞台といわれています。音二郎は翌年(1911)の11月11日享年48歳で亡くなりました。

当時は、本格的な常設劇場が次々と建てられており、博多座開設の7年前には、永楽社が東中洲に当時九州一の2階建て劇場1,750席の「明治座」を開設。翌年、それを上回る規模の「寿座」を同じ東中洲に開設していました。その後も、東中洲には、大正元(1912)年に、3階建て洋風建築1,000席の「九州劇場」(昭和18年、「福岡宝塚劇場」に改名)、また、近隣の呉服町には、大正9(1920)年、九州一の集客規模1,450人を誇る「大博劇場」が開設されました。

――今では、「西日本一の歓楽街」といわれる中洲(東中洲)ですが、当時は、演劇場が立ち並ぶ、一大エンターテインメントの街だったのですね。

芦塚 ええ。戦前には、料亭が50軒ほどあり、芸妓は1,000人はいたといわれています。そうした文化を支えていたのは博多商人です。その頃は、いわゆる「タニマチ」の旦那衆が、宴席に歌舞伎役者を招いていました。しかし、その芝居人気も、大正時代に入ると、活動写真映画)が普及するようになって一変します。多くの演劇場が映画館へと転向するようになり、芝居小屋は姿を消していったのです。

 ――その映画館も今では中洲に1軒のみとなっています。時代の流れというものを感じますね。

芦塚 博多歌舞伎の最後の殿堂であった「大博劇場」が1972年に閉館してから20年以上、福岡博多には本格的な劇場がありませんでした。そのなかで、本格的な歌舞伎演劇などの本格的な公演を行える常設劇場の復活を望む声が高まっていきます。89年、興行界と地元財界、当時の桑原市長合意し、福岡市新劇場の計画構想に取り組むことになりました。そして99年6月、全国初の公設民営の劇場博多座」が開設されます。劇場福岡市土地建物を312億円かけて取得し、九州経済界東京演劇興行会社および福岡市の協同出資によって設立された(株)博多座運営を行うかたちです。

※旧・博多座戦後引揚者の住宅などになり、1963(昭和38)年に閉鎖。

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