演劇×劇場×文化施設建築

2018-05-17

ボートを拠点にする演出家遠藤啄郎、戦後日本を見つめ直す

『さらばアメリカ!』

日本全国に数々の劇団存在するが、御年89歳となる演出家遠藤啄郎が選んだ活動形態は唯一無二と言っていいだろう。遠藤率いる劇団横浜ボートシアター」は、横浜の港に浮かぶ船の上で37年にわたって創作活動を続け、『エディンバラ国際フェスティバル』『シビウ国際演劇祭』『ニューヨーク国際芸術祭』などでも高い評価を獲得してきた。この劇団が、2018年5月、KAAT神奈川芸術劇場で新作公演『さらばアメリカ!』を上演する。

42年前に書かれたものの「過激すぎる」と言われ、お蔵入りになってしまったこの作品は、遠藤が見てきた戦後間もないエネルギーに溢れた時代を、喜劇として描いた問題作。いったい、なぜ一度は封印となった作品が、いま上演されるに至ったのか? 杖をつきながら取材場所である劇団ボートにやってきた遠藤が、闊達な話と明晰な分析でその創作哲学を語った。

劇場を揺らすなんて、ボートシアター以外の場所ではできません。

横浜ボートシアターは、1981年の結成から37年にわたり横浜に浮かぶボート創作の拠点としています。どういったきっかけで、こうした独自の活動に至ったのでしょうか?

遠藤:元々は、劇場がほしかったんですよ。日本では、「稽古場も劇場も借りる」という活動のスタイル一般的ですが、横浜ボートシアターを結成する前の劇団ヨーロッパツアーをしたときに、海外劇団自分たち劇場を持ち、そこで稽古や公演をすることが一般的であることに気づきました。けれども、日本では経済的問題から実現は難しかった……。

そんなとき、石川町駅前アメリカ人が木造の船を使って開いていたブティックが沈んでしまったんです。地元の人たちと一緒に引き上げたところ、彼が「もう船は要らない」と言う。「じゃあ売ってよ」と言ったら、30万円で売ってくれた。安かったですね(笑)

—きっかけは、ボートが安く手に入ったから(笑)

遠藤:初代の船は木造で、いまの3代目よりもだいぶ小さなものでした。そこで作品作りをしていたのですが、ある大学の演劇部に貸したら、排水設備のスイッチを入れ忘れて沈められちゃった(笑)

それに、法律が変わり、勝手に船を放置できない時代になってしまいました。どうしようかと考えていたところ、組合の人が、使わない鉄の船を寄付してくれたんです。彼は劇作家でもあり、横浜ボートシアターのファンでもありました。

ボートという特殊空間で作品を作ることは、創作にどんな影響を与えるのでしょうか?

遠藤ボート係留している陸と海の境目は、「旅に行き、旅から帰ってくる」ときの接点となるドラマティックな場所です。そこでドラマを上演すると、観客にはさまざまなイメージ喚起される。これまで横浜ボートシアターでは、アフリカインド日本などの古い物語と現在をつなげていくことをテーマにした作品を作ってきました。私的な世界を生み出したり、社会風刺をしたりするだけでなく、「過去と現在を結ぶ場所」としての劇場イメージしているんです。

—船という非日常的な場所で、過去と現在が結びつくんですね。

遠藤:木造船で初めて上演したのはエイモス・チュツオーラ(20世紀活躍したナイジェリア小説家)の『やし酒飲み』(1952年)という作品でした。そのときは、お客さんが入ると、出入り口に釘を打ち付けて塞いでしまったんです。そして、エンジンをかけて、劇団員みんなで外から船を揺らします。そうすると、お客さんは「出航したのか!?」と、びっくりしていましたね。

—船を使った作品ならではの演出ですね(笑)

遠藤劇場を揺らすなんて他の場所ではできません(笑)。そして、エンジン音が止まり、芝居が始まる。この作品は、とても好評でしたね。

横浜ボートシアターでは、『エディンバラ国際フェスティバル』や『シビウ国際演劇祭』といった海外での公演も積極的に行っています。世界でも珍しい活動形態を、海外演劇人はどのように見ているのでしょうか?

遠藤:「ボートで作品を作っている」と話すと、海外でもとてもおもしろがられますね。先日も、フランス人演出家が見学に来て、「ここを使って作品を作りたい」と興奮していました。ただ、フランスセーヌ川には船で小さなオペラを上演する劇場があったし、スウェーデンでは、船で航海をしながら公演をする劇団もあります。

—意外にも、世界各地にボートシアターがあるんですね。

遠藤:非日常的なボートという空間は、演劇を上演する場所として理想的な場所ですからね。デメリットは、船が揺れて酔う人が出ることくらいでしょう(笑)

それに、船で作品を作っているということで、たくさんの人がおもしろがってくれるんです。3代目となる現在の船を作る際にも、市民の有志が「横浜ふね劇場をつくる会」を結成して援助してくれたし、助成金が取れなかったエディンバラの公演では、市民からの寄付によって制作費をまかなうことができました。そんな援助によって活動を続けることができたんです。

昔は、「こんなおもしろいものをやったら人間堕落する」と思って演劇には近づかなかった(笑)

遠藤さんは、東京藝術大学卒業後に油絵画家としてキャリアをスタートしています。どのような経緯から、演劇作品を作るようになっていったのでしょうか?

遠藤:若い頃は、油絵抽象画を描いているだけでは食べていくことができず、放送作家仕事をしていました。多いときには月に40本もの台本を書いていましたよ。もともと、演劇には興味があったんですが「こんなおもしろいものをやったら人間堕落する」と思って近づかなかった(笑)

でも、1967年に「演劇をやってみないか?」と誘われ、『極楽金魚』という作品を作ったら大当たりして。寺山(修司)くんの『邪宗門』(1972年)と一緒に、『ナンシー演劇祭』(フランス代表する演劇祭)にも呼ばれました。ナンシーの公演では、幕が開くまでフランス人おもしろさが伝わるのか不安で仕方なかったのですが、終わってみると観客は総立ち。舞台まで駆け上がって絶賛してくれました。それで、「こんなおもしろいものがあるのか!」と病みつきになってしまったんです。

油絵画家として作品を創作してきたことは、遠藤さんの芝居にも影響を与えているのでしょうか?

遠藤:僕が学生だった時代は、油絵勉強することは、ヨーロッパ美術勉強することでした。だから僕も、漠然とヨーロッパ留学したいと考えていた。けれども、卒業間近になって、日本美術について何も知らないことに気づいたんです。

当時は、戦争に負けて日本を全否定するようなムードも強かった。そんな時代の流れに逆らって、京都に行って、日本美術勉強していました。そんな根底があるから、芝居でも日本の伝統を大切にする傾向がありますね。

演劇絵画も、ヨーロッパを中心とした文化であり、日本の伝統が顧みられることは少ないですね。

遠藤日本の伝統をどう学んでいくことができるか? と考えていく中で、見えてきたのが「アジア」という枠組みでした。日本文化の多くは、アジアからやってきたものが発酵したもの。その源流には、インドインドネシアタイといった国々の文化が横たわっているんです。

そんなアジア文化を学び直すことによって、自分たちの新たな文化を作っていくことができないか? そのような姿勢から、横浜ボートシアターでも『小栗判官』(説経節代表作のひとつ)などの日本の物語と共に『バガヴァッド・ギーター』(ヒンドゥー教聖典のひとつ)、『マハーバーラタ』(古代インドの叙事詩)といったインドの物語を上演しているんです。

現代では、演劇人一般人も、言葉おざなりにしすぎています。

遠藤さんの創作哲学の根源には、過去をさかのぼる姿勢があるんですね。

遠藤敗戦によって、日本人はそれ以前の歴史を軽んじるようになりましたが、民族問題や歴史の問題は、もう一度見直さなければならないと考えています。だって、過去からしか未来は見つけられないですからね。特にいま感じているのは、「日本語」の問題です。言葉は何百年も昔から蓄積されてきたものであり、僕らは言葉を「使わせてもらっている」存在ですよね?

言葉を「使わせてもらっている」……。

遠藤:特に、演劇言葉を通して過去・現在・未来を見つめていく芸術です。だから、日本語に対して真摯になり、見つめ直していく中で表現を捕まえていかなければならない。それなのに、現代では、演劇人一般人も、言葉おざなりにしすぎています。こんなに言葉を大切に扱わない民族はいないんじゃないかな?

言葉をないがしろにすることで、どのような弊害があると思いますか?

遠藤:もしも言葉を失ってしまったら、コミュニケーションを取ることもできず、共感したり、反発したりすることもできませんよね。それに、未来創造することはできなくなる。

言葉によって積み上げられてきた「過去」を失ったら、その延長にある未来を見ることは不可能です。僕は、芝居や絵を作ることによって、過去と現在をつなげ、未来を見つめる役割を引き受けてきたんじゃないかな。過去や言葉に対する誠意を失ってしまったら、表現をする必要はないと思いますね。

敗戦直後の雰囲気というのは、とても喜劇的なものがありました。

—今回、KAAT神奈川芸術劇場で上演される『さらばアメリカ!』は、42年前に書かれてお蔵入りとなっていた作品です。当時、戦後すぐの混乱の時代を描いたこの喜劇は、どのようなきっかけで考えられたのでしょうか?

遠藤:当時は、横浜ボートシアターの前に作った劇団が解散をしたタイミングでした。ヨーロッパを3か月以上にわたってツアーしながら、人間関係経済問題が複雑になり、くたくたになってしまった。それで、破れかぶれで書いた戯曲なんです。けれども、この作品を書き終えてある劇団に渡したところ、「上演するのは不適当」と言われてしまい、お蔵入りとなってしまったんです。

—なぜ、「不適当」の烙印を押されてしまったのでしょうか?

遠藤:当時は、終戦から30年ほどしか経っていない時代進駐軍のMP(憲兵隊)からの暴行や密航などの過激な題材が描かれているこの作品は、あまりに生々しすぎたんでしょうね。

当時、街にはパンパンが溢れ、浮浪児もいっぱいいるような混乱の時代だった。僕も3畳間に3人で暮らしていたんですが、一緒に住んでいた奴に洋服を売り払われた経験がありました(笑)。そんなことが日常茶飯事な、無茶苦茶な時代だったんですよ。

—いまでこそ、戦争経験者も少なくなり、戦争は歴史上の出来事となりつつありますが、当時はまだ、それぞれの記憶の中に戦争や戦後が残っていた。その生々しい記憶は、喜劇として笑い飛ばすことができなかったんですね。

遠藤:いまになれば笑って済む話だけど、1976年当時は笑えなかったのでしょう。ただ、敗戦直後の雰囲気というのはとても喜劇的なものがありました。これまで生きてきた中で、あんなに希望のあった時代はありません。敗戦によって日本は最悪のところまで落ちてしまい、そこから先は世の中がよくなるしかない。未来に向かって進むしかなかったんです。それはものすごいエネルギーでしたよ。

ただ、そんな希望は70年をかけ、ゆっくりと失われています。経済的には豊かになったけど、いまは未来に対する願いや希望はまったくないですよね。今回の上演では、そんな希望をいまの時代提示したいんです。

遠藤さんにとって、戦争や敗戦直後は、どんな時代だったのでしょうか?

遠藤:戦争の体験は、僕の世代では3歳くらい違うと大きく変わっており、それぞれの視点で戦争や敗戦後に進駐してきたアメリカ軍に対する思いは違います。玉音放送を聞いて皇居前で泣いていた人や腹を切る人がいる中、戦争に行かなかった僕は「バンザイ!」と思っていました。

ジャズシャンソンが好きで、戦時中は、敵国の音楽なので押入れの中で布団を被りながら聞いていたんですが、それが堂々と聴けるようになる。そうそう、敗戦から2日後、自宅でジャズレコードをかけていたらお巡りさんがやってきて「さすがにまだ早いぞ」と、注意されたことがありました(笑)

若い世代には、戦争や敗戦平和や国際関係を丁寧に考える姿勢を持ってほしい。

—『さらばアメリカ!』は、2000年に一度、東京劇場で上演されています。この上演からは、大きく異なっているのでしょうか?

遠藤:この上演は不満の残るものでした。当時は、まだ心の中に「過激すぎるかもしれない」という気持ちがあり、いまほど突き抜けた演出ができなかった。その結果、どちらかというと「個人史」としての上演になりましたね。今回は時代も変わり、日本社会や日本人が変わってきた経緯を踏まえて思い切って提示できるようになりました。18年前に比べ、社会状況的にも、上演する必然が高まっていますしね。

—さまざまな国際問題が横たわる中、現在の日本社会の基礎となる敗戦をもう一度見つめ直すタイミングに差し掛かっていますね。

遠藤:この作品を見て、特に若い世代の観客には、戦争や敗戦平和や国際関係といったものを丁寧に考える姿勢を持ってほしい。もちろん、「音楽美術を使った喜劇を単純におもしろがってほしい」という気持ちもありますが、戦争、敗戦戦後から現在へと続いてきた歴史の中で、これからの日本が何を求めていけばいいのか? そんなことを考えるための刺激になってくれれば嬉しいですね。

89歳という年齢を考えても、これから先、何本も作品を作ることはできないでしょう。もしかしたら、この作品が最後になるかもしれない。だから、いま上演することができて、とてもありがたいと思います。

https://www.cinra.net/interview/201805-endotakuo

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