Hatena::ブログ(Diary)

今日もご無事で。 RSSフィード

2018-05-12

赤い公園は天才同士の一瞬のきらめきだった。そして新体制、赤い公園のこれから。佐藤千明の脱退と、石野理子の加入。

津野米咲のソングライティング能力と、バンドとしての着実なステップアップ

 2012年にミニアルバム『透明なのか黒なのか』でメジャーデビューを果たした赤い公園。ボーカルに佐藤千明、ベースに藤本ひかり、ドラムに歌川菜穂、そして彼女たち3人のひとつうえの先輩になる津野米咲はギターと、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を担当した。そのソングライティングの能力はバンドがヒットするよりも前から各アーティストから高い評価を受け、ついにはSMAPにとっての50枚のシングル『Joy!!』を手がけるまでとなった。勿論、SMAPの楽曲を手がけたからソングライティングの能力が優れていると根拠付けられるわけではないが、わずかデビュー1年足らずで国民的アイドルの記念すべき節目のシングルを手掛けるまでに上り詰めるのは並大抵のバンドができたことではない。相当な運と努力、才能が絡み合って達成された事実であることは確かだ。ちなみにこの『Joy!!』は、SMAP解散時に発売されたベストアルバムのファン投票ランキング(このベストアルバムはファンのリクエスト投票で構成された)でシングル・アルバムなど400以上の候補曲のうち『らいおんハート』や『Triangle』『青いイナズマ』を差し置いて、第16位であった。

 バンド活動そのものについても1stシングルから4thシングルまでタイアップもちゃんとつき(5th,6thはタイアップなし)、オリコンの順位も順当にあげながら地道に活動を続けていた彼女たちであったが、2017年夏、ボーカルの佐藤千明が脱退するという転機が訪れた。
 原因としては正式なコメントでは「7年の活動の中で自分の手に負えない程のズレが生じていることに気付いた。そのズレが迷いとして音楽にまで介入してきたとき、赤い公園のボーカルという使命に、限界を感じた」としている。実際、セールスについても、4thまではタイアップやオリコンランキングも順調ではあったが、それ以降については楽曲の良さとは比例せずランキングも振るわず、2017年明けにバンドが再起を図った2ヶ月おきのシングル3連続リリースもラジオでパワープッシュなどは続いたものの大きな一手となることはなかった。ただ確実に知名度はあがっていたし、楽曲のバリエーションも豊かになりつつあった。まさに“これから”というタイミングであったと思う。


佐藤千明のボーカリストとしての凄み

 赤い公園のスゴさは勿論、前述したようにギターの津野米咲によるソングライティング能力の高さもあるが、それと同等かそれ以上に佐藤千明のボーカルのスゴさがある。彼女の歌声は、赤い公園というバンドの楽曲を再現するのに最も適した歌声であるとすら思った。大袈裟に言わなくても、ソングライティングの天才と歌の天才が出会ったと思った。おまけなんかじゃ全く無く、その2つの才能を支えるベース藤本ひかり、ドラム歌川菜穂、そしてギターでもある津野米咲、その秀でた能力があって赤い公園というバンドは存在していた。誰一人として欠けてしまっては、赤い公園は成立しなかった。

 僕が赤い公園に出会ったのは『KOIKI』という楽曲だった。5thシングルの『KOIKI』はタイアップこそついていないものの、いままでの赤い公園の楽曲を聞いても、この楽曲は「赤い公園としてのだせる実力のすべて」をぶつけたように感じられるパワーチューンだった。イントロでは肩慣らしのようにウォームアップで鳴らされるギター、ベース、ドラム。佐藤千明のボーカルがそこに加わり、徐々に楽曲は熱を帯びていく。サビでバンドの演奏は加速し、その加速度にあわせるようにボーカルがヒートアップする。「世界が浮き足立っても/あなたが泣いてたらしょうがない」というメッセージは、身勝手ながらも、心強い味方のような歌声がそ身勝手さも抱擁しながら聞き手の心に流れ込んでくる。
 そのパワフルな歌声には、シンプルなようでなぞりにくいメロディーを完璧に歌いこなすスゴさとは裏腹にどこか切なさも紛れ込んでいる。その歌声は、まさに心の内側の琴線にダイレクトに触れてくるような感覚を覚えた。そんな彼女の歌声で「こんな時笑えるジョークを/ひとつくらいはひねり出して/呆れて笑うあなたのそばで/ずっと小粋でいたいのだ」なんて歌われてしまったら、もう結婚してくださいと言わざるを得ないのだ。




脱退によって変わるもの

 その彼女が脱退する。以前、赤い公園の記事を書いた時に「メンバーの誰か一人が欠けても、赤い公園ではなくなってしまう。」と感じていたし、そうならないことを願っていた。
 チャットモンチーも大好きなバンドの一つであったが、彼女たちもドラム高橋久美子の脱退によって、大きく変わった。それ勿論彼女たちの意図によるものでもあったと思うし、そうせざるを得なかったこともたくさんあったと思う。『シャングリラ』はそれまで鳴らされていた『シャングリラ』ではなくなったし、新しい音と可能性を探そうと彼女たちは必死だったように感じた。結果、2018年をもってチャットモンチーは解散することになってしまったけれど、高橋久美子脱退以前と以後で、音楽の形は違えどチャットモンチーは鳴らされていた。
 そんなチャットモンチーの儚さを高橋久美子脱退時に味わっていたから、大好きなバンドからメンバーが抜けてしまうのは、ファンの一人としてもできるだけ避けたいと思うものであった。赤い公園にとってその転機が、こんなにもはやく訪れるものだとは思わなかった。
 参考記事 「KOIKI/赤い公園」がとにかくすごいこと今更気付いた(感想文) - 今日もご無事で。
 参考記事◆チャットモンチー BEST~2005-2011~ (Album)レビュー - 今日もご無事で。


天才同士の一瞬のきらめき

 思うに、佐藤千明も、津野米咲も、天才でありすぎたのだと思う。
 歌う天才でありながら、あれだけの歌の才能は豊かな感受性から成り立っているはずである。それは優れたソングライティングの能力を持つ津野米咲も同じで、音楽に対する思い入れと、情熱と、そして世の中に対する感受性が豊かすぎる天才がひとつのバンドに2人存在してしまっていた。
 2つの才能が交わってうまく調和できたのが、奇跡的に7年足らずあったのだ。ただそれだけのことである。完璧な瞬間はそう長く生み出せないし、天才はピークすら感じ取ることができる。そのピークを、赤い公園でのピークを感じ取ってしまったのが、言葉にしてしまったのが佐藤千明だったのではないだろうか。
 『KOIKI』からも赤い公園の凄まじさを感じ取ったし、『純情ランドセル』というアルバムのラストを飾る『黄色い花』は、ダンサブルで明るいポップスのアレンジとメロディーにも関わらず情緒的な感性を揺さぶる、まさにサザンオールスターズMr.Childrenが築いてきた系譜でアプローチする“日本のポップスらしさ”を表現している名曲である。もはや、ガールズバンドの域にとどまらない、将来日本のバンドシーンを牽引する可能性も孕んでいたといっても過言ではない。
 裏を返せばそれだけの名曲をこれだけはやくにして生み出してしまったことに、バンドそのものがうまく調律しなかったのではないかと思う。津野米咲が表現したいことと、佐藤千明が表現したいことのズレ、それが“自分の手に負えない程のズレ”であり、その結果、2人が思い描く赤い公園像は次第に調和しなくなり、佐藤千明は“ボーカルとして”限界を感じてしまったのではないか。まあ、あんまり推測すんのはやめとこ。どうせ本人にしかわからんし、考えてもほとんど違うだろうし。とにかく最高だった。控えめに言って、最the高だったんですよ、赤い公園




新生、赤い公園

 そして赤い公園は、また再起しようとしている。来る2018年5月4日。VIVA LA ROCK2018 CAVE STAGEで彼女たちは新しいボーカルを加えた初ライブを行った。新しいボーカルが発表されることだけが事前に通達され、BiSの元リーダーであるプー・ルイなど噂は色々流れていたが当日まで明かされることはなかった。ステージがはじまってもボーカルに照明はあたらず1曲目の「風が知ってる」が淡々と演奏される。その歌声は、奇しくもどこか佐藤千明の面影を感じさせながらも、明らかな拙さがあった。
 1曲目が終了すると同時に「赤い公園です!よろしくお願いします!」と、これまでもこの体制でずっと赤い公園が続いてきたかのように、バンドの挨拶がなされ『闇夜に提灯』の演奏がはじまる。演奏終了後、やっと新しいボーカルが2月に解散したアイドルグループであるアイドルネッサンス石野理子であることが本人から告げられた。わずか17歳での抜擢。想像できる大きなプレッシャーと緊張の中で、同等と赤い公園のいままでの楽曲を歌い上げるパフォーマンスは素晴らしかった。
 新体制としての新曲『スローモーションブルー』も、津野米咲節が炸裂しており、アップテンポで明るく切ないキラーチューンであった。佐藤千明の面影と闘わなくてはいけない楽曲の難しさももちろんあるが、新しく勝負していかなくてはいけない、そのものの価値が問われる新曲も今後あらゆる局面で試されることが予想される。
 正直、正直ですよ。僕はこのライブを見ていて、「うん、物足りない」と感じました。「石野理子いいじゃん!最高じゃん!」とはなりませんでした。でも、そうであってよかったし、そうじゃなかったら佐藤千明の7年間なんだったんだよって話です。だって17歳ですよ。高校生がバンドやっているようなもんです。“巧く歌いこなす人”が必要なバンドじゃないんです、赤い公園は。そしてもうおそらく、天才はそうそう巡り合わないです。石野理子に求められているのは、ただひとつ、“無二の個性”であると個人的には思います。いままでの赤い公園の楽曲を石野理子のボーカルで聞いていてやはりいかに佐藤千明のボーカリストとしての能力が高かったかを感じさせられたし、パフォーマンスのレベルも一目瞭然だった。でも、石野理子のプレッシャーだって半端ないものだったと思うし、1曲も飛ばさずに歌い終えたのは非常に凄いことであると思う。あとは、石野理子が「赤い公園を歌える人」ではなく「赤い公園の人」になるための個性が開花するのを、ひとりのファンとして待ちたい。


バンドの挑戦は続く

 ヒップホップ?ラップ?オシャレでメロウな打ち込みサウンド?そんなナウでヤングなミュージックが台頭し始めた音楽シーンで、それでもと日本ではポップスやロックの分野でバンドがしがみついている。赤い公園の新しい挑戦は、そんなただでさえ行方のわからないロックバンドシーンにおいて引き続き挑戦を続けていくという新たな宣言でもある。きっと、必ず、彼女たちの残した音楽は、これから何人、何十人、何百人、もっとそれ以上の人たちの背中を押すことになると思います。それは佐藤千明の居た頃の赤い公園も、石野理子が加入した赤い公園も、ずっと残り続けて、これからそれぞれの赤い公園に、いろんな人達が出会っていく。
 輝かしい未来でも、希望に満ちた未来でもない、ありのままの、なんも決まってない未来に向けて、赤い公園、そして佐藤千明が、めちゃんこすごい、いなたいビートを響かせてくれること、願ってます。

 レディオ/冴えない今日に飛ばせ/日本中の耳に/異論のないグッドチョイスな/いなたいビートを/いつもありがと/この先もずっと/二人の電波/たぐり寄せて(NOW ON AIR/赤い公園)



 『NOW ON AIR』、出だしの「日々の泡につまづきやすい」って歌詞でなんか思わず泣きそうになった。

2018-05-01

愛すべきこの世界で

ゴールデンウィークにはいった。粛々と日々を過ごすけれど、世の中は相も変わらず不調のようだ。そんなことはないか。捉え方次第。
久しぶりに文章を書くから、どうにもうまく書ける気がしない。相変わらず散文だし、それでも書きたい気持ちが半年ぶりに湧き上がったので、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。昨年買ったMacBook Proの平たいキーボードからぱちぱちと無機質な音が立てられて、その横ではスピーカーからケンドリック・ラマーのアルバムが流れている。クラシックとかジャズとかでしか受賞してこなかったピューリッツァー賞音楽部門で初の受賞だそうだ。快挙だそう。なので、あんまり聞き慣れないラップが流れている。

都心から少し外れたショッピングモールに出かけると、駅前ではカラオケを歌う男性が2人いた。駅前で歌うミュージシャンみたいな人たち、男だと全く観客がつかないのに、女性だとぽろぽろつくんですよね。あの観客、下心があるのかな。どんなもん抱えてんだろう。
ショッピングモールは人だらけ、恋人同士が多くて、それはきっと勘違いなのだろうけれど、人は一人か二人で行動するのが多いのかな。このペアになって生きていく仕組みは、人間の限界なのだろうか、と思った。うん、全然考え方がまとまってないんだけれど。とにかく人混みは人々の感情が様々で、カオスだった。

ある漫画が非常に好きである。いまテレビではバレエダンサーの特集が組まれている。身体でなにかを表現しようとしている。音楽もそうだ。絵もそう。なんとなく僕はそれが好きで触れてきたけれど、今日ふと思った。人は言葉に頼り過ぎじゃないか、と。
こんな風に言葉でなにかを書いたり、伝えたりしているから、僕らは言葉を通してやり取りをするけれど、言葉は手段であって、すべてではない。本当に僕らはそれをすべて自覚しながら生きているか?「言葉にしなきゃわからないよ」と誰かが言ってそれを非常に不思議に思いながら、納得がいかなかったことを、いまここで自分が抱いたその感情に理由ができた。
人は怒れば誰かを殴るかもしれないし、辛い時はその身を震わせているかもしれない。それぜんぶ含めて人間で、表現だ。

すれ違う人たちが、後ろからイタリア語だかなんだか、その横では中国語だか、前の方ではスペイン語だか、そんな風にバラバラの言語が話される真ん中で思った。僕はその中心にいた。

その人は、心でできているのだ。
言葉は一部であり、もしかしたら一部ですらないかもしれない。言葉だって疑ってかかるべきである。
僕の好きな歌で、「見たものすべて、聞こえるものすべては真実ではない」と歌われているものがある。もっと好きな歌で「言葉とは裏腹に、違う思いを抱いているかも?」と歌う歌がある。
どうしてもみんな、言葉が簡易的に通じ合うツールだから、それを信じがちだし、頼りがちになってしまうけれど、人の心はもっと複雑で、深いところにあるのだ。

こんなタイミングで、時事に影響されやすいから、僕は「西鉄バスジャック事件」について調べてた。
被害者の人たちの状況も酷く胸が痛むものだったけれど、加害者と、加害者の家族の気持ちも、辛いものがあった。
世界は、必死に分かり合おうとしていたのに、うまく調和できなかった。

言葉から得られる想像は、人それぞれなのだ。
「人を殺したい」という言葉が、どのような想像を得てそこに書かれているのか。それとそこからどのように想像を得るのか。それは全く別のことなのだ。
きっと僕が書くこの文章にも、込められた思いなんて意味がなくて、それは、書き手と、受け手が、違う世界を想像しているから。

でも例えば、人間が思いをなんの隔てもなく共有できるようになったその先にあるものはなんなんだろう?と考えた時に、これまた不思議な気持ちになる。その先の残るのは?愛?
でもただひとつ、2018年の現在、現代で思うのは、人の心を、少しでも適切にIN/OUTする為に、言葉以外の手段も模索しながら、知りながら人は生きていかなきゃいけないし、その手段が、人を救ったりするのだろうと思う。
そうして人類は進歩していくし、それなくして人類は進歩しないのかも?とすら思ったりする。

科学と芸術はお互いに恋をして、今日まできた。きっとこれからもそうで、大事なのは想像力だ。お互いが、お互いを、言葉ではないどこかで表現していることを忘れてはいけない。ある人は身体で、ある人は形で、ある人は言葉で、物事を伝える。
科学と芸術が、お互いに重なり合って、相乗効果で、もっと最果てまで行くんだろうなって思う。

いまはずっと読んでみたかった『火花』を読み始めている。音楽はFLYNING KIDSの『境界線』を流し始めた。いや、よかったよ、ピューリッツァー賞。

僕はそんなストーリーを/うまくかみしめてみたり
時にどうしようもなく/くだらなく思ってみたり
ぶらさがり風に揺れる/今日この頃(境界線/FLYING KIDS)

こんな恥ずかしいこと、ブログでしか書けないけど、僕がこの世界で生まれて来て尚、確かめたいことってなんなんでしょうね。
そんなことをこの年齢で考える自分が好きだし、あと10年、20年、死ぬまで考えられるような、迷うような人生でありたいなと思う。それだけ最近思った。

やるべきことがなにかなんて、滅多には見えてこないけど、できるだけ時代と寄り添って生きていきたい。
優しさが人を救うことだってあるし、悲しみはあっていいことではない。
世界をどれだけ愛することができるか、ゆっくり考える時間があってもいい。

人生は一度しかない。それも最近すごくよく思う。
二度はないんだ。

2017-10-01

零落/浅野いにお[感想その2・ネタバレ]

 人生は誰にとっても意味のないものであると考えることができた瞬間、それまで抱いていた欲望は泡と消え、誰かの為に生きたいと強く思う。
 その誰かがもし身近な誰かであるのであれば、その人の願う自分を演じるし、そうではなくもっと大きな何かであるのなら、人生はより一層加速する。
 意味のないものならばいっそ、この身や思考は誰かの幸せのために捧げるべきだと強く思う。そうすることが誰かの幸せや、結果、自分の幸せにつながる。自分の幸せのためだけに拘り続けるのは、あまりに虚しい。

 浅野いにおの零落は、漫画に生涯を捧げる男の話だ。
 主人公の深澤薫は30代半ばの漫画家、ヒット作を生み出したはいいが、完結後、次回作が思うように産まれずにもがき苦しむ。妻・町田のぞみとの関係もうまくゆかず、風俗にかよっていると風俗嬢ちふゆと出会う。深澤薫にとって、ちふゆは、自由を求めながら生き、その姿は20代を謳歌しているようにも見えた。そしてなにかを求めるように小さな逃避行をともにする。愛情を求めていたのか、刺激を求めていたのか、それはわからない。
 けれど、その後のシーンで深澤薫は語る。漫画にありとあらゆる情熱や思いを注いできてしまった。だから、もう自身の中にはなにも残っていなくて、ひたすらに欠落しているのだ。

 久々に向き合った
 原稿用紙は
 どこまでも広大で、

 僕はひどく
 息が詰まった。(零落/第6話)

 “喜びも悲しみも、人としての営みも、全て漫画の中に置いてきた”と深澤薫は語る。
 人は感情を持って産まれる。そのほとんどが、泣きながらであると言う。年を重ねるにつれ、誰かに伝えたいと思う。ある時、その思いは伝えたい形では伝わらないことを知る。受け取った側にも感情があって、解釈が歪んで、他者の視点で自らの思いが再構築されることを痛感する。ある人はそれでも相変わらず伝え続けるだろうし、ある人は工夫を凝らし、ある人は閉じこもりがちになったりする。だけど、共通してあるのは、おそらく自己の存在の本質を問いたい、ということだと思う。
 深澤薫は、自身のなかの感情の欠如に気付いた後、自由を求めて生きていたちふゆを思い出す。

 あの時、
 ちふゆに言って
 やればよかった。

 自由は手段であって
 目的であっては
 ならないのだ、と。(零落/第6話)

 自由を求めて生きていたちふゆは、その自由を手にした時、なにを思うのだろう。遮るものがなにひとつとない広大な草原を目の前に、生きる希望はどこへ行くのか。ただ一心不乱に、その先にある“なにか”を求めて我武者羅に駆け抜けてきた深澤薫は、いま、為す術もなく立ち尽くしていた。漫画という手段が、その感情のすべてを受け止めてくれてしまったが故に、自由と同時に、ある種の満足を得てしまったのだ。

 その後、深澤薫は「自分の信じる漫画」を書くことを諦め、「売れるための漫画」を書くことを決める。それが正解かもわからずに、だけど、「自分の信じるもの」とはなにかもわからない状況で、立ち止まることは迷いを増大させるだけだった。
 深澤薫は、所謂“売れ線”というものを毛嫌いしていた。読者に媚び、お涙頂戴のベタな路線で売れることは、「読者を馬鹿にしている」と考えていた。だからこそ、深澤薫の書くと決めた「売れるための漫画」は、つまりは「読者を馬鹿にした漫画」を書くことの決意でもあったのだ。
 でもそれはすなわち、深澤薫にとって「漫画のために生きる」ことに他ならなかった。常に彼の人生には「漫画」という世界が絡みつき、逃れることのできないものであったのだ。その取り憑かれた、漫画に対していつも真剣で、ひたむきで、漫画を描き続ける純粋な姿を、大学時代の彼女は「あなた…化け物です。」と言った。
 結果、彼の考える「売れるための漫画」は見事にヒットし、サイン会が開かれた。“今の漫画読者にとっては、この程度の媚びた漫画が丁度いいんでしょうね。”と握手会で書店員に語る彼は、明らかにこれから交流を重ねる読者たちを見下していた。
 しかし、握手会で出会ったある読者との交流で、彼の心は揺れ動く。そして、気づかぬうちに涙を流していた。
 この描写、おそらく彼にとって、ひたすらに漫画を描き続けることがなんの報いにもなっていなかったと感じていた思いが、成仏した瞬間だったのだと思う。ずっと孤独と向き合い続けながら、漫画と向き合い続けてきた彼に見えた新たな気付きだったのだと思う。

 なにか意味を求めようとすると息詰まる。意味を求めようとすることも、人生にとって大事な行為だと思う。少なくともまだ僕は、そうでありたい。
 でもそうじゃなくて、例えば、ただの広い草原に立たされた時、純粋に向き合いたいものはなんなのか、世の中にあふれるもののほとんどが、その必要性のないものであることに気付いた時、僕らはなにを答えとするのだろう。
 「なんの意味もない」という気配がかすかしているこのときに、その準備をはじめなきゃいけないのかも、と、この漫画を読んで思った。

零落 (ビッグコミックススペシャル)

零落 (ビッグコミックススペシャル)

2017-07-17

人生は続くだろう カレンダーのように

 今日、大好きなバンドのライブを見た。梅雨明けを知らされない東京では、暑い日差しが降り注いでちっとも涼しさを運んでこない生ぬるい風が吹いていた。肌にまとわりつくような空気が、いよいよ夏の到来を知らせた。フロントマンがギターを掻き鳴らすのを遠目に見ながら、心を動かされたり、この空間を俯瞰的に見たりしていた。あれ、この時間、いつまで続くんだろう。それは「ライブがいつまで続くのか」ということではなく、「人生がいつまで続くのか」ということだった。
 まさか自分のことを自分でこんな風に喩える日が来るとは思わなかったのだけど、横断歩道を少し駆け足で人混みをくぐりながら渡ったときに「ああ、大人になりきれてないな、おれ。少年のままだな」と思った。毎日スーツを着ていたら、こんな風にはならなかったのだろうか。決まったタイミングで、決まった報酬が支払われ続けるシステム、なんかちょっとおかしいよな。おれ、何者なんだろう。
 大好きな音楽は依然と大好きなままだし、好きだった芸能人はちゃんと生きている。みんな同じように年を取り、街並みもちょっとずつ変わっていくけれど、あからさまな変化があるわけじゃない。心が柔軟に動いているのか、時代が思ったよりゆっくり進んでいるのか、変化を好まないはずの僕でもなんとかついていけるスピードでまわりはぐるぐると景色を変えていく。
 結婚適齢期って言葉はなんか嫌だな、と風呂に入りながら思った。誰だよ、適齢期決めたの。まわりがどんどん結婚しはじめているのを「まあ、そういう時期だもんな。おめでとう」とか思っていたけれど、よく考えたらなんかおかしい。これだけ世の中に男女がいるのに、そんなばっちりなタイミングでばっちりな人を選べているわけ?9割ぐらい妥協してんじゃねーの。ほんとに確かめあったのか。それがお前の愛なのか。
 結婚のタイミング、10代だって、50代だっていい、自分のしたいときにすればいい。子供のこととか、そんなこと考えなくていい。そんな紛い物の幸せのために生きているんじゃない。とか考えたけど、たった一度の人生なら紛い物でも幸せを感じたほうがいいのか。そんな風にも思った。
 大好きなバンドは、僕の人生に大きな影響を与えた。どうしようもない高校時代に、もうほんとにドン底で、精神のドン底っていうよりは、思考のドン底っていうか。考える力はあるんだけれど、答えの見つけ方がわからなくて、探す力だけがある、って感じ。そんなときにバンドが与えてくれた言葉が、僕の世界を180℃ひっくり返して、いままで見ていた景色や、受けといっていた言葉が、「すべて考え方次第」と優しく背中を押してくれた。その後にアランの幸福論を読んで「世の中のほとんどの悩みは、考え方で解決できる」と思った。まあ、んなことねーよって声がたくさん聞こえてくるんだけど、それが僕がまだまだ少年なんだなと思う所以なのよね。甘いんだよ、世界の捉え方が。でも、こんなことをずっとぼんやり考えている。
 いつの日か命が尽きること、それをいつだって僕らは考えなきゃいけないはずなのに、のんびり幸せに腰かけて「もうすぐ夏だね」なんて言葉を吐いている。たまたま僕らはこんな時代を共にすごているけれど、理由なんてない。理由なんてないことが、こんなにも儚いなんて、そんな馬鹿らしいことがあるのか。人間はどうして考える力なんて持ってしまったんだろう。考えたって無意味なのに。こんな無意味なことなんてあるか。意味を見出すのは人間だけなのに。でも動物的に生きたんだとしても、それはそれでどこか悲しい。だってこうやって言葉を綴れる自分がどうしてか愛おしかったりもするから。
 ここ最近は、自分の暮らしをどういう風に豊かにするか、ということを考えたりしている。それはどうしてかというと、きっと豊かな暮らしが豊かな心を育むと思っているからだろう。余裕のある心を持てれば、見えてこなかったものも見えてくるのかもしれない。最近はなにをやっていても虚無だ。いままで感じていた虚無とはちょっと違う種類で、精神的には低空飛行に違いはないのだが、「生き甲斐」を無理矢理与えられている感じだ。ステレオタイプな生き方を与えられて、着々とこなす日々が人であると無理矢理思い込んでいるようなイメージ。ああ、僕はいったいどこにいくんだろう。この言葉はどこに漂流するんだろう。
 死にたくないとすら思わないここ最近の自分が不思議だ。もちろん死にたくはないんだけど、そこまで深く思考が及ばない。思考の奥に潜り込む作業がだんだんと苦手になってきている。これは、もしかすると神様の陰謀なのか。年を取ればとるほど深く考えないように人間の脳はプログラムされているのか。ゆるやかに死に迎えるように。そんなことを昔考えていたような気もする。
 ダメだ、だから自分自身に、もっとリスクを背負わなくては。鼓舞するのだ魂を。このままでは、少年のままで終わってしまう。せめて青年にならないと……。あれ、すげーアホなこと言ってる?

2017-05-07

零落/浅野いにお[感想]

 こちらもあわせて
零落/浅野いにお[感想その2・ネタバレ] - 今日もご無事で。




 僕が好きな浅野いにおの漫画ってなんだろうと思い返すと、そもそもはどうしても「ソラニン」なんですけれど、そういえば「Ctrl+T」に収録されている『ひまわり』って漫画面白かったなあと今日思い出しました。なんていうか本当にどうしようもない話なんですけど、“わずかな希望”を垣間読者に見せつけた瞬間にあっさり潰す、というか。よくありがちな手法でありながらも、その過程がものすごくサッパリしていて、オチは物凄くネットリしているはずなのだけれど、どうしても爽やかなんですよね。物語の時期が夏だし。
 1年ぐらい前にうめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下/うめざわしゅん[感想][レビュー][ネタバレ]とゲスの極み乙女。 - 今日もご無事で。を書いたんですけれど、うめざわしゅんの漫画は、わりとダイレクトに心に攻めて来ようとする書き手の意図が見えるんです。一方で、浅野いにおって、メッセージ性とかが強烈にあるんだけれど、それを技巧として俯瞰的に見ている書き手が見えている。だからわりと、読者も物語を客観的に見ていけるという凄みが浅野いにおの漫画にはあると思っていて(でも例えば「ソラニン」は違うけど)、それが『ひまわり』には割りとよく感じられて読んでいて楽しいし、どこか心にさっぱりとしたシコリを残す感じが好き。「おやすみプンプン」なんかは長すぎて、どうしても物語を考えてしまうしね。

Ctrl+T mini 浅野いにお WORKS (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

Ctrl+T mini 浅野いにお WORKS (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 そんな具体性のないグダグダな前置きを書きながら。

 小学館から出ている隔週で発売されている青年誌「ビッグコミックスペリオール」で、3月あたりから浅野いにおの新連載『零落』が始まりました。
ビッグコミックスペリオール | ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス)|小学館
 キャッチコピー?は“ある漫画家の魂の漂流”との通り、とあるそこそこ売れっ子な漫画家の話です。幸いにもアシスタント2人を雇えるほどのヒット先を出し、次回作も期待されつつも、「世間に媚びるような漫画は描きたくない」というプライドを持ちつつ、かといって次の構想も思い付かず、現実もうまくいかずでもがく主人公。結婚し、一緒に住んでいる妻もまた編集者であり、妻は“売れっ子”漫画家の編集を担当している。「せっかくだし参考にしてみたら」と渡された人気漫画を蔑んだ目で見る主人公。「売れる漫画」を書くことと、「書きたい漫画」を書くことが一致しないことを、おそらく主人公も、妻も理解しているのだけれど、「じゃあ、どうしたらいいか」という方法に対する考え方がきっと違う。お互いがお互いを思っているのではなく、それぞれ仕事としての考え方でぶつかり合っているが故に夫婦の溝が深まっていくのが感じられるシーン。とはいえ、妻は“夫婦という形”は続けたいと思っているし、それが主人公にとってはより重荷となって伸し掛かる。次の作品の構想も思いつかないが故に、「すぐ必要になるから」とつなぎとめておいたアシスタントも急遽解放することで「約束と違う。次の話も断っていたのに」とクレームが来る。行き場のなくなった主人公は風俗店へ迷い込み、そこで一人の魅力的な女性と出合う。名前も知らないけれど、彼女に会うために店へ通う日々が続く。

「…読んだ。薄っぺらでくだらない漫画だった。」
「あんなのが売れてることにもっと危機感持てよ。」
「作り手が読者をバカにしだしたらもう終わりだろ。」

「『キミうた』の作家さん……深澤くんの大ファンですごい影響受けてるんだって……」
「…って言おうと思ったんだけど……」

「じゃあ……」
「俺の漫画もくだらないんだろうなぁ…」
(零落 第1話/浅野いにお)

 ビッグコミックスピリッツで連載している『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』とはまた違う、かといっていつもの浅野いにおテイストは確実に表れている。ところで『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』って「Ctrl+T」で構想が書かれてた「デストピア」に似てない?
 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は、女子高生の日常を描いた作品で、侵略者が地球にあらわれた日からどことなく日常に暗い影を落としているという話なんだけれど、だいぶ話が長い。伏線がいたるところに用意されているのだろうなと感じながらも、それこそ漫画としての完成度を非常に優先させていそうで、クオリティがめちゃくちゃ高い。“3.11”を彷彿とさせる侵略者という存在は、読者にもいろんな想像・解釈を委ねられて、浅野いにおというブランドがついている以上、いろんな人がいろんな解釈をして好きなように持ち上げたり、落としたりされる作品なんだろうなという印象。とにかくそれだけネタが散りばめられていて、漫画としての質が高い。

 一方で、『零落』はストーリー重視で、(おそらく)書き手の描きたいことがドバーッと描かれている印象。「おやすみプンプン」より深く潜り込んだ印象があります。下手したら「この主人公、浅野いにお自身?」とか考えられちゃうけれど、それはきっとそう読者に思わせることで作者が楽しむ仕掛けになっているんだろうな、とか思っています。
 より僕らのリアルな場と同期されたような現実感が浮遊していて、実体験とはリンクしないんだけれど、どこか話の内容に違和感を覚えずに読み進められてしまう展開。
「例えば自分だったらこういう行動をとるか?」と言えばNOなシーンばかりなのだけれど、なぜか主人公の行動に苛々したりもしなければ、共感したりもせずに、その物語を“俯瞰させられている自分”がいる。例えば『おやすみプンプン』なんかは個人的にはプンプンの行動に苛々しながらも、“物語と共生する自分”として楽しんでいたのだけれど、『零落』においては“物語を物語として捉える自分”がいる気がする。実際、こういう生き方をしている人って相当ストイックだし、そこに自分を重ねる事ができる人って
めちゃくちゃ限られていると思う。
 やりきれない毎日に、打開する策も見つからず“拠り所”としての“名もない女性”に日々会いに行く主人公。この2人がこれからどんな日常を生み出していくのか、第3話までは物語の自己紹介みたいなものだったけれど、第4話かは果たしてどうなっていくのか。『おやすみプンプン』みたいな荒廃的な方向に行くのか、希望が指してくるのか。客観的に読む分には主人公はひねくれているのではなく、本当に、単純に愛情を求めてながらもがいているようにも感じられるのだよなあ。これ以上廃れるにしても、限界ありそうだしね。なんかほんと、でてくるキャラクターすべてが、バカリズムとか柳原可奈子が演じているような“あるある”の集合体で、それはあえてそうしていて、ここから先の展開も突拍子もない感じではなくスッキリとしたテイストで進んでいくんだろうなあという気がしている。名もない女の「私の名前はあなたが勝手に決めて」みたいな台詞、すごく自分に酔っている気がするし、そこに仄かな魅力を感じる主人公もそんな自分が好きそう。いままでいそうでいなかったキャラクターたち。ところで『世界の終わりと夜明け前』に収録されている『東京』って話が、僕は好きです。

 「…あのっ!!」
 「…僕の漫画っておもしろいですか?」
東京/浅野いにお

 そんでもって僕が『世界の終わりと夜明け前』で一番好きな話は『世界の終わり』です。どうしようもねえ希望が描かれていると思っています。

世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)