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うみべの女の子1巻&2巻[ほんのちょっとネタバレ・感想]

1巻の終わり方で感じた暗鬱な雰囲気が、2巻ではすぅーっと晴れて爽快さを取り戻した。ように感じた。
さすがに、「おやすみプンプン」でどん底を描いて、「うみべの女の子」でもどん底は描かないか。
いつもジャケットのデザインや、帯のコピーが魅力的で、「ソラニン」の次ぐらいには、浅野いにおの中でライトな作品となっているんじゃないかと思う。

思い出は見えない程に滲んで、ずっと奥に染み込んだ。

うみべの女の子 1 (F×COMICS)

うみべの女の子 1 (F×COMICS)

▼登場人物たちの心情を読者の想像に委ねている
モラトリアム期間における男女の淡い青春物語、というのであれば、浅野いにおの作品では、「ソラニン」のほうがその色は強かったように思う。
本作「うみべの女の子」は、ソラニンにあったような、浅野いにおの漫画の特徴のひとつでもあるような“独白”がほぼ、ない。
つまり登場人物の心境を読み手が想像できる幅がほかの作品と比べ広く、また展開も、なぜ主人公がこのような行動をとっているのか?というのを多様に想像させる作品だったように思う。だからこそ、その淡さ、みたいなものは読み手によって違うと思うし、この物語を読んで青春なんて一ミリも感じない人もいれば、つま先から天辺まで感じてしまう人もいるかもしれない。

主人公たちの行動が謎、っていうと違うんだけど、なぜ磯辺は、なぜ小梅は、と言葉では説明できないような感情で動いているような場面がいくつかあった。
ラストシーンの小梅が磯辺を探し、磯辺は喫茶店でコーヒーを飲んでいる場面なんかは、どんな気持ちなのか、想像するのがとても楽しい。
ただ、彼らのほとんどの行動は、青春という期間の中でもがく、といったような広義ではなくて、もっと狭い、自分中心の中で動く、自分だけの世界の為に、自分だけの為に、感情に身を委ねる磯辺と小梅の物語だったように思う。
そういう自己中心的な人物たちが、自己中心的に動く、でも内に籠りがちな中学生たちだし、できることは限られている、そういう狭い範囲で繰り広げられる展開。
じゃあ、そこに思春期のリアリティがあるか、っていうと言葉の上ではある気がするけれど、「うみべの女の子」にはあまり感じられなかったなあ、というのが率直な印象。

▼メッセージ性ではなくて、
おやすみプンプン」や「ソラニン」と圧倒的に違うな、というのは独白の部分もそうだけれど、メッセージ性という点でも大きく違うと思った。
というのも、浅野いにお自身がメッセージとして込めているのか、皮肉として、もしくは世界観として意図的に作り上げているのかどうかは知らないけれど、「おやすみプンプン」や「ソラニン」などの作品には、それぞれの人生観みたいなものが語られる場面が多くあった。
だからこそ、「ソラニン」は自分のことを言われているような、グサッと来る台詞がいくつかあった。
しかし、「うみべの女の子」にはほとんどそれがなく、僕らが、彼ら、彼女らの生活を俯瞰的に見て、その中で、空気を感じる仕上がりになっている。
つまり、磯辺や小梅は完成されたキャラクターになり切っているわけで、僕らがそこに共感するのは難しく、そのお互いの距離感がうまく測れない苦々しい空気を感じる事しかできない。

けれど、その「相手がなにを伝えようとしているか分からない」「相手の心情が描写でしか読めない」ということにおいては、物語にいる彼らも同じことなのだ。
磯辺は、どうして兄が死んでしまったのか、よりもよってなぜ自分の誕生日なのか、それは傍から見ればちょっとした偶然と思えもするのだけれど、磯辺にとっては悪い方向にしか考えられずただただ罪の意識を感じてしまうテーマだった。小梅自身も、どのようにして、磯辺に近づいて行けばよいのか、磯辺とはいったい自分にとってどんな存在なのか、心情を漏らさないふたりの距離感は、読み手も、主人公たちも、描写からしか想像し得ない。

▼磯辺と小梅の心境、立場の変化
物語が意図している部分としてはっきりと言えるのは、物語のはじまりから終わりにかけて磯辺と小梅、お互いがお互いを刺激し合って成長していった、ということ。心境の変化も大きくあっただろう。
ざっくりいえば、物語がはじまった当初、磯辺は弱弱しく、自分の感情を曝け出さないふりをしながら小梅という存在に自分だけの為に甘えていた。それを小梅は、さらりと受け流し、磯辺の存在なんてどうでもいい、ただ堕落した時間を削ぎ落としていった。
しかし、物語の後半では立場は逆になり、小梅が磯辺という存在を必要とするようになる。一方で磯辺は、小梅という存在の必要さをどこかで感じつつも、自分という存在の価値を自分だけの中で決めて、小梅との距離を置くようになっていく。

1巻から2巻にかけてのふたりの心情、成長の変化の具合は物語の肝かもしれない。

たぶん、お互いに表現の手段がなくて、ああいう展開になった、というか浅野いにお自身がそういう描写を前面に出した漫画が描きたかったのかもしれないけれど。。。

▼風をあつめて/はっぴいえんど
漫画と音楽の融合、みたいなものを描きたかったのかな、とも思う。浅野いにおの作品の中では、群を抜いて風景や構成に力の入った漫画だと思った。
だから、この選曲と物語の中でのキーワードに大きなつながりがあるのかな、と考えるといまのところちょっと思いつかない。
「風をあつめて/はっぴいえんど」という楽曲が持つ気怠い空気感と、この物語の中にあるどうしようもなさ、みたいなものが辛うじて繋がるかも、とは思うけど。
でも、もっと大事なのは、手紙を読むであるとか、お互いに感情を暴露し合ったとか、そういう次元とはもっと別の場所で、磯辺と小梅の人生にとって、この「風をあつめて/はっぴいえんど」は記憶に強く焼き付けられた、もう剥がれることのない思い出となったんだろうな、ということ。
思春期の頃に聴いた楽曲、というのは、それぐらいに、その時の景色と同時に一瞬で思い出す強さ、みたいなものがある。真空パック的な。

個人的には、「世界の終わりと夜明け前」に収録されている「アルファアルファ」「世界の終わり」に近い世界観、登場人物たちの息苦しさ、窮屈さ、みたいなものを共通して感じたかもしれない。
というか、「世界の終わり(世界の終わりと夜明け前)」のテーマを大きくした感じだ!

つまるところ、思春期に感じる世界の狭さ(物事を自己で完結してしまうことと、ほんとうに狭いうみべの町での生き方)、その時代における恋愛や青春の苦みを記録する(音楽や、行為)男女の物語なんだけれど、その描き方が、浅野いにお独特であったかな、そこにリアリティはあったかな、フィクションかな、というところ。

苦ければ苦い程、あの鮮烈で脆い思い出は、ふとした瞬間に胸をついて痛々しく蘇る。

うみべの女の子 2 (F×コミックス)

うみべの女の子 2 (F×コミックス)

漫画的、っていうより映像的な作品だったな。