鞏義

すっかり、「漢覇二王城」に気をよくした我々は、その後も、いつもの
ように鄭州郊外のマイナー観光地をうろうろした。
そういう時は、かなり高確率でがっかりさせられるのだが、鞏義という街
はというと・・・結構微妙だ。

 鞏義は、鄭州の西70キロほどの所にある街だ。
鄭州駅前のバスターミナルから直通バスが1時間に3本ぐらいの割合で出て
いる。ガイドブックによると、「杜甫故里」と「北宋皇陵」が有名だ。

 まず、我々が向かったのは、「杜甫故里」。
鞏義のバス駅から2回もバスを乗り継いで、ようやくたどり着いたのだが、
久々の大ハズレ。
うすうす予感はしていたのだが、見るも無残な状態だった。
 もともと「杜甫故里」は、地誌が伝えるところに照らして1962年にヤオ
トン風の杜甫故居と博物館を建設したというだけの所。
現地には、乾隆31年(1766)に建てられた「唐工部杜甫故里」碑を除いて
は、歴史的価値のあるようなものは無い。
おまけに、近年博物館は取り壊されたままになっており、瓦礫の向こうに
杜甫誕生?」と書かれた例のヤオトンの入り口があるだけ。
しかも、門は閉ざされていて中は全く見えない。
もっとも、見られたとしても、見る価値のあるものも無さそうだ。

 あまりの状況にしばらく放心状態だったが、せっかく来たのだから何か
面白いものは無いか・・・と、キョロキョロしていたら、見つかった。
杜甫にまつわる何かの碑が横に建っていて、その碑の基台部分に誰かがチ
ョークで書いた「文化局中酒肉臭、杜甫故里凍死骨」という句。
どうやら、杜甫の有名な詩の一節をもじったもののようだ。
安史の乱の直前、杜甫長安から奉先にいる家族に合いに行く途中、玄宗
皇帝と楊貴妃が贅を尽くしている華清池のある驪山を通りかかる。
一方、途中彼が目にしたものは、餓えと寒さに苦しむ庶民の姿である。
そして、奉先に着いて彼は、我が子が餓えで死んだことを知り、怒りと悲
しみに耐えず、天国と地獄のような封建社会の両極端を
「朱門酒肉臭、路有凍死骨」と表したのである。

杜甫故里で、杜甫の詩をもじって、管轄の機関である文物局を皮肉るなん
て、なんて粋な落書きだろう。この落書きが文物局の腐敗事実を示してい
るかどうかは分からないが、役人による公費使い込みは、中国では茶飯事
である。想像するに、ここを訪れた文学青年が、あまりに無残な杜甫故里
の現状を嘆いて書き付けたのだろう。妙に共感を覚えたりもする。
最近発覚した中国最大の電力会社で起きた幹部の使い込み事件ほどではな
いにしても、あるいはここでも何か不正が行われたのかもしれない。
あくまで、想像の域を出ないが・・・。

 この洒落た一句のみが、遠路遥々やって来た我々にとって、ここで唯一
の"面白かったもの"だった。

 「北宋皇陵」は、いくつかの陵墓から構成されていて「七帝八陵」と呼
ばれる。鞏義の町の中心部に宋太祖趙匡胤の陵墓「永昌陵」があり、あと
の陵墓は町の周りに散在している。
 
情報の少ない我々は、「どの陵墓を見るのがいい?」と、バスターミナル
でおねえさんに聞いてみた。
町の中にあるのはつまらないだろうから、バスで少し郊外に出たところに
ある「永定陵」にすれば・・・と、薦められるままに「永定陵」のみを見学
した。
なるほど、他に観光客もなく鄙びていて、好感が持てる。
石像の保存状態もかなりよい。
それに、修復し尽くしたようなところがなく、緑の木々の中にひっそりと
幾年もこのまま存在していたのだろうと、思わせる感じが好印象だった。
杜甫故里」と違って、こちらは一見の価値ありだ。

 のんびりと陵内を見て回っていると、突然、コンバインが陵墓の中を通
り過ぎていった。
一瞬目を疑ったが、よくよく見ると陵墓の周りは一面小麦畑、さらに、先
ほどから聞こえていた機械音は、コンバインが小麦を刈り取っている音だ
ったということに気付いた。収穫期のこの時期、畑から畑への移動に陵墓
の敷地内を通ったとしても、驚くに値する事ではないのだろう。
墓道の石像たちですら、平然とコンバインが通り過ぎるのを見守っている
ような気がした。

                        (つづく)
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