Fate/Zeroで見て思ったことのメモ

Fate/Zeroを全話視聴して思った事を書こうと思ったけど、ひとつのエントリにするには散漫すぎるモノになってしまったので、メモとして残すことに。

まぁ私が今後、他の作品を見る際に何かの役には立つだろう、という程度でまとめてみたり。

1.ヨルムンガンドと比較して、Fate/Zeroは何故武器の存在は手段でしか無かったのか?
2.Fate/Zeroにおける言峰綺礼という存在


1.ヨルムンガンドと比較して、Fate/Zeroは何故武器の存在は手段でしか無かったのか?

過去のヨルムンガンド1話〜4話見て書いた感想から引用すると

Fate/Zeroにおいては、まず武器を扱う人達を中心にして、武器は人を殺し平和を勝ち取る為の「手段」として描かれてる感じがします。一方ヨルムンガンドでは、武器自体に「人を変貌させる怖さ」を付加しており、普通の女子高生だったチナツを殺戮を繰り返すような殺し屋に豹変させるような「人を変貌させる怖さ」を描いています。


ヨルムンガンドにおける武器の怖さと、ヨナから見たココという存在の不思議
http://d.hatena.ne.jp/str017/20120707/p1

またこのエントリで、武器についての怖い側面についてFate/Zeroが「あえて踏み込まなかった」みたいな事を書いたんですが、その理由はヨルムンガンドがある種の人対武器であるのに対し、Fate/Zeroは人対人と対立構造が違います。つまり切嗣からみた武器は、平和を勝ち取る為の「手段」でしかありません。ヨルムンガンドFate/Zeroも一件描いているモノは似たような印象を受けますが、実は全く違うものを描いているのです。


2.Fate/Zeroにおける言峰綺礼という存在

個人的には、Fate/Zeroまどかマギカより優れてると断定していいと思っているが、その理由のひとつとして「邪悪な存在もまた主人公として描かれている」ことだったりする。

そういえば、ブラスレイターも自己犠牲のケが強かった気がしなくも無い事をふと思い出した。しかしブラスレは、それ相応に相対する世界の悪意みたいなのが描かれていたから、それに立ち向かう為の自己犠牲ならまだ納得は行っていたんだと思う。しかしまどかマギカの場合は、世界の悪意がQBのみで、あとは自己犠牲のみで完結してしまってるのがマズイ。

まあ、だから、結局のところ、自己完結の自己犠牲だから、主観的にみればこそ面白い物語ではあるが、客観的にみれば、自 己 犠 牲 と か 激 し く ど う で も い い 彼女らに感情移入できなければアウト、ホントそれだけ。


まどマギを全話見た上での感想
http://d.hatena.ne.jp/str017/20110426/p1

ホントなら真っ先に切嗣やヴェイパーを主人公として見られることが多いとは思う(便宜上ヒロイン論もこれに加味してください)のだけど、綺礼や龍之介も主人公として見てもよいのがFate/Zeroという作品の良さのひとつなのだと思う。過去にツイッターかどこかで「Fate/Zeroにおける言峰綺礼的人間は許せるのか? という問題」みたいな事を言った記憶があるけど、これは神を信じている言峰綺礼Fate/Zeroでのあの惨状をみて愉悦を覚えているのにも関わらず、まだ神父であり続けることが出来るし、むしろあの世界(Fate/Zero)では肯定すらされている感じがしている。この事に関してFate/Zeroという作品自体が言峰綺礼を通して「他者の苦痛に愉悦を感じる悪人」を許せるか否かという問題も孕んでいるような気がしなくもない。

自分自身を否定的にとらえていたものが、誰かの助言や助けをへて、その世界へとコミットしていくという光景は、ある種「存在してはいけない人間など、居ない」というテーマもあるし、また善悪の違いはあれどセイクリッドセブンのアルマくんも同じような体験をしていて、似たようなプロセスで今までとは違うモノになった同士という共通項は持ってるのかもしれない。