集合的無意識とか時代の空気とか

これは僕が直感的に思ってるだけのことなんだけど「俺ってこんなもの(お金、地位、学歴でもなんでも)持ってるんだぜすごいでしょー、うらやましいでしょう。」的な優越感をひけらかす行為はクールではないんだよ、というのが多くのひとに共有される空気になってきたような気がする。たぶんバブルのころがピークで、5年くらい前まではネットでもちらほらみかけることができたけど、最近はとんとみない。僕が好きじゃないからみないようにしているだけなのかもしれないけど、優越感ゲームの総量がここ数年で世の中から激減しているのではないかというのが僕の肌感覚だ。時代の変遷といってしまえばそれまでなんだけど、この変化にどういう力学が働いているのかについて空想し出すと止まらなくなる。ユングはこういうものを集合的無意識という形で処理したけどもうちょっと新しい知見を加えて解釈しなおすことできないものだろうかと思う。そのためには社会学とか脳科学とか量子力学とかを統合する必要がありそうだから、僕の生きている間にその糸口でもつかめればまあいいくらいかな。

ルサンチマンについて

僕自身はニーチェイストかどうかよくわからない。ろくに書かれた本を読んだわけでもないし。でもルサンチマンのことはよく考える。今だれだれのこういう言動や、だれだれの生き様に対して僕のこころはこういう反応を示したけど、そこにルサンチマンはなかったか、みたいにしてよく反省する。で、萬さんの意見ではニーチェはそういう使い方しかできないと。
ルサンチマンをセンサーし続ける作業ってのは、gettig out of boxの話とかいわゆる自己啓発のたぐいではわりと見かける手法なのではなかろうか。河合隼男先生の(ユングの)コンプレックスの概念というのは、ルサンチマンが発動するシステム全部をひとつの人格としてとらえたものにほかならないと思うし、上座部仏教で使われるサティという手法はルサンチマン以外のすべての自分の感覚までセンサーするものだと思うので、これが最強なのかもしれない。
まあ、僕の周りにいる多くのフツーのひとたちはこんなしちめんどくさいことしないで生きていると思うんだけど、ルサンチマンを原動力として周りに当たり散らす人っているよね。ま、でもそうやって、ルサンチマンへの気づきを他人に要求しだしたとたんに非常に醜悪になるというのが、萬さんの結論でもあったよね?

幻想について

友達のMくんがすべての恋愛は幻想であるっていうエントリを上げていたんだけど、恋愛こそが最後までしがみつくべき幻想であるっていう僕の信条に近いなって思った。社会的評価、お金、国家なんかは幻想だっ!って自信をもっていえるけど、女の子を幻想だといってしまうと僕の場合自分を含めて何ものこらないような気がする。それってかなり怖いことだったりするから、そこには踏み込まないようにしているという部分はあるかもしれない。それにしてもMくんはロギングせずにはいられないという「幻想」にはとらわれているみたいだけれども(笑、それ以外は、僕の近くにいるひとのなかではもっとも多くの幻想から自由なひとだなあとつくづく思う。彼のそういうエントリを読むとほんのすこしだけ、自分の立ち位置をリセットすることができるような気がする。女の子以外の幻想は、必要不可欠ではないというのが僕の今のところの結論です。

ツイッター

日記ってのは書かなきゃって思っちゃうとだめなのな。いろいろネタはあるんだけれども、浮かんでは消えているな。かといって、ネタを思いついたときに書き留めようとすると、それはそれにとらわれちゃうことになって、そういうのはあんま僕むきじゃないんだよね。そういう意味でツイッターはあんまり僕にとってのめり込めないツールなのかもなと思ったのです。
ツイッターをヘヴィに使っているひとたちって、どうやら四六時中テキストをはき出しているタイプの人たちのようじゃん?合っている、合っていないでいうなら、僕にはミクシくらいのぬるいコミュニケーションが向いているんだろうなと思うな。

新学期

もう明日から4月1日なんですね。はやいなあ。
この時期ってあんまり得意じゃなかったなあ。
クラス替えとかあって。
期待感もあるんだけど、不安のほうが大きかったなあ。
いまでももちろん職場がかわるときなんかは緊張するけど、クラス替えのときのショックにくらべたら色あせたものだよな。
もう一度経験したいような、したくないような、そんな感じ。

うへえ

職場の事務での交通費の精算方法でもめてるんだけど、書類に不備があって何度もやり直しをくらって、それだけで一日がすぎていく。一円たりとも間違えずに電車賃を計算するなんてのはほんとナンセンス。人間はミスをする生き物なんだから、ミスをする前提のシステムをくむべきだと思うのはぼくだけかな。建設的なシステム構築のためになら協力をする用意があるのだけれども。

桜がずいぶん咲くようになった。海外の僕のいたところには結構桜の木があったんだけど、日本の桜はぜんぜんちがうね。断然きれいだ。
枝っぷりに趣があるし、一カ所にちょっとずつ違う品種の木を植えているのか、ぱっと見てヘテロな印象を受ける。
海外にはたぶんソメイヨシノしかなかったんだな。
ソメイヨシノはあるとき、「これは花の数が異常に多い、奇形なんだ」と気づいてからは、きれいと思えなくなってしまった。
ごつごつとした幹で、風格のある日本の桜をみていると、確かに下に死体が埋まっていてもおかしくないよな、と思った。