Hatena::ブログ(Diary)

迷馬の隠れ家…はてな館w

2017-07-19

排斥してるのだーれだ?

SNS上で、大阪万博誘致に消極的、あるいは反対の意見を述べてるのは、全部発県民だという、ある意味明後日な意見が散見されるが、その意見をもってカウンターパンチを入れると、“だから大阪人は嫌われるんだよw”ってことになる。もっと言えば、そういう“情報バイアス”で相手を見てる以上、第三者から見た時、喧嘩両成敗的な感覚で批判されることになる。なぜなら、“排斥反対”を口で訴えておきながら、自らの意思で他者を排斥してる訳だから、その時点で“話にならない”訳である。

批判の対象となっている著名人の中には、局アナも散見される訳だが、彼等だって、本当に“自分の意思”で公の場で喋ってるとは限らない…なぜなら、出身が関西以外の地域だったとしても、大学時代からの積算滞在年数を踏まえると、人生の半分以上…人によっては幼少期よりもずっと長く、関西(というより大阪)で生活してる現実がある。当然、ベテランアナともなれば、30年以上“故郷”に帰らずに留まって、仕事に従事する人だって出てくる。特に70歳以上の連中ともなれば、人生の大方は関西での生活であり、最早“余所者”として排斥するにも、半世紀以上もの“経験”が、若年層の“地元民”よりも深い分邪険に扱えない。それに似合うだけの自助努力をやって来てるからこその“信頼関係”が構築されているからこその話だ。もちろん、それゆえの“歪み”を抱え込んでいるのも確かで、腹割って本音で話し合おうとしても、どっかではぐらかされる事になりかねん。

なぜなら、局アナってのは、どこまでいっても“放送局の顔”であり、その身は常に“放送局の総意”ってのが付き纏う訳であり、そこんトコを無視して好き勝手に喋れる立場ではない。言い方を変えれば、マイクの前の“操り人形”であり、常に上層部の意向を代弁することが義務付けられた存在である以上、気持ちの上では地域住民の意見や一大プロジェクトの話に対して、個人的には“賛成”の立場でも、カメラ越しには“反対”と表明せざる得ない事情がある…以前にも解説したが、特定の組織に属する以上、そこで世話になってる以上は、自分の意思までも“曲げる”ことでしか生き残れない訳であり、もしそれを“裏切る”のであれば、それは組織からの離脱を余儀なくやらなければならない事を指す。(それで、途方も無い冒険をしたアナがいる事を、オイラは知ってるけどな…w)タレントや作家といった、ある意味ノマドワーカーな人達と違い、放送局という“会社”に勤めてるサラリーマンである以上、自分の意思で本音を語れない、自分の意見を封殺せねばならない立場の人間である。だから、彼等が“他県出身者だから”という理由だけで叩くのは失礼というよりも、まんまとメディアの策略に乘っ掛かって、余計に“これだから〇〇は…(ry”という、自分に対するあらぬ批判を助長させる行為でしかない。

メディアに出てる多くの著名人もまた然りで、放送局や新聞社、出版社の意向に基づいた“意見”を言い続ける限りは、仕事に困ることがない反面、反発する意見や“これはおかしい”という概念を表明した途端、今までの契約が“全キャンセル”になってもおかしくないし、それで職を失うリスクもある。だから、批判を言う人達自身も、結局は“自分の生活のため”という理由で懐柔されてるトコがあり、そこを抜け出せないのである。当然だがそれは、SNSでの発言でも同じで、どこで誰が見てるかわからないから“真実”を語れないのであり、うっかりそれを喋ると、それが因で仕事を“干される”事になる。だからメディア上では嘘を付き続けなければいけないのである…当人の“本心”がそこにない以上、発言そのものを鵜呑みにして信じるファンもかわいそうだが、嘘を付かざる得ない人々もまた、それゆえの“被害者”でもある。

ここまで解説すれば、もうお解りかと思うが、嘘を付き続けてまでも“生活維持のため”に喋り続けなければいけないのが局アナであり、“メディア御用達”の著名人である。そんな彼等の“本音”を知りたいと思うなら、出自を理由に排斥してはいけない。当然だが、忌憚なき発言こそが“言論の自由”の根本であり、そこでの“差別発言”や“侮蔑行為”は、甘んじて“受け入れる”度量がなければ話にならない。どういう“理由”で批判してるか、あるいは賛同してるか…その“本質”を見抜くには、“どうでもいいこと”に囚われない事に尽きる。その“どうでもいいこと”とは、性別や年齢、社会的地位や学歴…その他一切の“余計な情報”である。どんな経歴の持ち主であっても、それが目の前の問題と“関係ない”時点で無視すべき話であり、本当に“関係する話”なのであれば、どういう繋がりでそうなるかを考えるべきである。ま、釈尊の教えの中にある“毒矢の例え”で言えば、自分の身に刺さった矢を抜いて手当を受けるのが先なのに、余計な事を考え過ぎて全身に毒が回って助からない…なんてのは、自分自身でもごめんだよw

2017-07-17

ディズニーが“守銭奴”な理由、サンリオが“フリーダム”な理由…

タイトルを見て、ギョッとした人…解説をするまでわからんかもしれませんが、実はこれ、著作権に関する対応の仕方です。要するに、著作権管理を“誰”がやるのかについて考えた場合、なんで日本のアニメーターや様々なクリエーターが貧困に喘ぐのかが、よく解る話なんですよw ま、手塚治虫を今更disっても仕方ないですが、彼がやらかしたことが、実は今のアニメ業界そのものの“ブラック体質”を生み出してる元凶とも言える訳です。ただ…彼自身を責めたトコで、日本のサブカル文化がここまでの発展を遂げた“もう一つの理由”を否定しかねない話になる訳ですが。

まず、アメリカでのコミックやアニメの制作に関しての著作権管理について端的に言えば、組織体として管理してるトコが殆どで、個人で所有して管理するってことがない。これは、ウォルト=ディズニーの著作権管理に基づいた概念に、同業者が賛同したためであり、以来、アメリカのコミックやアニメは、制作会社自身が包括で管理してるのである。てのは、個別管理だと、まず喰って行けないクリエーターが大量に出る事と、個別だからこそ制作会社に無断で(しかもタダ同然で)他業種の広告などに使われる可能性があるからであり、そういった著作使用料を円滑に、かつ均等に参加したクリエーターへ分配することができる訳である。ぶっちゃけ話をすれば、要は“就労者の生活保護”のために、キャラクター使用料等が高めに設定されているのであり、そのライセンス料で得た収益は、ほぼ制作会社に所属するクリエーター全員に分配される訳である。したがって、アニメ制作スタジオを見ても、個々に応じた配置になってたり、仕事場なのに家庭用ゲーム機やチェス等のボードが置いてあったりする訳である。逆を言えば、制作会社に所属するクリエーターは、日本でいうトコの同人活動が禁止されていて、自分が描きたいキャラ同士の物語を勝手に作ることすらできないのである。だから、ディズニーキャラクターを使った同人誌の発行や、私作アニメをwebサイトで公開するなどといった行為は、書作権侵害としてディズニースタジオから訴えられる訳であり、そのことがある意味原因で、キャラデザの大幅変更をやらざる得なかったトコがある。(この件に関しては、後日、ブロマガの方で解説しますw)

一方、日本の場合…著作権は“作者個人のモノ”という概念があり、その管理を出版社や販売業者等が代理人として仲介する訳である。コレが実は“クセ者”でして、多くの場合は、この“仲介業者”によって収益の殆どをピンハネされてる訳である。日本の音楽シーンでよく問題になる“JASRAC vs ユーチューバー”の話も、実はそういうトコがある。てのも、JASRACがピンハネしてる著作権料は、その殆どが“使途不明”な訳で、本来であれば作詞家や作曲家、歌手にキチンと支払うべき代物なのに、なぜか“事務手数料”が篦棒に差し引かれる訳である。もちろん、その理由として著作権の包括管理が挙げられているのだが、放送局が番組内で使用する件に関して、かなり値引きをやってるトコがある…つまり、その“差額”を徴収してると考えていい。ま、その背景には、終戦後に民放局が雨後の筍の如く誕生したこともあり、また、NHKだけ“無徴収”って訳にもいかないし、複雑な事情があるのは認めるトコだが、昨今収入が目減りしたことを理由に、音楽教室や企業系ブラバンに“著作権料払えや”な話は、それこそ大阪で上方芸能保護を訴えた市民団体に対して、橋下前大阪市長の“営業努力せんヤツが悪い”と一蹴した話と同じである。

話をコミックやアニメの方に戻すと、この“ええ加減な管理”が仇となったのが虫プロ倒産という話になる訳で、それを逆手にとって業績を拡大したのがサンリオの戦略(別名:ハローキティは仕事を選ばないw)である。簡単に“虫プロ”というアニメ制作会社の話をすると、現在でいうトコの“手塚プロダクション”の前身…というか、手塚作品のアニメ部門を取り扱っていた個人事務所で、コミックとして連載されていた作品以外にも、オリジナルアニメも手がけていた。が、その収益の殆どを手塚作品の著作権…しかもコミックでの収益に頼ってたトコがあり、手塚氏本人が“子供達のため”という一言でアニメの制作費を(人件費無視して)格安で放送業界やスポンサー企業に提供してたことが仇となり、債務超過に陥ったのである。この傾向、実は今もアニメ業界では頻発している話で、未だに放送業界、あるいはスポンサーとなってる企業が、アニメ制作に関して“低評価”してる背景にある訳で、そういった意味では、手塚氏がやっちまったことは、罪が深いのである。

しかし…考え方を変えれば、“クリエーターを名乗るなら、自前で仕事取ってこい”というスタンスだと、これほど有難い話はない。なぜなら、同人活動に関する規制が無い分、様々な模写やパロディが制作される訳であり、それを通じて“オリジナル”となる作品も評価されるようになれば、相乗効果で作品が世に知れ渡りやすくなる訳であり、ひいては原作者、そして同人作家自身双方が、それぞれの立場で仕事を取ってこれる訳である。だから、ラノベを原作としたアニメが制作されたり、そのコミカライズ版が出版されたりする訳である。それを実写化したり演劇用にアレンジしたりする訳だから、いかに多種多様な作品が、しかも欧米各国からしたら“信じられない”格安価格で提供されているから、“日本のサブカル怖るべし”…ってなる訳である。

昨今でこそ“製作委員会”形式でのアニメ制作が増えてるが、実はコレも、こういう形式にして著作権による収益を、分配するために作られた枠組みなんだけど、昔ならコレを、映画配給会社や放送局が、アニメ制作会社や声優の所属事務所の意見を無視してダンピングしてた訳であり、グッズ販売に関しても“アニメ=子供向け”で展開してたんで、視聴率が良くてもスポンサー企業の売り上げが悪いと“放送打ち切り”なんてのは日常茶飯事だった訳である。そこんトコが一変するのがサンライズ(昔は日本サンライズ)制作のロボットアニメなのであり、その中でも“銀河漂流バイファム”は、アニメファンから高評価されたのに、スポンサーからは滅茶苦茶嫌われた作品として酷評されたのである。(そこいらの経緯はwikiとかで調べてくれw)つまり、グッズ販売も“スポンサーの意向”が優先だった訳で、だから“聖闘士星矢”のグッズに関しても、十二宮編までのデザインが、原作のコミックと全然違ってたのは、フィギュア自体も“子供向け”という意向があったからである。(流石に時代の変化に則すように、アニメ版オリジナルのアスガルド編以降は、原作に近いモノに変更になるけど…)

では、なんでサンリオキャラクター…特にハローキティは“仕事を選ばない”のか?既に答えが出ているが、その“原作者”のクリエーター自身が、ある意味“自前”で管理してるからである。言い方を変えれば、サンリオはあくまでキャラクター斡旋の“窓口”であり、各々のキャラクターグッズの販売自体、キャラクターを制作したクリエーターに支払ってるトコがある。故に、サンリオで販売するグッズ以外での“キャラクター使用料”は、企業としてのサンリオと、個々のクリエーターで“折半”してると考えていい。だから、作品点数が多いクリエーターは、サンリオを介して他業種への売り込みをかける訳であり、“サンリオブランド”だからこそ、マイナーな作品でもスポンサーとなる企業が気に入れば、それだけで収益を得られる訳である。逆を言えば、ガチガチにサンリオが全てのキャラクターの著作権を管理し過ぎると、収益を上げるどころか使い勝手の悪さから、どこも採用しなくなる。そうなると、せっかくデザイン的に優れた作品があったとしても、敬遠された挙句、原作者のクリエーターが“喰えない”状況に陥る…そこを回避するためには、クリエーター自身が“仕事を取ってくる”方向へ舵を切る必要がある。だからこその“キャラ総選挙”とかのイベントが開催されるのであり、そこで目に止まった企業や団体がキャラクターの使用許諾を申請すれば、次の収益につながる訳である。その結果、世の中に、ありとあらゆる“キティグッズ”が氾濫する訳であるw

だからこそ、著作権管理の概念が、日米で全然違うからこその摩擦が生じる訳であり、その“正体”を見破ると、日本のクリエーターが“なかなか育たない”理由と、アメリカのクリエーターが“面白味がない”理由が明確になる…企業で包括管理すれば、確かに生活は安定するが、個々のレベルが単一化すれば、つまらないコピペばかりで発展が見込めない。どっちが“正しい”のではなく、要は“商いとしての活動”に対して、どんだけの対価を“どこに求める”かの差である。

2017-07-10

支持率落ちた?いいえ、これで“普通”です。

そもそも、メディアが必死に都議選を全国に報じてるモンだから、多くの視聴者が“勘違い”してる訳であり一過的、あるいは今後の状況を考えれば、安倍政権に対する支持率が下がるのは、当然の話です。しかし、だからと言って性急な“政権交代”を声高に叫んだり、一党独裁がいいという主張は、正直“アホかお前らw”としか言いようがない。敢えていうが、民主主義ってのは、どこまで行っても“自分の意志”によって国家、あるいは地域の政策を決定することであり、そこを無視してギャーギャー騒ぐのは、愚の骨頂…というより、あまりに“民主主義”という体制に対して鈍化し過ぎたとしか言いようがない。要は、“民主主義”という態勢が、あまりにも“当たり前”な風景になってるからこそ、その本意やそこに至るまでの苦労などがわからず、そして、有り難みすら忘れているからこそ、社会全体が堕落して、“他人の成功例”を羨む様になる訳です。忘れてはいけないが、真の“民主主義”ってのは、どこまでも“民衆主権”であり、その責任も民衆全員が、ある意味“連帯責任”として負うのが基本です。だからこそ、様々な“自由”が許されるのであり、そこんトコをすっ飛ばして、独裁がいいだの、王政復古だのと言ってる時点で、社会そのものが未熟な割に腐敗してるという、なんとも変なパラドックスにハマるのです。

さっきも唱えた通り、東京都議選は、どこまで言っても“東京都民”だけの話であり、その結果で国政まで云々と言ってる人ほど、既存の政治家の“本質”を見抜けていない、真の意味での“情報弱者”です。特に、都民ファーストの会という政治団体は、どこまで行っても“政治不安の受け皿”でしかなく、自公政権に反発する姿勢を構えていても、既存野党に“期待できない”からこその、“憂さの捌け口”になってるだけです。もっと言えば、政権与党に与したくないが、期待して自分の意思を預けられる野党がいないからこそ、与党に従わざる得ない、あるいは選挙そのものをボイコットするという行動しか選択肢がない訳であり、そこに“助け舟”らしきモノがあれば、誰だってそこに流れます…その“中身”がトンデモ集団であったとしても、一過的に自分達の“意見”を反映させてくれる団体だと思うからこそ、目がそっちに行く訳です。しかし、おおさか維新の会(維新)と都民ファーストの会(都ファ)とでは、完全に“雲泥の差”があります。それは、きちんと“政治家としての仕事”をやっているかどうかです。

維新の場合、その結党に至る経緯は、既存政党に対する不信感を打破することと、地方自治における官僚や職員の怠慢さを解消する意図があっての話であり、その“二大課題”に対して率直な意見を述べ合う場として結党した訳であり、その底辺には中央官庁の“東京集約”に対する懸念と、その“引き金”となった阪神大震災以降の“自治体としての独自性”を、財政難や人員不足を理由に放棄してきた事への“静かな怒り”ってのがあるのです。これに対し都ファの場合、メインになるのは、人口が集中する23区のみであり、僻地の市町村に関しては、どうしても他の道府県同様に“後回し”な状況になりがちです。つまり、特別区(23区)と他の市町村とでは、かなりの“温度差”があり、さりとて実情をいえば、何をやるにしても特別区が“最優先”なのです。首都だから?いいえ、“首都”を名乗るのであれば、明治政府が行った、行政区としての“東京市”を維持すべきだったのを、ある意味“マンドクセ”となって解除したモンだからおかしくなるのであり、故に、東京都として徴収された多くの税金は、ほぼ23区の整備費用に集中してつぎ込んでいるという状況が根底にあります。逆を言えばそれは、23区内で落とした税金は、本来であれば、伊豆諸島や小笠原諸島、檜原村などといった東京“都内”の他の自治体にも分配されるべきモノであって、それが“できていない”のが現状です。だから、同じ“東京都”であっても、財政難な市町村と様々な助成金(横田基地の負担とか、JRAの都市整備費用負担とか…)が受けられるトコがあり、その分をほとんど中心地だけで浪費してるという感覚が、有権者自身麻痺してる訳です。そして何より、情報量が多過ぎるからこそ、自分達でどうにかしないといけない問題なのに、どうしても“自分がいない”と錯覚する訳です。ヒト、モノ、情報が過多に集まってるが故の“弊害”です。

この“感覚のズレ”こそが、在京メディアの傲慢さに拍車をかけている訳であり、“全国ネット=東京23区の話”という図式をも作ってしまってる訳であり、それを系列局の事情も無視して垂れ流してるから、地方のエンドユーザー…特に若年層が“オラ東京さ行くだ”状態になる訳で、他の部分で勝負するための知恵や工夫を作り上げる時間や財力までも奪ったのが、今日の日本の“経済疲弊”なのです。特に労働条件が半世紀以上前の劣悪状態を是とする風潮は、誰が望んだのでしょう?いうまでもなく、官僚や職員の情報を鵜呑みにし過ぎる政治家であり、それを選んだ有権者…即ち民衆全員の“責任”なのです。そして何より、民間企業は官庁や自治体の財政に敏感であり、故に情報として年収やボーナスの支給額を参考に、従業員に対して不当なダンピングをやる訳であり、それは巡り巡って“消費者”の財布に影響する訳です。そう、消費者とは、何も富裕層のみではなく、貧困層も含めた民衆全員の事です。ここに気付いてない政治家や閣僚が多い事…経済を本当に活性化させるのは、日本の場合は、所謂“駆け込み需要”系の刺激でないと、なかなか緩まない上に、貯蓄に意味を見出す人の方が多いため、災害時の備えという概念での経済活動に関しても疎い(というより、そういう部分もカットして現状維持を望みがち)トコがあるから回らないのです。言ってみれば“経済の仕組み”そのものが、日本人の金銭感覚的に“なってない”のが一因にあるのです。本当に災害時にお金が必要なのであれば、本来であれば防災、あるいは減災のためにインフラ整備と地域の再開発をやっていれば、別の被害を最小限で抑えられるのにやってないし、食糧備蓄にしても、消費期限ギリギリまで交換せずに放置するのは、非常時に余計なゴミを増やすだけです。だからこそのローリングストック(常に先入先出で飲料や食料を消費しもって備蓄する方法)なのであり、常に非常持ち出し袋の内容を更新する事で、本当の意味での無駄を省くことができるのです。コレと同じで、常に流動的に経済が回ってるトコでは、余分な“死蔵”がない分身軽であり、有事が起きても機敏な対応ができるのです。

当然ですが、それは政治においても同じで、様々な状況に応じた対策を施すことと同時に、時代に合わない政策や法案を見直し、適度に廃止、あるいは改正することで、更に国力の活性化ができるのです。しかし…多くの人々があまりにも“現状維持”という甘ったれた概念でやってきたことが、ここにきて様々な弊害を起こしてる訳です。少子高齢化による若年層、あるいは子育て世代に経済的負担増を強いているのは、いうまでもなく半世紀前に学生運動をやらかした連中であり、その世代が挙って(受給資格が曖昧なままで)年金を受け取ってる訳ですから、そりゃ、過労死で更に人口が減る訳です。厳しい言い方するかもしれませんが、長寿になんの価値も見出せない世代になってしまってるなら、自分よりも若い世代に対して犠牲になるべきは、自分自身じゃないのかということを、問い質してみてくださいな。わかるハズですよ…相手に対して、全部“あなたのため”と言ってるその概念、本当は相手を言いなりにすることで、他人の人生をブチ壊してまで得たかった“自分の幸福のため”じゃないっすか?だとしたらそれは、必ず自分自身の身に、何らかのカタチで他人から人生を奪われる原因を作ってるようなモノですから。

2017-06-29

断られた?当然でしょw

なにやら、離島発着のLCCとアスリート系車椅子身障者がトラブッた話でSNSが騒然となっているが、仮に断られても仕方ない事をやってる以上は、身障者であっても件の輩を庇ってはいけない…なぜなら、大概の航空会社は身障者相手に“事前に連絡しろ”と散々告知をやってる訳であり、それを“守らない”方が悪いのであり、ひいては、全ての身障者に対して不快な思いをさせることでしかない。もっといえば、航空機や船舶ってのは、安全な航行を行うために、必ず当日利用する顧客データを基に、搭載手順ってのを決めている訳であり、それは航行時のバランスを考慮してるモノであり、もしコレを無視すれば、航行中にバランスを崩して転覆、あるいは墜落という最悪な事態になりかねないからである。そこんトコに関しては、より専門家的意見に任せるとして、なんで“断られる”のかってついての話をやらせてもらう。

陸路の交通機関…特に列車の場合、きちんと線路や架線の保守ができて、かつ、信号系統で不具合がないのであれば、よほどでない限り重篤な事故になることはあり得ないし、新幹線ですら、走行中に地震が発生すると緊急停車して、安全が確保されるまでは運休する訳である。また、路線バスにしろ、タクシーにしろ、安全に運行ができるのは、クルマが走行可能な道路があってこその話であり、四駆でもない軽トラが走れるからといって、未舗装の広域農道でもないようなトコを走ればどうなるか、クルマを運転してるなら、想像ができるかと思う。(そもそも、未舗装な畦道走るクルマは、地元の農家ぐらいであって、無理矢理走って脱輪したり、クルマごと田畑に転落したら、損害賠償が…ry)

その“安全”が保持できないと判断された場合、交通機関各社局は、運行の即時停止や見合わせをするのは当然の話であり、それは利用客の“命の保証”でもある。そのための“運行料金”であり高速道路の“通行料”でもある。つまり、一定の“負担”を利用者から徴収することは、それを引き換えに様々なサービスを施すためのモノであり、その中には安全確保のための保安料も含まれる訳である。だから、運行不能になれば、その分のキャンセル料は各交通機関の方で負担したり、振替便への手続きをやってもらえる訳である。また、JRグループの場合、予定時刻より2時間以上遅れた場合は、目的地までの料金、または出発駅へ引き返す料金は、全て無料扱いになる。なぜなら、その分の負担金を、予め利用者から徴収してるからこそできることであり、有事の際の輸送が想定されているからこその話である。振替輸送ってのも、そもそもは利用者が負担すべき料金を、当該する鉄道会社やバス会社が負担することで利用者の利便性を図ってる訳であって、本当の意味で“無料”という訳ではない。だから、延着証明や振替証明を改札やバス停などで配布する訳であり、それを持っている定期利用者(通勤や通学で公共交通機関を利用する人々)は、振替先の鉄道会社の路線、あるいはバスを利用することができるのである。また、これはオイラの経験上の話だが、長期間の不通区間を代替路線で往復する場合、きちんと申請すれば、会社から支給される交通費も、それを見越した額で受け取ることができる…事情が事情であることを会社も考慮して、遅刻しても代替輸送路線の遅延であれば、お咎めナシになる。

話を航空機や船舶の方に戻そう…陸路と違い、いくら横揺れ防止のスタビライザーを装備してたり、コンピュータ制御で航行できるからといっても、前後左右のバランスを考えてハンドリング(積載作業)をやらないと、安定性が維持できないのが泣き所なのが船舶…特にカーフェリーには付きまとう訳であり、さらに天候…特に暴風域を航行する路線だと、マジで転覆しかねない。まして、船舶を改装するにあたっても、そういった安全面を考慮したバランスを無視したら、韓国のセウォル号事故よろしくなことになりかねない。当然だが、地中海やインドネシア近海を航行する旅客船の転覆事故の大半は、積載オーバーからの転覆であり、座礁するのも船体が重たいがために、通常(定員、定量を守っていた)ならギリギリで通過できるトコでも、船底が海底の岩礁帯とぶつかる訳である。また、洞爺丸台風による青函連絡船の大量沈没事故も、船の構造上、貨車を積み込んで運行する船舶だったからこそ排水機構が脆弱で、ゆえに機関庫(エンジンルーム)まで水が浸水し、航行不能となった上でバランスを崩し、多くの犠牲者が出た訳である。(多くのカーフェリーが、前後に車両搭載口を設けてあるのは、排水機構の維持のため。)近年の日本でのフェリー事故で言えば、紀伊半島沖での東京沖縄航路の貨客線座礁事故だが、これも、実は貨物室(てか、車両格納庫)内で、きちんと係留してないといけなかった大型貨物車(トレーラー)が搭載時の手筈ミスで係留できてなかったことが原因で、波に煽られた船内で車体が勝手に動き回り、その結果、船体のバランスを崩したために座礁した訳である。だから、沖縄や奄美地方の船舶輸送需要が、名古屋や関西の発着が増えてる要因の一つに、この事故で“東京直行”が事実上の廃止という憂き目にあったからであるw(ま、高速道路が整備され、途中を陸路にした方が早いし安全だからね…)

航空機もまた然りで、大型ジェット機ならともかく、離島や地方航路の小さな空港を離発着する旅客機は、殆どが小型機である。また、LCCの場合、少しでも料金を安く設定するために、ターミナルビルのブリッジを利用せずに、タラップでの乗降が一般的である。そういうトコでは今でも、搭乗の際に多くの制約が課せられる。昔は特に、機材繰りの関係でデブは“搭乗拒否”なんてのがあったぐらいで、その理由も航行時のバランスが維持できないという、なんとも悲しい話があったほどである…身障者じゃなく、健常者でも“デブ”には厳しかったのだw 今でも手荷物の規制や預け荷物に関して、様々な制約があるのは、船舶同様の理屈があり、また、収納スペースに確実に入れろという旨の指示が出るのも、航行中に乱気流に巻き込まれたり、今時期だと梅雨前線の上や雲の中を通過する際に、機体が非常に揺れてバランスが安定しないからである。もし、そんな状況下で列車感覚で通路や非常口付近に手荷物を置けばどうなるか…ガチな話、運が悪いと、どんなに軽いぬいぐるみでも、弾丸の如き速度で後ろへ吹っ飛ぶことになる。(コレ、スマホやタブレットだとどうなるか、わかるよな?)だから、固定できない機材や座席下、または座席上の共用収納棚に入りきらない手荷物は、ほぼ強制的に預け荷物扱いになるし、預け荷物とて、一人20kgまでという制限がある。(詳しくはこちら参照…)

日本の交通機関における“障がい者割引”ってのは、そもそもは介助者同伴が原則であり、また、有事の際に乗務員だけではどうにもならないからこそ、介助者の金銭的な負担軽減措置としてやってるモノであって、だから、それを適用するには、確実に同伴者が最後まで“面倒を見る”ことが最低条件としてある訳である。オイラも実家のオカン(心臓の冠状動脈バイパス手術を受けた)や義母(腎不全に伴う人工透析)が障がい者手帳を持ってるモンだから、その恩恵に与かることがしばしばあるのだが、あくまでそれは、介助者であるための手続きを事前に役所や関係機関に提出し、利用を申し込む必要があって、それが認められて適用されるモノである。鉄道やバスの場合は常に“同伴”してる状況だから、そこまでの手続きはいらないが、高速道路や船舶、航空機利用の場合は、この“一手間”がどうしても必要になる…不正使用を防ぐ観点からだ。特に高速道路の場合、手帳に記載された車両と、ETC搭載車の場合はそのカード情報を役所に登録しないと使えないし、そこで不正が発覚すると、非常にイタい目に遭う。(不正使用は全区間料金の3倍以上取られるから…いやマジで)故に、事前登録とその更新は、面倒でも常に意識してやらないといけない。当人だけで行動できるならともかく、介助者が必要な人のための割引であることを悪用することは、ひいては他の障がい者や利用者自身の負担が増えるだけで、何の意味も成さない。だからこそ、本当に“身障者差別”を根絶しようと思うなら、交通機関が、なんでこういう“制約”を課してるかを、今一度考えるべきである…一人の乗客の“我侭”によって、他の乗客の安全や運行の妨げになるのであれば、世間から批判を浴びたとしても、航空会社として“搭乗拒否”して“正解”である。多大な迷惑をかけてまでも“社会の変革”を訴えるのであれば、まずは自分自身が航空会社や空港会社の利用規定を守って、それで不備があった場合のみ騒ぐべきである。順序をあべこべにしてはいけない…全ては、他の人に迷惑をかけないことにこそ“安全”ってのは守られるのである。

2017-06-28

上下貴賎を“弁える”本意とは?

将棋の世界に、若き“英雄”が破竹の勢いで連勝してる件について、口が悪いことを芸としてるタレントが、いつも通りのひねくれたコメントに対し、SNSでプチ炎上状態になっておるようだが、コメントの内容をひっくり返して受け止めると、“ひねくれ者”故の“褒め言葉”であることはいうまでもなく、そういったことに対して目くじらを立てる必要はない。が、問題は“無条件”で“自分より年上”を敬うべきだという発言…これに関して一言でいえば、「将棋の礼儀作法を知らないのね」で片付く。なぜなら、将棋に限らず、勝負事の礼儀において、たとえ相手が自分より若い人であっても、“敗北”を認めた時点で頭を垂れることで“試合終了”となる訳であり、相手より自分の方が“年上だから”ということを理由に敗北を認めない人は、次の試合から“不戦敗”となる…実力的に落ち目なのに、それを認めない時点で“勝負にならない”からである。ぶっちゃけ論で言えば、どんな功績や地位を有しても、世界観が違えば価値は消える…ここんトコが理解できない人ほど、変に学歴や過去の栄光に縋ろうとして相手を侮蔑し、恥を掻くことになる。

“上下貴賎”という括りってのは、あくまでその“世界”にしか通用しない価値観の“物差し”でしかなく、故に、違う世界での価値観に鑑みた時、それがそのまま通用するような代物ではない。マンガの“釣りバカ日誌”が好例で、会社での地位は平社員でも、釣り仲間からは“達人”と呼ばれる主人公と、会社の社長という肩書きだけで初めて海釣りに行って、そこで自分自身の“世間知らず”さを知ってからは、休みの日に釣りに行く時は、主人公を“師匠”と仰いでついて行く…なんてのは、“上下貴賎を弁える”という態度の一つである。同じ理屈に関して言えば、そういう系統の“社会人コミック”によく描かれる題材であり、そこんトコを踏まえると、社会的地位がどんなにエラくても、自分の“知らない世界”に一歩足を踏み込んだ時点で“ど素人”扱いされるのは当然の話である。コミケでもそうだが、著名人だからと言って、主催者に許諾も取らずに勝手にコミケ会場に乗り込んで、販促イベントを強行開催するような不躾な輩は“出禁”になるのは当たり前。小林幸子にしろ、叶姉妹にしろ、キチンとコミケの出展参加ルールに従って手続きを行い、参加してる訳であって、そこんトコは一般の同人サークルと同じ手順を踏まえた上で、参加してる訳である。そこに“芸能人だから”とか、“著名な作家だから”という言い訳は一切通用しないし、一緒に当日会場内で“盛り上がろう”と参加者全員に呼びかけているからこそ、他のサークルからも好意的に受け入れられているのである。もしこれが、そういった“参加ルール”を一切無視して、企業サークル枠や“主催者招待”という特別枠で参加した挙句、事を起こせばどうなるか…長年コミケに参加してる、コアな同人作家やサークルなら、察しがつくだろう。

年上だからとか、大卒だからとかという“肩書き”によって、優越感に浸りたい人ほど、実はそのヘンチクリンな“縛り”によって、自分自身の自由が利かなくなっている事に気付かない人が多い。何度もいうが、変なプライドに拘るあまりに、自分自身に秘められた“可能性”に対して、自ら蓋をしていることが解らないのである。それがちゃんと理解できてる人ほど、様々な分野で活躍の場を広げることもできるし、それ以上に精進・鍛錬を怠らない…だから、自分よりも年下の相手でも遠慮なしに“攻めの姿勢”を崩さないし、“共戦”という概念の下において、面倒見がいい“先輩”になることが多い。逆に、相手をナメてかかってる人ほど、自分が行った努力や苦労ばかり誇ってしまいがちであり、それが“正当”に評価されないことを一番嫌がる…もっと言えば、誰よりも“褒めて欲しい”あまりに、相手が年下だったり、学歴的に下だとわかった瞬間に、とにかくバカにする訳である。でも、そういう人ほど、本当に他人様に誇れるほどの功績も、実力もないのだ。だから、自分以外の相手に対して、その人には“できない”部分を見つけては貶し、自分よりも“弱い”ことを強調する訳である。歳を喰ってる“だけ”で尊ばれるのであれば、それに似合うだけの含蓄や体験談を持っているモノだが、そういうモノすら“無い”のである。だから、どうしても肩書きや分野違いを強引に“自分のモノ”として振り回す訳である。これほど“大人気ない”行動はない。

肩書きを持つということは、その名に相応しいだけの責任と、耐え忍ぶだけの実績を有して意味を成す。武豊騎手とて、新人時代はどこまでも“天才魔術師(=武邦彦)の息子”という“二つ名”から逃れられないトコがあった。が、48歳になっても未だ現役で、しかも最前線の騎手としていられるのは、いうまでもなく、その“二つ名”を返上したくて、更に高みを目指そうと精進した結果であり、その中には日本ダービー5勝という、前代未聞の大記録も含まれる訳であり、中央競馬のみで3900勝もするのは、それだけの努力と、他の才能を犠牲にしてまで騎手としての才覚に集中してるからこそ、今日まで、コンスタントに勝ち星を挙げ、多くの馬主から信頼を勝ち得てきたのである。そして何より、競馬以外での部分では、謙虚な姿勢で物事を見てる事である。競馬サークル内で自惚れたとしても、それ以外の分野では、知識的にも素人以下であることを自覚してるからこそであり、競馬以外での世界に一歩でも足を踏み込めば、それまでの地位や名誉なんてのは価値が無い事を解ってるからこそである。つまり、人間として本質的な価値観なんてのは、自分と他人で全く異なることを、感覚的に理解できてるからこそ謙虚になれるのです。

そこんトコは、身障者だろうが健常者だろうが関係ないし、その価値観が全てではない…そこが理解できない人は、ゆえに自分が持ってるスキルのみで他人をバカにするのです…自分が抱えてる些細なプライドのせいで、結果として自分自身を傷つけ、勝手に自分自身の“生命の価値”を下げているから、的外れな僻みや妬みを言い放つのです。目に映ってる“他人様”は、ひょっとすると、“明日の自分”かもしれないのにねw