Hatena::ブログ(Diary)

迷馬の隠れ家…はてな館w

2018-05-23

“弱者”を虐める人の心理…

日大フェニックス騒動が、鎮火する気配がない状況において、件の学生が会見を開き謝罪した事について、敢えてここでいえば、メディアを使ってまで、将来有望なアメフト選手を、何の権限で組織は“潰す”方へ向いてしまったんだとしか言えない。それに、こういうのって、諸先輩が築き上げた影響や功績に対して泥を塗り、恥を掻かすようなモノであり、あまりにも惨めだ。

以前にも書いたとは思うが、いじめの構造ってのは、結局は様々な依存症と一緒で、その要因の一つに“絶対服従”という条件が加わる。つまり、指導者自身が自分自身の“思い通り”に組織が機能しないと、その“責任”を、立場的に“弱い”幕下に擦り付けた上で、たまたま事が上手くいっても、その“功績”を横取りした挙句、自分が指導してない話にまで首を突っ込んで自分のモノにしようとする訳である…子供の時なら、それはそれで、周囲の“大人”が事を俯瞰して見た上で注意・指導すればある程度まで防げるが、分別がつけられる世代になると、それを行うのは当人次第に変わる…この時に周囲の“大人”から受けた指導がモノをいう訳であり、ここの部分が欠落してると、当然、その下で指導を受ける学童は、それが“当たり前”になってしまう。

宗教団体でもそうなんだが、人材育成を行う上で、一番重要になるのは、結果論“だけ”で判断せずに、失敗は失敗として認めた上で“次に繋げる”事に重点を置く事であり、その“模範”となる姿勢を、自らの立ち振る舞いをもって示す事にある。故に、盤石な組織ほど、“異体同心”という概念から人材を育成する訳である。ただ…ここんトコを履き違える指導者が一人でもいると、そこから組織は壊滅することが多く、今回のケースだと、まさに、そういう状況に陥った典型的な話になる…指導者に対して“絶対服従”こそが組織として盤石なモノにするという概念で、学生を蔑ろにしたのであれば、もはやアメフト部だけじゃなく、日大そのものが“そういうクズの集まり”という風に見られかねない事態であるってことだ。それは引いては、多くのOB・OGに対して泥を塗る行為であり、背任でしかない。

“異体同心”の概念は、立場や民族の垣根を超えて“一つになる”事を意味し、また、多様性を認め、存在を互いに尊重し合う姿勢でもある。故に、“同じ志”の下において、上下貴賎の隔たりは一切無い事を意味し、条件や立場が違っても、だからこそ“支え合う”ことができる…相互関係が一見希薄なモノであっても、必ずどこかで関連するという意識を持つことで、“相手を敬う”ことの本意を知ることができるのが、この“異体同心”の考えの一つである。故に、自分の“思い通り”にならなくても、結果オーライなら、それが“正解”という訳である。

では、何で件の指導者(監督・コーチ陣)は、将来を嘱望された、自分の幕下に対して愚行を指示したのか?たった一言でいえば、“伝統”というモノを履き違えた上に、過去の栄光に縋って奢れてるからこそ、自分自身がやらかした事に対して逃げようとする訳であり、こういう醜態を晒す輩が“指導者”を騙ってる時点で、組織としての危機管理が全然なってないだけでなく、完全に腐敗してる事を意味する訳である。言っちゃ何だが、まだ成人なったばっかの“学生”が、自分が好きで飛び込んだアメフトから“離れる”という決断を下すことが、どんだけ勇気がいる行為なのか、そしてそれは、他の選手やアメフト関係者を“守る”ために犠牲を払おうとしてるか、そんなことすら気付かないのかって話だ。

もちろん、穿った考え方をすれば、こうでもしないとアメフトを“見てもらえない”という思いがあってやったのであれば、それこそ愚行でしかない。マイナーでもいいんですよ、本当に価値がわかる人だけで楽しんでる分に関しては。けど、もっとメジャーなモノにしたいって思惑があるのならば、それこそ地道に啓蒙活動するしかない訳であり、そこをすっ飛ばして人気者になりたい、著名になりたいと思うのであれば、それこそ重篤な犯罪をやればいい…一発で世間に名を知られ、誰からも注目される反面、その罪の重さ故に、罵られることを覚悟しなければならない。当然だが、犯した罪が消えることもなければ、それ故に世間から四六時中、批判の的になり続ける訳であり、どんなに慈善活動に汗を流そうと、しつこいぐらいに“偽善行為”と批判され、罵倒され続ける事になる。その“尻拭い”のために、関与した者全員がどれだけ苦労し、擁護する度に傷付くか…真の“指導者”であるなら、地位や名声よりも、自分を信じて付いてきた若輩者を守り、庇うために犠牲になる。後陣もまた、その恩義を忘れず、次世代に対して同じ施しをやることができて当然…そこを履き違え、自分自身を“絶対君主”として幕下に傍若無人を働いたなら、その報いは、必ず自身の身だけでなく、属する組織、更には親族縁者に対してまでも、厄災となって降りかかる。自分の振る舞いによって、一番汚されたのは、先人達がここまで連綿と築き上げた伝統と格式であり、師弟という名の“信頼関係”に他ならない。

2018-05-17

ヲラクを“叩く”メディアや弁護士の“無知”さ…

新潟幼女殺人事件に関して、また、容疑者を“アニヲタだから”という意図の報じ方をメディアが繰り返してる様だが、先に結論を言えば、だったら、何でメディアはアニメを“排斥”しなかったんだってことだし、そもそも“ヲタク活動”と犯行動機なんて無関係だ。それに、ブロマガでも指摘したが、ギャンブル依存症を根絶させるためにも、公営競技を廃絶すべきという旨の記事がWeb上で散見されるが、これも正直、関係性そのものが本末転倒であり、“依存症”の多くは、“自分自身”を見失った挙句、他人に対して“承認要求”を、それこそ少ない“成功事案”に縋って叫んでるだけの話であって、そこんトコをゴチャ混ぜにしてる人が多いこと…各種のハラスメント(セクハラ、モラハラ等)でもそうだが、要は、“相手の弱み”に付け込んで、分不相応な“対価”を要求してる行為であって、それが精神疾患に至るか、様々な虐待(暴行含む)に至るかの差である。

では、こういう“問題”をなぜ“誤認識”するかといえば、ちょっと冷静になって考えるとわかるが、こういうことで騒ぐ人の多くは、心のどこかで“仲間外れ”にされてるという自意識過剰なトコがあり、表面上の情報に流され過ぎてるトコがある。つまり、依存症のそれと同じで、承認欲求…というより、自分が持ってる“常識”が、世間一般でも普遍であるモノだと“信じたい”があまりに拗れてるのであって、ヲタ活動や宗教団体の布教活動を“キモい”と言ってる時点で“無知”を露呈してる様なモノです。そりゃ、自分と“違う”モノってのは、異質なモノに映るのは仕方ないトコですが、だからと言って、それ故に叩いて良いという道理は存在しません。第三者から見て、実害がないのに叩いてる方が“異質”に見えます。しかし…コレがメディアで著名人が無責任に“キモい”と言い始めると、途端にそれを見聞した人々が、一斉に奇異の目で該当者を攻撃してきます。これ…実は学校内でのいじめと同じで、親の地位や学業成績でモノをいわせる子供が、自分より“立場が弱い”と思う相手を標的にして、教師や親の目が届かないトコで傍若無人を働く訳であり、それを見た周囲の子供達は、故に“巻き込まれたくない”一心で傍観者になる訳であり、それを担任教師や自分の親に“報告できない”モンだから、結果、いじめ被害者のごく一部が自死という“最悪な結末”を選ぶ訳であり、当然、“現場”からの報告がないから“いじめはなかった”という話になるのである。重要な部分はここで、何で子供が嘘を付くかってのを冷静に考えると、周囲の“大人”を信用できないのと、自分がどんなに“事実”を話したとしても、“子供だから”という概念のみで“無視”されると思われてるのが一因にあり、また、社会的地位そのものが、“子供の社会”でも反映されちゃってるトコがあって、故に“強い権限”を有する大人の知り合いがいないとどうにもならないという“諦め”の境地がそこにある。そこの部分を、キチンと“大人”自身が否定しない限り、この問題は、絶対に解決しません…これと同じです。

地位的に“偉い人”になってるからこそ、もっと民衆に対して鋭敏になるべきだと言っても、その“小さな声”を拾い上げる幕下が、虚偽報告や不正行為をやってたら、元も子もありません。まして、親を“信用できない”と言ってる時点で、子供が親に対して、素直に自分の状況を話すことなんて無理です。当然ですが、学業成績のみで他のことに無関心な親に、誰が“いじめ”の報告をすると思います?メディアや弁護士が、SNS上で“信用ならん”と批判されるのは、これと同じ道理です。あまりにも“隔世の差”があり過ぎて、話にならないからバカにされるのです。それが“腹立たしい”から、人畜無害なヲタクや敬虔で真面目な宗教家を“叩く”訳です。お門違いもいいトコで、むしろ“羨ましい”と思うからこそ、自分に対して“腹立たしい”と感じるのであり、そして“反撃してこない”という安心感から叩こうとする訳です…が、サンドバッグでも殴りどころが悪かったり、殴った後の反動が大きいと、その勢いでぶつかって怪我をするように、余計なことを言えばいうほど、逆にその界隈の人々にバッシングされるのは“当然の報い”です。そこから、“他人の趣味や宗教観に立ち入ること”に関して慎重ななればいいのですが、何も学ばずに叩く人が多いことw 特にメディアで活躍してる著名人に多いのが、自分の趣味やクセをイジられると激怒する人に限って、他人の…しかもヲタ活動やってる人捕まえてボロカスに言ってる訳であり、これこそ“無知”の象徴としか言い様がありません。

“無知”なら無知で、別に首を突っ込む必要はないのですから、敢えて余計なことを言わず、そういう分野に特化したヲタクに、自分(聞き手)にも解りやすい様に解説してくれと頼むべきであり、それが嫌なら、自らが恥を忍んで飛び込み、学ぶべきなのです。経験や実績は、多くの知識を収集する糧であり、それをケース毎に使い分けられて、初めて“知恵”となるのであり、その“学びの座”を自分が外しておきながら、他人の価値観をバカにするのであれば、どれだけ自分が、そして同じ趣味を持つ人々が恥を掻くか、どれだけ、自分の価値観を愚弄してるかを、頭の片隅に覚えておく必要がある。その自覚がある人ほど、他人を見下して嘲笑おうとはしません。そんなことを自分がやられて反論をしたトコで、余計に惨めなだけですから…“無知”故に何処かで誰かを、そして自分自身を傷つけてる可能性を否定できない以上、僻み根性で勝手なイメージで叩くのは、自傷行為でしかないと。

2018-05-09

“人の振る舞い”こそ、尊厳ある人の心得也…

「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」


これは、“崇峻天皇御書”の最後らへん(業務連絡:御書の1174P)に記載されてる言葉で、言葉をそのまま現代語(てか、スラングな言い回し)に訳すると、お釈迦様がこの世に生まれた目的は、“人間らしさ”の追求に他ならない…となる。ま、本来なら、その前後にある言葉を踏まえた上で用いるべき言葉なんだが、あまりにも態度の悪い高齢者や国会審議をサボる議員が多いんで、Twitterでは吠え足りないんで、こっちでざっくり、この言葉の本意を説いていこうかと思う。とはいえ、オイラ自身の感覚的なモノであって、ガチガチに教学をやってる古参の学会員からは噴飯モノの解説になるとは思うがw

では、そもそも“人の振る舞い”とはなんぞやって訳だが、さっきも記した通り“人間らしさ”というものを端的に表した言葉であり、その極意とは、自分らしく、他人の誹謗中傷に惑わされない態度を示し続けることを意味します。つまり、どこまでも“対等に敬う”姿勢であり、お互いの信頼関係を一緒になって築き上げることを“人の振る舞い”という一言で表してるのです。その“原点”とも言える態度は、法華経不軽品で説かれる、不軽菩薩の態度です。

不軽菩薩は、ありとあらゆる人々に対し、“尊極なる存在”として呼びかけ、頭を下げた…しかし、多くの人々は、その態度を不気味がり、いろんな意味で“変態”として扱い、時には暴力行為で威嚇した訳だが、その度に紙一重なトコで躱し、大声で“それでもあなたを敬ってます”と叫んだという。しかし、この態度こそ重要な訳で、最初は“キモい”と嫌ってた人も、ある時からその態度の本質に気付き、他人からバカにされてても、自分の信念を貫き通す事の難しさや、一見するとつまらない行為であっても、継続することに対して相当な集中力を要する事だと解ると、いかに凄い事だったのかを思い知らせた訳である。そこから転じて、“相手を敬う”ということは、自分自身の価値観を向上させる一因であり、それを他人に対して強要する行為は、本末転倒な話…って訳になる。

ここが重要な話で、高齢者や身障者が“自分は弱者だ”と声高に叫んでる態度は、とてもじゃないが“人を敬う”という慈悲の行為を強要するような態度であり、当然ながら自分自身の命の価値をも落とす所業である。さらに言えば、自分自身が他人に対して振る舞った行為によって、自分“だけ”ならともかく、時と場合によっては、自分が属する宗派や組織、家族や友人・知人の存在価値までも左右する可能性がある。が、本当に分別が解る人であれば、故の“ツッコミ”ができる訳であり、“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”という諺が、いかにバカバカしい批判か察することができる。つまり、どんなに政権与党が妬ましいからと言って国会運営を放棄するような態度は、国民の信頼を裏切る行為であると同時に、その態度を改めずに批判してる事自体、自分自身の価値観を暴落させてるようなモノである。また、いつの時代でも若年層(この場合は子育て世代)は苦労が絶えないのは、その親世代が理想とする社会にしようとして無理難題を押し付けてるからであり、また、そこをクリアするために技術革新や効率のいい作業動作をやってることを批判している時点で、これから自分達が世話を受ける側でありながら相手を愚弄してる訳であり、故に親であっても子孫から“捨てられる”のである。もっと酷い言い方をすれば、歳を重ねてもガキはガキであって、敬うべき老人でもなければ、生きてる価値もないクズと若者にバカにされて当然な訳である。

ここんトコの高齢者によくある傲慢な態度の多くは、ほぼ半世紀前の学生運動のノリであって、それで苦労してるのが自分の子や孫であり、後輩達だってのに気付いてない人が多い。また、終戦後の苦労話を持ち出す人も、大概はリアル体験であるが故に“歴史”としての変遷をイマイチ理解できてないトコがある。戦時下から終戦時の“国民総餓死寸前”の正体は、メディアと政権を握ってた軍部が結託し、情報を操作した結果、多くの民衆が“現場の状況”をわからないまま情報を鵜呑みにし、自分で考えて行動することをやめたからこそであり、そこを批判して獄中に放り込まれたのが、創価学会の二人の会長である。そして命を賭して獄中から叫んだ誓願こそが、現在の創価学会の“原点”であり、根底に流れる“血脈”なのである…自分の命の価値を創造する団体として、日蓮仏法の正しさと、その教えに則した生活の有様を、世間に呈することで社会を変革するきっかけを作るのが、学会員それぞれの生き様であり、使命である。だから、本当に“尊い人”と思えるなら、たとえどんな過去を背負っていようが、どんな身分で学歴がどうであろうと関係なく、生涯にわたって“敬える存在”として仕えることができるのであり、逆を言えば、世間がいうほどの高学歴や地位を確立できた相手でも、それを強調して脅す様な態度の相手には、当然ながらガン無視もアリである。そこんトコが、日顕宗の“態度の悪さ”からの敵対行為に発展した元凶と言っても良い訳であり、権威主義に陥った組織がなぜこうも纏まらないのかという“答え”がそこにある。(ま、その檀家集団である“顕正会”が、学会員や他の宗派の信徒に対して、ヤクザ紛いな態度で脅す事件が頻発してるのも、法主の“無価値な権威”に脅されての話な訳で…w)

だからこそ、“人の振る舞い”とは、自分が持つ価値観そのものを押し付けて脅すような行為は恥ずべきであるということであり、どんな立場であっても、そこで“戦ってる”以上は、誰もみんな“尊い”のです…故に“対等”な立場で話す機会を設ける必要があり、その場において、既存の地位や価値観を持ち込むこと自体、非常にナンセンスな話なのです。高学歴?億万長者?名家の血筋?経験値?そんなの、“ここ”で関係あるかい?例えば、競馬場へ来る観客だってレースが始めれば、上下貴賎なんて関係ないよ?もし、本当にそれが“関係ある”っていうなら、よく考えて…それは“何”で区別されてるんだっけ?馬主?調教師?騎手?報道記者?カメラマン?イベント出演予定のタレント?裁決委員?それって、全部“役割”であって、例えば本物の馬主になる条件こそ一定の資産を保有してないと無理だが、POGや法人クラブ会員でも“馬主”名乗ってる人いるでしょ?あれと同じw “競馬場”って言っても、農水省の出先機関でもあるJRAや自治体が運営する地方競馬だけじゃなく、地域のお祭りや観光牧場などがやるレースだって“競馬”である以上は、そのコースは“競馬場”である。(馬券発売はないけどなw)当然ながら、いわゆる“草競馬”の類なら、JRAやNARが発給する騎手免許なんて関係ないし、所謂“八百長”だって馬券発売がない以上(てか、神事としてやる競馬の場合)は無問題。つまり、“価値観”そのものってのは様々な状況で変化するモノであって、常識そのものが覆されたとしても、別段驚くモノではない。だからこそ、様々な可能性や思考があって当然であり、故に“尊い”と賞賛することは、自分自身の“命の価値”そのものをも向上させることになるのです。

2018-04-30

いかなるクスリも、用法・用量間違ったら…

先に、コレを読んで欲しい…この事案において、一言でいえば、目薬が市販薬でも処方箋薬同様に、モノによっては副作用被害に遭う危険性があるから、病歴や服用薬の有無等を、登録販売者や薬剤師に相談しろって事。また、“医薬部外品”ってなってるモノでも、それはあくまで“毒性が低い”ってだけであって、モノによっては副作用を引き起こしかねないトンデモ事案があるってことを、使用者自身は失念したらダメなのだ。

先に、この“薬害事故”に関して補足すると、喘息持ちが使用した目薬には、配合してある薬(このケースではチモプトーブ)の特性上、気管を収縮させる作用があって、呼吸器官に難がある人(この場合は喘息)に用いることが禁じられていた…にも関わらず、当人が病歴や薬物に関する情報を、一切受診した医療機関や薬剤師に告知しなかったことで、最悪の事態になりかねない状況になった訳である。で、“なんで目薬で”ということについて解説すると、以前Twitterでも呟いたのだが、涙腺ってのは目だけでなく、鼻(鼻腔)や喉(口腔)、耳(耳腔)にも繋がっていて、よくコミックの表現で“大泣きしたら鼻水ダー…”というアレは、大量の涙が分泌されると、目の表面部分だけじゃなく、鼻腔や口腔、喉頭まで一気に流れる訳であり、その刺激で鼻腔内の粘液(要は鼻水w)も一気に溢れ出して、ああなる訳である。(当然だが、胃液吐くまで飲んだ後、鼻や目が酸い感じになるのも、胃液や吐瀉物の一部が鼻腔や涙腺を逆流するためであり、いわゆる“逆流性食道炎”で喉頭炎や咽頭炎になるのも、実はこの“仕組みの影響”な訳である。)つまり、目薬をさすと、鼻や口の中が微妙に甘味や苦味を感じたりするのは、薬効成分や添加物が涙腺を経由して、鼻や口、喉にまで達してるからであり、ゆえに“味覚”として感じ取ってる訳である。ココんトコがキチンと理解できてないと、件の事故に繋がるって訳である。

また、水分を含んでるいかなる薬物・毒物も、基本的には、経口(口から)摂取以外でも、浸透圧や循環器の仕組みが解ってると“盛れる”訳である。つまり、皮膚表面に傷口がなくっても、強引に口から飲ませなくても、湿布剤や軟膏(クリームやゲル剤含む)で“毒殺”ってのは“可能”であり、特に薬物アレルギーを持ってると、使う薬品の組み合わせ次第で、アナフィラキシーショックで殺害することもできるって訳である。当然だが、そこには食品アレルギーの知識も含まれる訳で、花粉症の人がフルーツ(特にリンゴや桃)を避ける“理由”も、こういう事情があることを身を以て知ってるからである。オイラも経験上、スギやヒノキの花粉が飛びまくってる2〜3月は、リンゴや桃の果汁が入ったジュースや炭酸飲料を飲むと、喉が無茶苦茶痒くなる。だから、この時期だけは、喉への刺激を抑えるため、ほとんどフルーツは生では食べないし、濃縮還元(要は生じゃない)のフルーツジュースであっても避けている。ナッツ類でも、クルミやアーモンドもバラ科の植物である以上、実は花粉症持ちは、時期によっては“避けるべき食品”なのである。

話が逸れたんで元に戻すと、肥料や農薬の散布でも、これは通じる話であり、散布時にマスクや手袋(できればゴム引き)を着用するように、説明書に書いてあるのは、モノによっては化学反応による火傷や、薬品アレルギーでの事故を防ぐためであり、特に尿素や苦土石灰、硫安といった化学肥料は、直に触ったり微粒子を吸い込むと、体質によっては手荒れだけでは済まされない事がある。(オイラは特に、尿素は触るだけで皮膚が爛れる体質…)当然だが、農薬の中には毒物・劇物指定されてるモノもあり、ホムセンや園芸店でも、厳重に鍵付きロッカーでの保管と、購入者に対して身分証明と印鑑捺印を義務付けている。それ故に、取扱説明書にも、使用時の注意と、万一の誤飲(誤吸入)の際の応急処置などが記載されている。それでも農薬や化学肥料による事故が農家から絶えないのは、高齢者の農家の中には、防毒マスクや手袋のた着用を“面倒だから”とか、“今まで素手で触っていても平気だった”という、変な自信や概念で押し通す人が多いからである。(中には、農薬調合後や散布後に手を洗わず、そのまま食べ物を手にして口にする人がいる!!)これで事故が起きたら、それこそ自業自得というより、“無知故の業”でしかない。それでなくても防護服が暑いからといって、スズメバチの駆除に殺虫剤片手に長袖シャツだけで飛び込む人もいるほどで、側で見てるこっちの方が背筋が凍ることなんて、日常茶飯事だったりするw

だからこそ、医療機関にかかりたくないという屁理屈捏ねる高齢者が多く、また、市販薬だけでどうにかしようと適当に服用して事を拗らせるケースが多い。(オイラの旦那も、ある意味それで、足の指、落としましたから…糖尿病による血行不良が伴う感染症で。)確かに医療費はバカみたいに高くなってるとはいえ、自由診療が普通なアメリカみたいに、家計が完全に詰んでしまうような医療費が請求されないよう、国民皆保険制度を取ってる日本である以上は、検査云々はともかく、クスリでの事故で生命を落とさないためにも、薬品に対する“正しい知識”を持っておく方が身のためです。あ、そうそう…いわゆるボタニカルや和漢薬だって、組み合わせ次第では治療効果よりも中毒でエラい目に遭う事もあるんで、専門店や薬局では、必ず、現在服用してるクスリと、過去に罹患した病気などは、正しい調合を行うためにも必要な情報なので、ちゃんと報告しましょう…そのために、最近では医療機関内での情報共有のデバイスとして、患者に対して“お薬手帳”なるメモが渡されてる訳で、コレを見て、総合病院で医局では、病院内で処方できるクスリであるかどうかを判断し、治療を行うのです。

2018-04-27

性犯罪の根源悪は、異性である事と…

今日は先に結論を書かせてもらうが、性犯罪の多くは、ある意味“正しい繁殖活動”の成れの果てであると同時に、自分の意思で選り好みするからこそ、“犯罪”となる…つまり、不特定多数の女性を襲おうとする男性は、単に快楽のみを求めてるだけでなく、本能的に“子孫を残す”行為をやってる訳であり、それ故に人間としての“理性”を失ってる状態であり、故に被害者からすれば“恐怖”でしかないのです。

但し、だからと言って、それまでの功績や貢献までも“否定”してはいけないし、逆を言えば、それ故に傲れたのであれば、そこまで“追い詰めた”責任が、社会そのものに生じる事になる…誰しも、著名人や為政者に対して“聖人君子”たる姿を要求しがちだが、一歩踏み込んで考えれば、自分の目の前にいる“相手”に対して、“人間である”という概念が、いつのまにか忘れてるのではないだろうか?自分が描く“理想の存在”であれと過剰に要求するからこそ、相手自身が息苦しくなってるという事に気付かず、ある日突然、裏切り行為を受けたのであれば、それこそ“潮時”なのである。相手も“人間”である以上、いつまでも“操り人形”のまま、担がれ続ける事に対して嫌になる事だってある…そんな“当たり前”な事に、気付いてやれないままでいれば、その歪みは悲劇を招く。過労による鬱からの自殺願望も、結局は精神的な緊迫感から逃げ退かれたいから来る発作であり、性犯罪や依存症の多くも、ほぼ、それが“原因”である。その“回避”の為にあるのが風俗であり、精神科医によるカウンセリングであり、そして正しい信仰である…宗教の本来の役目は、一切の精神的な“拠り所”であり、様々な憤懣や疑念に対する“捌け口”であり、根本的な人権擁護の場である。だからこそ、様々な教えが存在し、TPOに合わせた指導が哲学として存在する訳であって、その用い方を誤るから、時として教義が歪むのです…指導者も人間である以上、その弟子が求める模範的な姿勢を、常に示し続けることが難しいか、過去の“宗教絡み”の事件を鑑みれば、察しが付くものです。

当然ですが、“被害者”が実害を訴えるのは、被験者だからこそ与えられる権限であり、そこに“選り好み”があってはいけないのです…“相手”が著名人であろうが、自分の好みの容姿だろうが、どんな地位の存在であろうが、犯した罪は関係ありません。みんな“同罪”です。貧困層の万引きと富裕層の万引きは、事情が違っても、万引きという“犯罪行為”に差異は存在しません。それと同じで、性犯罪やハラスメント(虐待)も、相手が誰であったとしても、それは許してはいけません…どんな“相手”であっても、犯罪行為は犯罪行為であって、だけどそれが人命救助や危険回避、自然災害等の偶発的事故でやむを得ない場合、そこはそこで考慮すべき話です。その分別を無視して“被害を受けた”と騒ぐのは、完全にお門違いな話です。つまり、事実無根な事案をでっち上げる事も、その時点で犯罪行為と差異はないのです。

だからこそ、本当に自分がやった行為が、どういう影響が出るかを解った上でやってる分においては、故に自分でけじめを付けるのが筋であり、本来であれば組織が責任を負う必要はありません…が、組織として管理不十分だという認識を持ってるのであれば、必然的に“連帯責任”を負う事だってある訳であり、それが活動停止や解散というカタチであるなら、却って当該者自身を更に追い詰める格好になり、その先は悲劇しかありません。まして“家族”という感覚で運営してる組織だと、故にその“罪の重さ”を分配しがちです。けど、そこで“線引き”をすべきであり、組織が過去の功績や栄光に縋ってたからこその慢心であったなら、分相応の“落とし前”を当人に取らせるべきであって、縁を切る事も含めた処罰を行う事も、組織を守る為にも必要となるのです…国会審議を拒否してる既存野党も、与党のスキャンダルを責める以上は、自分の幕下がやらかした粗相に対して、分相応の処罰を与えなければ、誰が信用できるのでしょうか?“相手”も“人間”である以上は、自分が求める“理想の存在”を強要すること自体がおかしいのであり、“人間”として尊重し合える立場としての模範を自らが示し、共存出来る様、一緒に模索するのが“人間”という所作ではないでしょうか。

教訓:傲れる者久しからずや、今一度、自分の振る舞いに対して責任を持て。