迷馬の隠れ家 はてな本館

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二律背反な話…平和維持と不戦の請願

正直に言えば、いかなる戦争も、その根幹にあるのは、“国”が“民”によって運営され、形成されている以上は、その生活の安寧と豊かさを保持し続けるために、様々な“施し”を“全体”に対して保証しなければいけないのであり、故に、国の体制によって、在住する民衆…国籍上現在地を“出身国”として国籍を得てる者全員が、何らかの“負担”を強いられるのは当然の話。しかし、隣接する“他国”にとっちゃ“知らんがな”な話であり、故に“異邦人”に対する取り扱いで齟齬が起きるのは日常茶飯事である…ここの部分で寛容過ぎる(てか、遠慮し過ぎ)てるのが日本の国家であり、国民性である。故に日本の領土であるハズの北方領土尖閣諸島竹島が、いつまで経っても隣国と揉める訳であり、交渉の席に着こうとしても、結局物別れに終わるのも、そういう訳である。

では“富める国”とは、何をもって“裕福”と言えるのか?様々な条件によってその価値観は違うが、“家族”という小単位で言えば、何もかもが“揃ってる”ことが基本条件となる…つまり、生老病死という自然の理に基づいたモノ以外は、いかなる理由であっても“不幸”な話であり、これが高齢者よりも先に子孫が亡くなるという事態になると、途端にその不幸度は倍増する訳である。親としての不注意で子供が事故死すると、高齢者(祖父母)としてはその“責任”を親…特に“母親”に対して全部なすりつけるケースが殆どであり、“父親”に対する責任が軽過ぎる訳であり、その“理由”を突き詰めると、男親側の祖父母としたら、“自分の子可愛い”の一点だけで物事を見る傾向があって、時間が経過してその“責任”が実は自分の倅自身にあったとなると、嫁に対してぶち撒けてた憤懣を、丸々自分の息子に…いや、むしろその数倍の破壊力を持って罵る訳である。これを規模拡大して政治にまで発展させると、何らかの“不祥事”があると、その“原因”が為政者よりも“自分自身”にあるという自覚がないまま民衆は暴言を吐く訳であり、仮に結果オーライな状況であっても、重箱の隅を突付いてイチャモンをつける訳である。言い方変えると、社会保障に十分な国庫資産、時間通りに使える公共交通機関、安全な飲料水と安定した供給ができるエネルギー資源等が“全部ある”ことが当然な状態が続くと、いつしかそれらのうちの一つでも維持できなくなった時点で、様々な“文句”が民衆から湧き上がる訳である。原発にしろ、移民政策にしろ、防災のための治水にしろ、“完璧な答え”など存在しないのに、民衆はそれを求める訳である…それゆえの“不具合”が発生した途端、多くの民衆は“民の声”に応じようと活動している為政者を批判する訳である。

で、その“民の声”の中には、為政者が“応じてはいけないモノ”も含まれている訳で、税金や法律の見直し等、国家運営に関わる重要案件で、冷静に考えるとマズいモノも大量に含まれている。しかし、これを一つ一つ民衆に対して“丁寧”に説明したトコで、それをキチンと理解できる人は、1割もいない…自分の“生きるため”に集中するあまり、周囲を見渡す時間すらないのだ。だから、国鉄の分割民営化によって不利益を受ける僻地三社(JR北海道・四国・九州)は、路線をどんどん“廃止”せざる得ない訳であり、本州三社(東日本・東海・西日本)でも、新幹線以外の路線に関しては、ある意味蔑ろにならざる得ない訳である。赤字国債の発行を“怪しからん”とした“民の声”に応えるために、選んだ結果に対して文句を垂れる人は“別人”でも、結局は“自分が選んだこと”として、何らかの“落とし前”をつけなければいけない。その方法はいくつかあっても、何を選んだとしても苦情が上がるのは目に見えた話で、それを“理由”に内閣総辞職を要求する様では、それこそ“浅はか”としか言い様がない。“自分”で受け入れなければいけない“対価”である以上、それを受け入れられないと言った時点で、“国外追放”されても文句は言えないのです…むしろ、受け入れ先がある上での追放ならヌルい位で、最悪は自害せざる得ないトコに追い詰められます。

平和維持といっても、その“解釈”を一つでも間違えると、却って国際的な諍いになる訳で、その一端に“戦争”が存在する訳です。当然ですが、戦争にもいくつかの“因果関係”が介在し、それが一種の“陰謀論”につながる訳です。特に、メディアが流す“情報”には、報じた者が“見てみたい景色”という願望が含まれていて、その多くは、“自分に被害が及ばない”ことを前提とした内容であることが必須になってます…つまり“騙されたモンが悪いw”という概念で、現場で起きた事柄を、自分の“思い通り”に展開したら面白いだろうというノリで、真実を曲解する訳です。その結果が従軍慰安婦に関する情報であったり、LGBTに対する誤解を招く報じ方であったり、他宗派に対する排斥を求める“意見”だったりする訳です。そこの共通するのは、人々が抱えてる“心の闇”を晒すことで生じる不信感と憎悪の連鎖であり、それを“他人事”として面白おかしく報じることで、“自分”以外の他人を“見下したい”という“欲望”なのです。ナチスドイツの愚行の一つに、ユダヤ人や身障者、LGBTの“排斥”があった訳だが、何でそれが“あの時代”にまかり通ったかと言えば、国民の多くが“少数派”に対して過剰なまでの保護や優遇に対する“不満”が底辺にあり、それを“周辺国”が当時のドイツに擦りつけた…という背景があります。そこに、ヒトラーの私情が絡むと、“指導者と同意”だった人々は、それを“免罪符”にして差別を“正当化”していった訳です。故に、その“代償”は祖国が分割されるという“悲劇”となり、90年代に再統合するまで苦しんだ訳です。また、中国共産党がやっている“人民浄化”も、人口の大半を占める漢民族の意向に添った内容であり、チベットウイグル内蒙古民族等に対して、固有の民族文化の廃絶や公用語としての北京語使用の義務等、一方的に押し付けてるトコがあって、故に香港の民主化運動家を“精神疾患者”として病院送りにする一方で、本来治療が必要な精神疾患者が起こす“事件”に関しては、ほぼ“無罪放免”という状況が発生してるという情報が、SNSで実しやかに散見される訳です。どっちにしろ、そこには、自分自身が“加害者”になってるという自覚がないまま、事が進んでいるため、行き着くトコまで行くしか止める術が“ない”のです。

だからこそ、“不戦”と“平和維持”は二律背反な話であり、それを本気でやり遂げようとするなら、自国民と周辺国に対してかわした“約束”を、どこまで“遵守”できてるかを見守ると同時に信じてやるしかないのです。双方が疑心暗鬼になれば、必ずそれ故の齟齬が起こり、内乱や戦争に発展するのです。いかなる独裁者でも、その“きっかけ”は民衆と官僚、メディアによって“作られた理想”であり、それを体現する“依り代”として担がれるトコから始まる訳であり、自分達の願いを叶えてくれる存在として担いでいる以上、当人の意向には逆らえず、そしてそれを逆利用して暗躍する人々は、巨万の富を得る代わりに定住できる場所を失うのです。それでも、そんな富豪や独裁者を“羨ましい”と思います?