「びっき」2012年3月号〜自分にとって「ほんとうにたいせつなこと」とは〜

最近はあらためて自分の価値観とか、生き方とか、そういうたぐいのハナシに思いを巡らす時間が多くなった(ほかのことに集中できない)。齢30歳にして、いまだにウダウダこんなふうに逡巡しているあたりが、己のダメっぷりを表しているが、齢を重ねれば重ねるほど、迷いごとや不安は消えていくとのおおかたの個人的な期待に反し、ますます迷宮は複雑を極め、この迷路には終わりがないとウスラ笑い(自嘲)気味に諦めている次第だ。そういえば椎名林檎も「いくつになれば寂しさや恐怖は消え得る?」(「意識」)って歌っていました。いったい、みんなはどうやってうまく自分をいいくるめているのだろう。じつに感じの悪い、いいかただけど。

すごく個人的な告白で退屈極まりない(つまり他人にとっては「どうでもいい」)記述になるが、ぼくのなかでは、過去にいちど「道徳」の権威は失墜している。道徳の規律自体、世界の建前にすぎず、追求されなければならないとされているわりには、実はだれも肚の底では従っていない、そして(比較的)従わないほうが当人が「生き生きとしている」事象をいくつもみたからだ。それは中坊の頃からだと思うが、自分にとっては道徳的・社会通念的に「正しい」とされることはつねに疑わしいものとなった。

また、自分がなにか「正しい」ことをするばあい、そのような行動をとることががつねに自分に有利と考えられるからこそ、そのような行動を自分はとるのだという意識もあった。つまりすべて「社会的に好ましい」とされる自分の行動の背後には、自己の保身といういやらしい動機がある。みにくい自己愛がはたらいている。

もちろん、当然ながら社会的に「正しい」とされることに反することは、気持ちのいいものではない。つまり、どうあがいたところで自分は「正し」くなることはできない。どっちにしろ、不安なのだ。みんなはこのへんの問題を、それぞれどんなふうに処理しているのだろう。みんなうまくやっているように(少なくとも)みえる。こんなことにつまずくのは、自分だけなのだろうか。とても生きづらい。

まわりの同年代ひとたちは、結婚したり、子どもを育てたり、仕事に精を出したり、自己啓発したり、不景気にグチをこぼしたりしている。うらやましい。しかし、ぼくにとってそれらのことは、「2次的にたいせつなこと」であり、自らの生きづらさを考える際の参考となる要素ではあるが、なんというか自分自身の問題の「本丸」ではないというか、核心に至らないというか。

同じような問いにからめとられたひとたちがいて、読書体験を通して「同類」と出会うと興奮してしまうが、けっきょくそれらは彼らの問題であり、自分の問題は自分で考えなければならない。追体験して満足するのは、錯覚。怠慢だ。

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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悪について (岩波新書)

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いま、自分にとってほんとうにたいせつなこととはなんだろうか。それを考える体力と勇気と覚悟とが、自分にはあるのだろうか。