- 作者: 関根正雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971/06/16
- メディア: 文庫
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義人であり非の打ち所がないヨブに対し、神(ヤハウェ)はその信仰を試みるために苛烈な試練を与える。ヨブの仲間たちは、応報思想に基づいて、ヨブになんらかの非があるからそのような目にあうのだと、ヨブを攻撃する。ヨブも自問し、神を恨み、神に挑戦する。ここで信仰ということの問題が浮上する。すなわち、ヨブの暗黙の考え方、正しいことをしていれば神は人間を不幸にしない、ということも、同じく応報思想そのもの、つまりそこでの信仰は自分のためになされているものではないのか、ということだ。
卑近な自分の例でいえば、大前提としてまったく義人ではないので共感などできないが、日常の小さなさまざまなことのなかには「自分は間違っていないのになぜ苦しまなければならないのか」みたいなケースはある。ヨブ記はこのようなことを神に問うことそのものを諌めているのか。信仰ということはどういうことか、そこにひとつの答えを与えようとしているように読める。
読んでて思い出したのが『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアレクセイの会話だ(実際はイワンのモノローグに近いが)。イワンは幼児虐待や戦争で殺される子どもに言及し、「正しい大人」ではなく「無垢な子ども」がなぜそのような試練に合わなければならないのか、納得ができないという。いわく、神は認めたとしても(そんな理不尽な)神の世界は認めることができない。そんな世界に救いはあるのか。ドストエフスキーはヨブの問題をより突きつめた感がある。
あと個人的には、そんな子どもの対極にあるであろう「悪」の問題がそこに浮上してきて、読書としては親鸞を知らねばならないと思っている。