雑感:「ウルトラ」考

ウルトラマラソンの「ウルトラ」の定義は、フルマラソン以上の距離、ということらしい。今年は6月の岩手のウルトラマラソン(ロード)にエントリしていたのだが、自然災害によってコースの安全を確保できなくなり、中止になってしまった。

「ウルトラ」という響きが好きだ。好き、というか無性に惹きつけられるものがある。何かを超越している、ということだが、ウルトラマンに代表されるように他人がウルトラかどうかはどうでもよくて、「自分にとってのウルトラ」に挑戦するということが大きな魅力だ。この「ウルトラなるもの」へのあこがれは強く、さいきん執心のトレイルランニングにおける「ウルトラ」は、自分にとってはギリギリでも距離でいうと100kmは欲しい。100km超の「ウルトラ」トレイルレースを完走、あるいは自分の目標とするタイムでフィニッシュすることが、今年の自分にとっての「ウルトラ」という、一種の達成を表すものであったといえる(もう今年が終わりであるかのように書いているのは、今年はあと12月の伊豆のレース72km残すのみなので)。

今年はそういう意味では、5月の阿蘇ラウンドトレイル(109km)、9月の武尊山スカイビュートレイル(129km)を完走できたので、自分にとってのとりあえずの「ウルトラ」は達成できたような気はする。だが、残念なことになぜか達成感は薄い。原因は、自分のなかではわりと明確で、それは「満足のいく準備をしなかったこと」に起因している。それは出走前から予感していたというか、もちろん準備不足ではあるから「完走できるかどうか」ということが焦点になりうるのだが、そもそもそこが焦点という時点でモチベーションが上がらないというこころの状態を経験した。自分にとって当時の最長距離のレースではあったので、ゴールしたら泣くほど感動するかと思いきや、ホッとした、という感覚のほうが圧倒的に大きかった。

狭い考えかたであることは自ら承知しているが、例えばフルマラソンをはじめから制限時間をいっぱい使って「歩いてでもゴールできる」と考えるのは間違っていると思う。ウォーキング大会ではなく、マラソンは「走る」競技だと勝手に思っている。だから充分な準備をせず、死ぬほどつらい思いをして歩いてゴールしたとしても、それはフルマラソンを完走したことにならない。もちろん、全部走るつもりで結果歩いてしまったのならしょうがないし、本人がその歩いてしまった敗北感を抱きしめて次のなにか(必ずしもマラソンに限らず)に生かせばよい。ただ、走るべき競技を歩いてゴールしてしまった、ということは充分に認識する必要がある。

話がやや逸れた。だが同じ考え方でいうと、自分の今年のウルトラトレイルは、ウルトラに挑む自分なりの準備ができていなかったという一点において、もはや「ウルトラ」ではなかった。極端な話、完全に完走あるいは、狙った通りの走りができるという自信(とそれを裏付ける練習)がなければ、スタートしてはいけない競技だとすら思っている。そこの曖昧な線引きで、自分に妥協した今年は、全然ダメ。