ささやかな抵抗の準備

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2014-12-31

[]大学の勉強は社会より自分の方が正しいというためのものだ

小中高と学校で勉強してきたことは、主に社会に順応するためのものだ。それに対して大学の勉強というのは、今ある社会を正しいと思うのではなく、どんな社会にするべきなのだろうと考えるためのものだ。


今まで小中高と、なんのために勉強してきたのだろう?立派な大人になるためだろうか?就職して立派な社会人になるため?では、「立派な大人」や「立派な社会人」とは一体なんなのだろうか。


逆に考えてみる。今既に働いている人は全員「立派な大人」を「立派な社会人」なのだろうか?もちろん、そんなことはないだろう。であれば、その人達の言う通りにする事が正しいとは限らないことも分かると思う。社会が正しければそれに順応すればいいが、社会が正しくないのにそれに順応するのは、単に自分の精神状態にとって良くないだけでなく、そういう環境を維持することに一役買ってしまうことになって、後に続く人にとっても良くない。言う通りにするばかりでなく、そういう状況を改善することが出来るのが、より「立派な大人・社会人」ではないだろうか?


「自分が間違っているのではなく、社会が間違っているのではないか?」と思った時、それを実際に周囲の人に納得してもらうのは簡単な事ではない。そういうことを出来るようにする能力を鍛えるのが大学という場所である。そのためには、主張の根拠となる専門の知識と、主張するための筋道の立て方の両方が必要である。


こういうこと言うと「反抗するのが格好良い」みたいに思うかもしれないので注意しておくと、結局のところ物事を達成するのは「信頼」とか「協力」なのも事実なので、ただ正しい事を言えばいいという話でもない。例えば、そういう話をする前にそもそも話を聞いてもらえる関係を築くのも大事である。まあでもそれは(本来は)大学で学ばなくてはいけないことではないのだ。大学は、というか、学問分野というのは、他に比べてかなりの割合で、正しければ話を聞いてもらえる世界だ。そういう特殊な世界だからこそ、自由に考えたり主張したりすることが出来るのだ。


…とここまで書いてきたが、上記のような大学像は一応、昔の話であり、理想論だ。「本来の大学」の役割はそういうものだったろうが、状況はとっくに変化している。「高等教育」という言い方をするが、それを受ける人は一握りのエリートで、そういう人達が人民を導くという時代があった。今は日本では50%の人が大学に進学するわけで、半分がエリートだと言ってもみんな納得しないだろうし、実際のところそういうことを考えられる人が50%も居るかというと怪しいのではないかと思う。だから大学の機能も変化して、今ある社会に順応させるための役割を果たすようになった。これは仕方のない事だし、実際それがニーズに応えた形なのだから、悪いともいえない。


まあとはいえ大学に来てしまった(?)人には、せっかくだから大学のいいところ享受していってもらいたいと思う。大学で学ぶことが現場よりも先を行っているから現場の人の知識より役に立つ、ということもあるかもしれないが、実際あまりそういうことは多くないと思うし、その捉え方だとそんなに大学の勉強は役に立たないように思うのではないと思う。それだけではなくて、いろんな考えに触れて、自分なりの視点を持って、そして自分なりの正しさをもって、それを主張してみて欲しい。もちろん最初は失敗ばかりだろうが、それが許されているのが大学なのだろうから。


共通基礎科目(昔の言い方では教養科目)は、普段とは違う視点を提供するためにある。だから、皆さんに「そんなこと考えたことなかった」といくつ言わせられるかが、私の勝負だと思っている。

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