人と違って、人に興味がないなあということ

ちょっと前にテレビでe-sports(電子的ゲームによる競技)の特番をやっていたらしく、それを見ていた母が興奮気味に私に内容を解説してきた。ストリートファイターVのときど氏の話だった。母としては、私がゲームが好きだから乗ってくると思ったのであろうが、正直言ってその話にはあんまり興味ないなあ、と思った。どういうことかというと、特番でフィーチャーされていたのが、ゲームの話ではなく、ゲームのプレイヤーの生き様に関する話だったからだ。それだったら普通のスポーツとなんら変わらないではないか。そして、そういうのばかりだから私はスポーツ界隈が好きじゃないのであって、それと同じになるなら同じようにe-sportsにも興味が持てないな、と思った。


別にスポーツに限った話ではないのだが、私が思うに、多くの人は、人にしか興味がない。そして、私は人には興味がないのだ。少なくとも、優先順位が相当違うなと感じる。そして、そのことによる齟齬というのを感じる機会が結構多い。


例えばピアノの分野で考えて見ると、ショパンコンクールなんか放映しても、大体の人にとっては演奏の違いなど分からないし、演奏の中身にフォーカスして特集を組んでもそんなものを楽しめるのは少数派になってしまう。しかし、その人の見た目や生き様というのは、別にピアノや音楽への造詣には関係ないから、皆がほぼ平等に評価・鑑賞することが出来る。それは単に人を好きになるとか嫌いになるとかいうレベルの事だから、誰にだって平等なのは当たり前だ。一般向けの番組が人にフォーカスするのはそういう理由なのだと思う。


スポーツでも、私は、そこでどういう技術が使われているのかとか、どういう戦略でやっているのかといった解説を聞くのは好きだが、選手自体にはほとんど興味がない。あるいは野球の球団を応援するみたいな気持ちも無いし、もっと言えば誰が勝つか負けるかもどうでもいい。選手同士がぶつかっていい試合が生まれることに価値があると考える。


特に嫌いなのは、勝った人が性格まで肯定されるという構図で、スポーツははっきり言ってそればっかりだ。そもそも勝った人か、その直前ぐらいの人しか取り上げられもしないので、結果的に勝者の称賛ばかりになっている。いや、勝者の称賛それ自体は別にいいのだが、他の人が称賛されるべき生き様で生きている可能性というものをもうちょっと考えればいいのに、と思ってしまう。e-sportsもそういう構図に近づくなら、スポーツと同じで私的には気に入らないものの一つになってしまうだろうと思う。


ただ私も、またピアノの話になるが、例えば良い曲を探す、良い演奏を探す、といった活動をするとして、演奏者や作曲者という関連性を利用するということはある。良い曲であればどんな作曲家のものでも平等に評価したい、という気持ちはあるが、いくらそう思っていてもさすがに完全にランダムに次に聴く曲を選んだりはしないわけで、良い曲がありそうなところから探そうと思うと、作曲者や演奏者といったものをブランドとして探す手掛かりにはしている。したがって、例えばこの選手に注目していればいい試合が見られる、という発想であれば、十分理解できる。


ただ、根本的な違いとして、私は「コンテンツを評価するのに、それが誰が作ったものかということに左右されたくない」と考えているのに対し、普通の人は、まず「人を評価したい」という所がそもそものモチベーションなのかなというような印象を抱いている。


私は少し前から歴史の勉強をしているのだが、いわゆる歴史好きの人達とはずいぶん話題にすることの方向性が違うように思っている。私は、歴史の大きな流れが知りたくて歴史を勉強しているのに対し、普通の歴史好きというのは、歴史上の登場人物の生き様に興味がある(かっこいいとか言いたい)のだと思う。ちょっと前に、高校の歴史の教科書から坂本龍馬などの人物が消えるかもしれない、というニュースがあったが、私は趣旨には賛同しているのだが、多くの人は人への興味からしかいろんなことへの興味が持てないのが普通なので、私のような感覚に合わせない方が結果的には上手く行くんじゃないかなと思ったりした。


しかしもちろん、私のやり方・考え方が良いとは必ずしも思っているわけではなくて、とにかく違うなと感じているということなのである。例えば、自分には分からないことがあったとして、それを全部納得いくまで調べるのは無理な場合に、可能な限り自分で考えて結論を下す、というのと、その分野の専門家の人となりを評価して信用できそうだと思った人の言うことを鵜呑みにする、というのとでは、ほとんどの場合、後者の、人を頼りにする方が真実に近い結論にたどり着けるような気がする。


まあしかし人とは考え方が違うことが多い、ということを事前に理解しておくことは、コミュニケーションにおいて役立つことである。別に、人との違いを人を対立するために使わなくてはならない訳ではないのだから。