34時間目「すぐ立ち上がらなきゃ」

 やっぱり「エヴァ」のえいきょう力ってのはデカかったんだよなぁ。前回挙げたセカイ系もそうだったし、FF7みたいに他のジャンルの作品にまでえいきょうをあたえている。これぞ社会現象というやつだよな。そしてそれだけブームが長く続いたのは、エヴァンゲリオンという作品がある意味で未完成だったからだろう。

 エヴァに関しては、多くの人がテレビ版で完結したと思っていた。先生もな。でも、テレビでは主人公シンジしかえがかれず、他のキャラクターはどうなったんだ?ネルフはどうなったんだ?世界は?という説明がされていなかった。そして、劇場版――今は「旧」劇場版なんて言われてるやつが作られる。まぁ、意味不明な作品なんだけどな、多分「この世界はこれ以上お話を続けてもカヲルくんもミサトさんもいないし、絶望しかないんだぜ。お前が見たかったのはこういう世界か?ちがうだろ。これは夢なんだからとっととめざめろよ!」ってことなんだと思うんだ。先生は納得できないまま、最後の絶望的な二人だけを連れて現実にもどってきた。けれど、現実を見るっていうのはこういうことなんだろうか?先生が思うに、クリエイターには世界を作った責任というものがあると思う。映画の結末はその責任からただにげているだけにしか見えなかった。何より、「死にたい」といっている相手を本当に殺したら、願いをかなえたことにはなるかもしれないが、すくったことにはならないだろう。作者に「こんな世界忘れろ」と言われたからと言って、忘れる事、捨てる事が正しかったのだろうか?本当はあの時、あの二人にはちがう結末があったんじゃないだろうか?と思うんだよな。

 エヴァンゲリオンの後にエヴァをこえることをめざして作られた作品ってのはたくさんあった。セカイ系をあつかった作品やそうでない作品もエヴァを良くも悪くも意識しすぎていた。けれど、どれもエヴァンゲリオンのメッセージと同じで、セカイを捨てる事を結末にしてきたんだ。麻枝さんもエヴァンゲリオンの製作者と同じことをいってきた。それこそKEYができる前から向こう側のセカイにあこがれつつも別れることをえらんできたんだ。……ところが今回紹介するリトルバスターズ!は、そんな麻枝作品ではじめてちがう結末をむかえた作品だ。

 リトルバスターズ!にも元ネタがある。それは「ビューティフルドリーマー」、そして「木更津(きさらづ)キャツアイ」だ。

ビューティフルドリーマー」は諸星くんやラムちゃんたちの高校で学園祭の準備が進んでいく、というのがお話の発端です。やがて彼らはいつまでも同じ毎日が続く。昨日がまたそのまま今日、繰り返されることに気がつきます。何故かと言うと、それは彼らの住んでいる友引町そのものが諸星くんといつまでもこのままで居たいと願うラムちゃんの夢に呑み込まれてしまっていたからです。それが明らかになった時、彼らは友引町そのものがぽっかりと虚空に浮かんでいる、つまり外側のない世界だということに気づきます。

(中略)

 あるいはぶっさん以下の面々はVシネマの名優(?)哀川翔の大ファンです。特に「ヤクザ球団」というのが彼らがリスペクトする名作です。ところがある日、本物の哀川翔が木更津にふらりと顔を出し、彼が率いる野球チームとぶっさんたちの草野球チームが試合をすることになったりします。つまり、木更津という「閉じた街」は外側の現実からぶっさんたちを守る一方で、Vシネマというフィクションの世界とは地続きなのです。そもそも木更津キャッツアイなどと名乗ってしまうことが(無論、北条司さんのまんが『キャッツアイ』からの借用です)大人になりたくない彼らが「現実」ではなく「フィクション」の上で遊んでいたいという心情を示しています。前の講義で記したように、アニメやフィクションの中では人は現実の中で強いられるように成長したり死んだりする必要はないからです。だから「木更津」は『うる星やつら』のように閉じた世界である必要があるのです。
 そんなふうにして「木更津キャッツアイ」の「細部」におけるギャグは、木更津という街が「大人になることを先延ばしにしていい場所」であることを表現するためのものとして機能しています。

(「キャラクター小説の作り方」大塚英志 著 より引用)

 あんまり、くわしく話すとネタバレになってしまうけど、リトルバスターズ!はかなり自覚的にループものの構造を持っているんだ。大塚英志(おおつかえいじ)さんはテレビドラマ「木更津キャッツアイ」に対して、例えば作中の小道具として「終わらない日常が続く長編野球マンガ」が使われていることや、大人になりきれていない大人ばかり出てくる点から「大人になる事を先送りにしている」世界だと見るんだ。そしてこの木更津キャッツアイのいいところとして

1.その場のギャグのような細部に、作品の背後のテーマが暗示されている(整合性がある)作品であること
2.成長も死も先延ばしされる記号的な世界に、生身の人間の死(他のキャラクターにとっては成長)をもたらしたこと

を挙げている。実際に遊べば分かるけど、リトルバスターズ!もやろうとしている事はいっしょだ。

恭介「今気付いたんだが、(21)って寄せ気味に速攻で書くと、『ロリ』に見えないか…?」
真人「んな、馬鹿な…って、あれ?」
真人「確かに見えるかもしれない!」
謙吾「おまえたち冗談はほどほどに…ん?」
謙吾「うああああぁぁぁ! 見えてきた!!」
真人「このままじゃ21歳になって『真人(21)』って書くとき、『真人ロリ』になっちまう!!」
真人「うわああぁぁ21歳になりたくねぇーっ!!」

 一見すると下らないギャグにしか見えないが、「21さいになりたくない」というのは大人になりたくないという意味にも取れるよな。作品のはじまりでも主人公は心の中で「こんな楽しい時間がいつまでも続きますようにと。」と思っているし、兄貴分の棗恭介(なつめきょうすけ)が「今がずっと続けばいいのにな」なんてつぶやいたり、そもそもかれは就職活動の最中なのに「野球をしよう!」と言い出したり――、登場人物のほとんどが大人になることを先送りにしている世界というものがえがかれている。つまり、ビューティフルドリーマーみたいなだれかが望んだ世界でずっと遊んでいたいという「夢みたいな世界」がぶたいなんだ。そしてそんな夢の世界が終わった後の「やがて来る過酷(かこく)」にどうやって立ち向かっていくかというお話なんだ。

 とはいえ、先生は何もリトルバスターズ!がパクリだという事が言いたいわけじゃない。当然だが、ゲームにはゲームの表現方法がある。リトルバスターズ!にはこれまでのKEY作品ではなかったようなミニゲームがいくつか存在する。代表的なものが「野球ゲーム」と「バトルランキング」だ。

 「野球ゲーム」はその名の通り、野球みたいな遊びのゲームで、ピッチャーが投げたボールを主人公が打ち返して、そのボールを守備がキャッチしてまた主人公が打ち返してをくり返しながらコンボをつなげるゲームだ。一見するとふつうのゲームのようにも見えるけど、このゲームは「運」の要素が強い。たしかにクセを読んだり、コツをつかむ事ぐらいはできるかもしれないけど、野球というのは「じゃんけん」と同じで意思決定をする人物が二人以上いる。だから、あの時、自分はこうしていればよかったと思っても意味がない。相手もその時こうしていればよかったと思っているかもしれないからな。キリがなくなるんだ。しかもグラウンドにはネコが居座っているんだけど、このネコがボールを持っていってしまったり、ぶつかりにきてしまうのでより運の要素が強くなるんだ。

 「バトルランキング」は「野次馬から投げこまれたもの」を武器に戦う遊びで、勝つとランクが上がり、負けた相手に称号(しょうごう)をあたえる事ができるんだ。何が武器になるかはその時にならないと分からないからこれも運の要素が強い。こちらも「対戦ゲーム」だから意思決定する人物が二人いるんだ。だから失敗の原因を探ることが困難なんだ。しかもほとんどのキャラはプレイヤーから指示を出す事ができない。これはコンピュータの中にいろんな数値だけ入力して後は観察するだけというコンピュータを使った「シミュレーション」に近い。つまり、対戦ゲームってのはつきつめるとシミュレーションゲームになるんだ。

 前にも言った通り、ゲームには親と子が戦うゲームと、子同士が戦うゲームがある。今回のミニゲームはどちらも子同士が戦うものだ。これらのゲームは運の要素が強く、失敗が失敗として機能していない。つまり、あの時こうしていればよかったと自分に責任を感じるのではなく、「運が悪かったのだ」、「相手が悪かった」、「タイミングがよくなかった」と周りの状きょうのせいにしてしまえる。それがシミュレーションゲームの世界なんだ。つまり、スペースインベンダー以降の再挑戦度のあるアドベンチャーゲームではないわけだ。これはつらいことを目の前にして乗りこえることを目的としてきたこれまでのKEYとはちがう作風だよな。

 でも、従来のアドベンチャー的な部分がなくなってしまったわけじゃない。このゲームの中で明らかに「親」が出した課題に「子」が挑戦していく部分がある。それが新入りのネコ「レノン」が持ってくる「世界の秘密を解き明かす」ための課題(鈴ルート)とヒロインの個別ルートであり、この部分に再挑戦度が存在する。つまり、ミニゲームとちがって物語性の強い部分に「成長」の要素があるわけなんだ。

 で、やっぱり物語でユーザーをみりょうしてきたメーカーだけに、物語展開も面白いんだ。何より面白いのは「セカイ系」の解しゃくを「現実」世界にまで広げた事だろう。前作CLANNADでえがかれた二人っきりの「セカイ」ってのはだれかが作ったもうそうみたいな世界なんだ。だからそれさえ捨てればハッピーになれるって話だったんだ。リトルバスターズ!はこの価値観をひっくりかえして現実世界の方が「セカイ」になってしまう危険性がある事を示したんだ。人とふれ合おうとしても人ってのは他人と時間もなやみも共有できない。つまり「他人」である以上、人は孤独(こどく)なんだ。だからそんな世界でコミュニケーションを取れずいたら、もうそうを捨てたとしても現実で二人っきりになってしまう。「にげてばかりいたら、現実の方こそセカイ系になってしまう」という事なんだ。

 だからこそ「想像の世界」も大切なんだ。「ただのギャグ」「ただの泣ける話」ではなく、現実の過酷に立ち向かうためにそれらは用意されていたんだ。先生たちが生きるこの「現実」では失敗は許されない。いやまぁ、人によっては許してくれるかもしれないけどな。小さな事がものすごい大事になってしまったり、責任を取らざるをえなくなったり、一生白い目で見られなくてはいけなくなったりとかな。先生もいろいろ失敗してきちまったなぁ……と、気分がどんよりするんで、話をもどそう。

 ゲームは空想の世界へ行く。でも空想の世界だからこそ「失敗がゆるされる」これがゲームの持つ長所なんだ。そしてそういう世界だからこそ、ふだんの自分が取れない行動がとれる、こういう行動をしたらこういう結果になってしまうという事もわかる。現実では学べない事も空想の世界で学ぶ事だってできる。これは何もめずらしい事じゃない。他人の体験を通して学ぶ事っての人類がふつうにやっていることだ。偉人伝(いじんでん)を読んでこういう風になりたいと思ったり、聖書を読んでこういう事をしてはならないと思ったり、昔話を見ていじわるばあさんみたいにはなりたくないなぁと思ったり、それは人が生きる上で「必要な事」なんだ。何度でも失敗がゆるされる世界で成長する。そして空想の世界で強くなった自分で、現実に立ち向かう。そういう生き方もありなんじゃないか?という優しさと力強さの両方をかねたメッセージがこの作品からは伝わってくるんだ。

 よくゲームの中でお金をかせいだって現実には持ちこせないから時間のムダだって言われる。でも、ゲームの中でお金じゃない――何か生きる上で必要なものを拾ってくる事が出来れば空想の時間もムダじゃない。そう考える事もできるよな?

 物語の最後に主人公は意外な行動を取って、思わぬ結末になるんだけど、ある意味これこそが、放置されつづけてきたエヴァンゲリオンに対する一番まともなアンサーだったんじゃないだろうか?と先生は思うんだよな。こういうすごい事を世間から白い目で見られがちな美少女ゲームメーカーがやってのけたという事にゲーム内容とは別のところで感動してしまうな。おーし!今日はここまで!解散だ!