35時間目「だけど僕らはまだ何もしていない」

 みんなは「主観視点」って言葉は知っているか?映像作品だと「心霊(しんれい)スポットに行ってみた」みたいなホラー系の作品や、グラビアアイドルのおねえちゃん達がセクシーなポーズをとるアイドル系DVDなんかで多いな。いわゆるビデオの表現だ。だれかさつえい者が一人いてその人が自分の興味があるものにピントを合わせてとっている映像だ。運動会なんかでお父さんお母さんなんかがみんなの走っている姿をさつえいしているだろ?あれに近い。

 ん?映像ってみんなそういうもんだろうって?いやいや、テレビを見てごらん。例えばテレビドラマなんかでA子とB子という二人の女性が会話していたるとする。A子がしゃべっているとき、カメラはB子の背中を映してそのおくにA子が見える。逆にB子がしゃべる時はA子の後頭部が映ってB子のしゃべっている様子が見える。これはA子でもB子でもない第三者の視点だよな。通行人の視点かもしれないし、神様やようせいさんの視点かもしれない。こういう視点を「三人称(さんにんしょう)視点」というんだ。

 テレビや映画なんかで流れる映像というのはそのほとんどが三人称視点になっていると言っても過言じゃない。「北の国から」で主人公の純くんがどんなに「〜なわけで」とナレーションを入れても、映像の表現としては三人称の客観的な映像になっているんだ。ドラマに限らずバラエティ番組なんかもそうだな。スタジオには2〜3台のカメラがあって、タレントの顔を追いかけている。この時点では主観的な映像が3つあるだけなんだけど、その中からリアクションが大きかった人の映像を後から編集で交ごに映したり、ワイプという画面の中にもうひとつの視点を入れたりして「複数の視点」というものを映し続けているんだ。

 一人称(いちにんしょう)の視点って映像的には単調でつまらない作品になりがちなんだ。一つの方向、角度からしか物事をはあくできないし、急いで目線を切りかえようとすると手ぶれした映像が流れて見ている人がよっぱらってしまう。それに人物がこちらに向かって目線を合わせたりしゃべってくると、照れや威圧感(いあつかん)を感じる人だっている。そんなこんなでお茶の間に流れる映像からは一人称とか主観と呼ばれる視点は減っていったんだ。

 ゲームの世界ではこの主観視点がまだ力を持っているんだ。海外のゲームなんてほとんどそうだよな。FPSファーストパーソン・シューティングゲーム)という直訳すれば一人称のシューティングゲームは人気ジャンルだ。日本のゲームでもとりわけギャルゲーには主観視点が多い。きっとアイドルのDVDなんかと同じで、ヒロインをみりょく的にえがくためにこの視点が有効だということになったんだろう。「ひぐらしのなく頃(ころ)に」もそんなギャルゲーの流れをついだゲームだ。遊んだ人なら分かると思うけど、実はホラーゲームでもあるんだけどな。どちらにしろ「ひぐらし」は映像も文章も一人称でえがかれる主観的な作品という事になる。

 ん?選択肢のないひぐらしはゲームじゃないだろうって?ほうほう、確かにノベルゲームはページの選択で結果が変わる「ゲームブック」という遊びから生まれたゲームだ。ふつうの小説には選択がない。だから、選択肢があるという事がノベルゲームがゲームであるという証明みたいになっているな。ちなみに、先生は「ひぐらし」はゲームだと思っている。ゲームじゃないと言っている人はおそらくゲームソフトの中身を見て言っているんだろうな。でも、ゲームっていうのは本当は画面の外を見るのも大事なんだ。

 ひぐらしはいわゆる一本道のストーリーで、だれがプレイしても同じ結末になる。それもものすごく納得できないような終わり方をする。一本道でバッドエンドしかないって最悪だ。でもホラー作品ってこういうもんだったりする。ホラー作品ってのは理くつじゃなく感覚の作品が多いんだ。科学的にはお化けもゾンビも存在しないのにそれを前提としたシナリオが組まれているわけなんだから、当然だな。だから、不快、気持ち悪い、きれいに終わらないというのがホラーではよくある手法なんだ。物語の終わりはマンガの打ち切りみたいなもやもやした結末ってのが多くて先生も苦手なジャンルなんだけどな。

 そして、ゲームのシナリオっていうのも未完成なものなんだ。プレイヤーが活やくしないと世界はまおうの手に落ちてしまう――だからなんとかしよう――と第三者が動き出して初めて完成する物語が基本なんだ。ひぐらしは「ホラー」という未完成でもやもやしたシナリオの上に、「ミステリー」という明確な「答え」が存在し、キレイに物語りが閉じられるジャンルをかぶせているんだ。つまり、ふつうに見ると「ホラー」、改めて客観的に見ると「ミステリー」という二重構造になっているんだ。

 ひぐらしの優れているところはホラー作品としてふつうに面白いという事。何気ない日常から始まりきちんと主人公や村の人達に「感情移入」させた上でホラーな展開を起こす点。現実にありえない事に真実味を持たせなければならないのだから登場人物の心理を理解できるものにさせたり、プレイヤーに理解させたりするために「感情移入」は欠かせないものなんだ。文章の間とか音楽とか、キャラクターでそれらをちゃんとクリアしている。

 けれど、この作品の面白いところはそういう「感情移入を否定しないと真実にたどり着けない」というところにあるんだ。主観的な作品では主人公が目にしたものについては事細かに語られる。けれどそれ以外はものすごくぼんやりとした表現になってしまう。たとえばさつえい者である「主人公自身がどういう状態か分からない」という事があげられるな。主人公がもしも「おかしい状態」であった場合、その主人公が語った事が正しいのかどうかというのはわからないものになる。つまり主人公に疑わしい部分が出てきて、「主人公を疑う」という見方ができるようになる。

 これは主人公に「感情移入」してしまっている人ほど苦手な行動だ。なにしろシナリオの方が主人公に共感しろ!君も同じ立場だろ?と感情移入させるようにゆう導しているわけだから、その後のホラーパートにすんなりつながる。ところがこの物語で「何が起こったか?」を考える際にはそれらがすべてノイズでありじゃまな障害物になっている、それらを取り除き「本当はこうだったんじゃないか?」と新たな解しゃくができるようにシナリオが組まれているんだ。この作品は感情移入をえがくのが上手いのにそれを否定するのが正解というものすごくちょうせん的な事をしているんだ。

 この「感情移入の否定」はプレイヤー同士の横のつながりと結びつく事によってまた新たな広がりを見せる事になるんだけど、それを語るのは次回にしよう。おーし!今日はここまで!解散!