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鈴木君の海、その中

2018-06-25

「ゲンロン8」読んでないけどまだまだ書く

前提:「ゲンロン8」読んでないけどまだ書く - 鈴木君の海、その中

 歴史にあって、年表にないもの。それは、「血脈(親子関係)」だ。血脈には大きく分けて、「リスペクト」と「対抗」がある。リスペクトとは「この文化は素晴らしい!我々が次世代へ残そう!」という家長的精神であり、対抗とは「お前らのやり方は間違っている!俺が新しい事を始める!」という改革・フロンティア精神である。どちらも元々の文化があったからこそ生まれた親子関係にある。

 例えば、手塚治虫というマンガ家がいる。彼をリスペクトするトキワ荘の面々は多くのフォロワーを生んだ。その一方で手塚の絵は古いと考える人達が「劇画」という新しい表現をして、手塚も負けじと「劇画に対抗するマンガ」を出した。そのため、昭和のマンガというのはそのほとんどが手塚治虫に対する「リスペクト」か「対抗」の関係にあり、手塚マンガと血縁関係にある。そして、その流れの中生まれた平成のマンガも「手塚マンガの子供の子供」みたいなものなのだから、マンガを語る事は手塚治虫を語る事になり、手塚治虫を語るという事はマンガを語る事になる。もちろん、世の中には手塚治虫の影響を受けず、リスペクトでも対抗でもない(親子関係にない)作品というのもあるのだから、「手塚治虫抜きのマンガ評論」というのにも意味がある。しかし、「歴史」が、「今現在」を知るために過去の「ルーツ」を探し、説明する事だとすると、「手塚治虫抜きのマンガ史」はありえない。

 アニメの場合はもっとわかりやすい。基本はマンガ原作なのだからマンガへのリスペクトで生まれる。オリジナルの場合も「ガンダムホワイトベース宇宙戦艦ヤマトに対抗して生まれた!」というように「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」というように、同じジャンルのヒット作をさかのぼれば血縁関係がハッキリわかるようになっている。これはテレビという「日本全国」「一家に一台」「お茶の間」に置いてあるようなメディアで放送されていたため、リスペクトも対抗も同じ島の中で行われている事に起因しているのだろう。*1

 さて、では「ゲーム」はどうだろうか?実はゲームの血脈を語るのは難しい。そもそもスペースインベーダーは喫茶店やゲームセンターに置かれていた。本屋とかテレビのような「誰もが行く場所」ではなく、「行きたい人は行くが、行かない人は行かない場所」に置かれた。孤島である。その一方で、パソコンゲームというものもあった。これも「持てる人は持っているが、持てない人は持たない」というような孤島であった。初期の時点で「ファミコンリビング)」「パソコン(個室)」「ゲーセン」の3つの全く異なる島国があった。これで黒人社会、白人社会みたくそれぞれの民族ごとに別の歴史を持っているならばアニメ・マンガのように語りやすい。ところが「スーパーマリオ」はアーケード島からの移民で、「ドラゴンクエスト」はPC島からの移民だった。これらの色んな血がミックスされているため、ルーツを辿るのはかなり難しい。*2日本のような大きい島国で言語も共通した民族ではなく、インドネシアみたいな複数の小さな島々に複数の言語を持った民族が入り乱れているようなそういう状況がゲーム文化なのである。前の記事で述べたように、確認できただけでもゼロ年代では10の島国が存在しており、「普通の人間」はそれら全ての歴史を知っているわけがないのである。

 例えば、「MOTHER2」および「MOTHER3」はファイナルファンタジーへの対抗文化として生まれた。しかし、これはゲーマーの共通認識じゃない。正史として書かれていないからだ。特にMOTHER3は「発売するハード」「当時の開発者インタビュー」「演出」に至るまで「アンチFF7」として作られている。ところがMOTHER3を単体で遊んだだけだと「衝撃的なシナリオ」「泣けるシナリオ」というだけでアンチFF7である事は分からないのである。しかも、実際にMOTHER3が発売されたのは2006年。FF7の発売からはだいぶ経過しており、年表で記載すると、間に「FFX発売!」「FFCCで任天堂と和解」みたいなノイズが入ってしまう。そのため、FF7と親子関係にあるという事実は分からない状態になってしまう。これは同じジャンルだからまだわかりやすい方で、例えば「自分は反射神経がないのでスーパーマリオの面白さをRPGで表現しようと思いました」というゲームがあった場合、そのゲームとスーパーマリオは親子関係だが、RPG年表にはスーパーマリオが記載されない事になってしまう。

 歴史のない年表は何をもたらすだろうか?年表というのは書こうと思ったらどこまでも細かく書ける。コンパクトにするためにはこの期間はこういう時代、この期間はこういう時代というわかりやすい「マーカー」をつけないと年表というのはできない。そのため「時代区分」が生まれる。そしてわかりやすさを重視した年表は時に歴史を失うのである。「人類は火を使い出した(なんで?)」「貨幣を発明した(なんのために?)」「蒸気機関が出来た」「インターネットが普及」……ゲームでいったら「任天堂一強時代の終焉」「3Dゲームの時代」「ソシャゲーの時代」みたいな技術・経営的な区分になる。

 では、なぜゲンロン8の年表は歴史を失ったのか。そもそも1991年から始まるというのが、ゲームの歴史としてみると異質である。一体なぜこの年なのか?

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東浩紀
『ゲンロン』はじめてのゲーム特集ということで、基本的な歴史を押さえようというのが今日の主旨です。
とはいえ、ゲームそのものの歴史となるとあまりに漠然かつ広大なので、今日はいまの日本のゲーム消費環境を作りあげた条件をあきらかにする目的議論をしたいと思います。というわけで、一九九一年から今年二〇一八年までの二八年間に時期を区切って、おもに日本のゲーム消費史を見ていきたいと思います。
事前の相談で九一年をスタートにしようということになったのですが、まずは井上さん、なぜこの年なのか語ってもらえますか。

 ここがスタート地点になる。で、ゴールは「いまの日本のゲーム消費環境」だ。東氏はゲーム史が捉えきれない事を把握した上で、テーマを絞っている。*3正直悪い始まりではない。歴史は「いま」を説明するためにあるのだから、「今こんな消費環境になっているのはなんでなの?」という理由で議論をするのは有意義だ。

 ちなみに私の考えるゲームの消費環境の「今」とは、「ガチャというアホみたいなシステムが流行」して、「steamという海外市場が賑わい、日本語パッチが有料別売りで提供される」「本編にわざと穴を作ってオタクが喜びそうなDLCでカバーする」だ。酷い書き方かもしれないが、「消費」をテーマにすると「今」はそう見える。こういうキツい内容はゲームクリエイターと直接顔を合わせる人達より、ある程度距離のある人達じゃないと中々議論できない話である。面白い。

 しかし、「消費」を語る上でなぜ1991年をスタートにしたのか?

井上明人
世界のゲーム市場がつながった年ではないかと思うからです。ゲームの歴史というのは国によってけっこうちがっていて、アメリカ日本の歴史ファミコン以前はかなり分断されていました。アメリカだとアタリ2600が最初に大ヒットした家庭用ゲーム機としてインパクトを持ちましたが、日本ではさほど遊ばれていません。ただ、アメリカ市場と日本市場は八五年のアメリカでのNES(欧米版のファミコン)発売以後は、かなり似たようなゲームを遊ぶようになりました。

(中略)

さやわか
九一年以前にも洋ゲーという言い方で海外ゲームを楽しむ向きはありました。もともとゲームは日本よりも海外のほうがマーケットも大きく、また初期のゲームファンApple II用などの海外製PCゲームを楽しんでいた。ただ八〇年代にはファミコンが登場して国内ゲーム市場が大きく発展し、ゲームが一気に輸出産業として認知されていく。九一年は、それがさらにグローバル化に向けて舵を切っていったタイミングです。
ストリートファイターII』自体が海外市場を意識して開発されたタイトルです。

 「市場」や「マーケット」という言葉がならび、「日本」と「海外」という言葉が付随する。つまり主眼が置かれているのが「市場」であり、「ゲームユーザー」とか「ゲームソフト」ではないというところがポイントである。ここらへんにズレの根本的な原因があると思う。

 例えば、「市場」という観点から「スーパーファミコン」を語らせてもらうと、任天堂が必要以上に力を持ち、「市場を独り占めしていた」「自社製なのでロムに焼くのに時間がかかる」「貴重なロムと時間をクソゲーなんかにやるか!と品質にケチをつける」「子供相手に1万円のソフト売る」というような超ヤクザブラック企業だった。一方の「プレイステーション」はCD−ROMだから工場生産可能だし、3000円くらいの安価な値段で売れる!という画期的なハードだ!という事になる。

 ところがこれが、「ゲームソフト」という観点になると評価は全く変わる。プレイステーションはロムの読み込みに時間がかかり、スーパーファミコンの時代にはなかったローディング画面という余計なものが登場する事になった。倫理チェックはするが、品質チェックはしなくなったため、奇をてらったものや、クソゲーも増える事になった。

 ゲーム業界において「売り上げ」というものは全く指標にならない。例えば玩具メーカーとして有名な某社は有名キャラクターの版権を持っているのだが、普通だったら売れないようなゲームに有名なキャラクターを使って売っていた。そのシリーズのファンは買ってくれるのだが、ゲームとしての出来が悪く満足度も低い。よって「キャラゲークソゲー」の図式がゲーマーの中ではインプットされている。またドラゴンクエスト7やファイナルファンタジー8は当時シリーズで一番売れた作品だが、これまたクソゲーの異名を持つ。*4

 これはゲームが先行投資型のビジネスをしているためで、要するに「内容に満足したからお金を払っているのではない」という事に注意が必要である。マンガやアニメの場合は、単行本なりDVDなりを「満足したり」「気になったり」してから買うわけで、人気作や満足度と売り上げがある程度比例するのである。だから市場を語る事がユーザーを語るという事でもあるのだ。

 ここまでネットのお試し部分のみで推測しているだけであるが、サブタイの「メディアミックスからパチンコへ」から察するにパチンコにハマってたヤンキー層がゲーマーになってガチャにハマっているみたいな結論が出たんじゃないだろうかと思う。ゼルダについては「本体持っていないのにソフトだけ売れた」事をつついて、AKB48みたいな信者ビジネスやっているみたいな感じじゃないかな。

 うん、で、なんか疲れたから休む。

*1:非常に単一民族的とも言える。

*2ドラクエにいたっては海外の地が混じっており、ほとんどが日本国内の文化で説明可なマンガ・アニメとの最大の違いである。

*3:ちなみに私はゲームが「消費するもの」という点については?なのだが、それは私がそう思っているだけで、他の人はそういう消費型コンテンツだと思ってゲームしているかもしれないので、今回は掘り下げない。

*4:みんな期待持ちすぎただけで平均的なゲームよか面白いです。