1.25〜31日記

1月25日(月)
約半年ぶりのチェさんの古典勉強会に出るため中野のウナ・カメラ・リーベラへ。いつものように座禅和讃をみなで唱和してから、白隠の『夜閑船話』について、今日は改めて大枠の話。

のっけからチェさんに「法に触れる」とはつまりどういうことだと思うかね?とにじり寄られ、押し黙る。白隠はね、それは「隻手音声(せきしゅおんじょう)」なんだと。音をきいて、パッとひらめくような体験、ただしどうも、聞こえないはずの音をきくことなのだいう。ここでいう「きく」とは、耳で「聞く」ことに限定されず、鼻や腕が「効く」「利く」ことだったり、あるいは匂いのことだったり、色や味であったりする。つまり共感覚ないし、複数の感覚をうまく統合してはじめてうっすらと感受される類のものであり、そうしたものへ研ぎ澄まされていく営みの先で法は触れ得る。あるいは、聞こえるものがサッと消えたときに、はじめて聴くことができるものであり、それは沈みこむような静けさの内へ、まるで雫になったように落ちていき、下へ下へと心が鎮まっていくプロセスとも連動していると。

ここからしばらく、チェさんならではの展開で日本の古語やギリシャ語、ドイツ語などの類語の紹介連鎖が飛び石のように続いたが、総合するに、法に触れるとは、深淵へと身を鎮めていった末に到来する境地なんだ、という話であったように思う。「下なるものに支えられているにも関わらず、生きてる内にどうにも浮ついてしまうのがこの世なんだ」という言い回しは特に気に入った。人は世に出ようと、上へ上へとますます浮ついていき、人に囲まれるかも知れないが、そういう人間がどれだけ真実に背いているか、と白隠は説く。
以下、『夜船閑話』から引用。

「養生は国を守るが如し」、「明君聖主は常に心を下に専らにし、暗君庸主は常に心を上にほしいままにす」、「人身もまた然り、道を究めてその極みに達した者(至人)は、常に心気を下に充たす」、「荘子が「真人は踵で息をするが、普通の者は喉(のど)で息をする」と言うのはこのことである」。

「(易で)五陰が上にあり一陽が下にある卦を地雷復という。これは冬至の候である。真人は踵で息をするおいうところを表したものである」「下に三陽、上に三陰のあるのが地天泰といって正月の候である。自然がこの候を得るならば万物は発生の気を含み、百花は春のめぐみをうける。至人が元気を下に充実するところの象である。人がこれを得るならば、気血の循環は充実し、気力勇壮となる。」「五陰が下に一陽が上に止まるのが山地剥で、九月の侯である。自然がこの気象を得るならば、林の木々は枯れ百花もしぼみ落ちる。これは、凡庸の者は喉で息をするというところを表しており、この象を得るならば、身体は衰え、歯も抜け落ちる」など。

出世して世に浮ぼう浮ぼうと人はするけれど、「満足」という言葉を表す漢字に象徴されるよう、心気が下へ満ちることがいかに大事であるかという今日のチェさんの話、個人的には、芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」という句や、アフリカのシャーマニズムの伝統においても感覚は五感ではなく「12感覚」とされていること、ホロスコープのMCとICのことなどを思い出し、結びつけながら聞いていた。それにしても易は息の極意にも通じるのか、と改めてハッとさせられた。

白隠禅師夜船閑話

白隠禅師夜船閑話

1月26日(火)
夜、奈加野で田中さんと石川さんと飲み。深夜ラクさんと合流。アジの骨を揚げたやつが美味しいぞと思ったら元気が湧いたが、いま自分の骨を揚げてもあんまり美味しくなさそうだなと考えていたら最後かなり酔っ払った。

1月27日(水)
夜、渋谷アルカノンさん主催のバカヴァッド・ギーターの勉強会へ。3回目。アートマンブラフマンの合一についての話。なかなか理解するのが難しいところだと思う。

個として在ることにこだわり過ぎてしまうと、人はどうしても誤ったエネルギーの使い方をするようになってしまうけれど、ちょうど波の一つ一つと海がつながっており、海から色々なエネルギーが突き上がって、それが風とぶつかりあって波ができていることに気がつけると、もっとスムーズになっていく。この波と海のたとえ話は確かに美しい比喩だし、どこか射手座2度のサビアンシンボル「白波に覆われた大海」のビジョンを連想させる。

「ダルマ(法)に触れる」とは、波が海とつながり、風を受けているように、「求められていることに気付き、受け止め、応えていくこと」という話もあり、月曜のチェさんの話とシームレスな繋がりに喜びが湧く。ちなみに古代インドのヴェーダ思想では、「下へとおのれを鎮める」とは「瞑想する」という実践へと直接結びついていく。

では瞑想とは一体何をしているんだろうか。昨年春のヴィパッサナーの瞑想合宿で一番よく言われたのは、「Observe objectlyただ観察しなさい」ということだった。今日の話でいえば、観察者としてのアートマンに即しなさいだし、グルジェフのいう「ダブル・アテンション」、すなわち、対象を見ている視線と、見ている自分を見ている視線の同時敢行をせよ、でもいい。そうしていると、波であると同時に海であるところの感覚=鎮まりが深まっていく。ちょうど電子や光が粒子であると同時に波動であり、観測前は波動として空間中に広がっているのに、観測すると波動がちぢれて粒子としての姿を表しては、それがやがて再び波動となって海へとかき消えていくのを繰り返すうち、賢治の言うような「わたくしといふ現象」としての「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」が浮かびあがるように。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

1月28日(木)
ここのところ、目が醒めたら最初に猫の気配を探すのがすっかり習慣になった。まず枕元の近くから、そして次第に室内に注意を広げていく。布団から出るのが億劫な冬は、猫のぬくもりが有り難い。布団を出て猫と顔をつきあわせ、それからその日のことを考える。何をするんだったっけ、今日は……。先週末に、朝日カルチャーセンターでのサビア占星術講座と、ラクシュミーさんコラボでの参加者と2016年を占う講座をやって以来、今週は毎日そんな感じだ。

今日は近くの林試の森公園を5キロほどランニングした後、本読みながら風呂に入って、猫の世話をして、喫茶店で作業。夜は急きょ鏡さんのアカデメイアの「魔術と占星術」に関する新講座を見学に行くことになった。田中さんも来るのだと聞いた。

そういえば講座にいく前、鑑定書の書き出しを考えていて、ふと自分の出生図に重ねた土星のトランジットの動きを再確認してみようと思った。今年6月にちょうどDSCを超える一度手前まできて土星は逆行。最終調整に入り、改めてDSCを超えるのは11月終わり。

ロバート・ハンドの言葉を借りれば、それは大学1年生の春に土星がASCを通過して以来14年間のプロセスのひとつの「到達点」であり、「これまでの結果として自分には何ができて何ができないのか、自分は何であって何ではないのか、そういったおのれの再定義を、自分なりの言葉でしていくことということであり、その出来に応じて周囲から再評価されていくことになるのかも知れない」。秋までにどう固めてくれようか。おのれ。

1月29日(金)
午後から神保町の事務所で鑑定。2時間弱くらい話をして、「ちゃんと占星術の鑑定してもらうの初めてだったんだけど、落語みたいだよね」という指摘をいただいた。息の芸術。まだ道は遠い。それで今年は意味から離れ、ただなんとなくいい声を出せるようになりたい、声の幅を広げたいなど考える。それから帰り際にデヴィッド・ボーイの死後を人々がどう生きるか?ということへの私的な霊感話を聞いて、土星海王星みたいな話だなと受け止める。この反応の仕方、ややワンパターン気味かも。

夜、バランガン時代の生徒さん達と新年会。壁に水槽があったり、いかにも陳腐な合コンが夜な夜な行われていそうな内装だったけど、料理は意外とおいしくて侮れない。面子が面子なため、とりあえず3回くらい息が苦しくなるほど笑った。今日が「息」がキーワードだったかな。ちとせ会館の7階。

1月30日(土)
朝から晩まで労働。途中、女子プロレスの里村芽衣子を皮切りに、豊田真奈美ライオネス飛鳥北斗晶ブル中野ダンプ松本ミミ萩原などの動画をYoutubeで探して見ていた。強い選手というのは、まるで一つ一つ道をふさいでいくように相手の技を受けきっていくし、瞬間的に展開を切り替えるのが上手だ。場を支配するとはどういうことなのか、プロレスを見ているとヒントをもらえるような気がする。

1月31日(日)
夕方、ドトールで作業。ここ1,2週間、ドトールの窓際の席が気に入って、何度か座っている。近くのコメダ珈琲は感覚が鈍るようで余計にボーっとしてしまうし、ジョナサンもダメ、ドトールのここがちょうどいい。この「ちょうどいい」という感覚は、おそらく「よりアウトプットが出そう」という感じであって、快適なソファーであるかとか、静かで座席の感覚が適度に広いとか、そういうことではないように思う。むしろ2つ隣りの席の会話がたまに聞こえるくらい雑然としていたり、椅子が固かったり、サンドイッチが美味しすぎない方が、本を読んだり作業したりするのには「ちょうどいい」。

夜、借りておいた『ロミオの青い空』の続きを見る。根が明るいっていうのは、なぜだか不思議に自分自身で満ち足りているということなんだ、という多分どこかで聞いたか言われた言葉がよみがえった。それが上品ってことでもあるし、太陽を生きるってことなのかなと考えてみて、腑に落ちた。逆にいえば、根が暗いっていうのは、誰かに認めてもらわないと、なにか意味のあることをしないと、満たされないということで、それが強引であればあるほど下品に映るのかも知れない。