月の童子

空気が秋に変わった。昨日の朝日カルチャーセンターの講座では日本における月神観念の変奏譚を取り上げたのだけれど、考えてみれば8月は月の話ばかりしていたような気がする。

月について語るのは、生命のあやうい均衡が保たれ破られる、父母未生以前の密閉空間へ、後ずさりして跳ぶ感覚に似ている。

何度か跳んでいるうちに、性と生、死と生まれ変わりの豊穣と残酷とを人間にもたらす元型的な“野生の女性”ないしグレートマザーとしての月神の姿とは別に、しんとした寂莫のなかで孤立と落ち着かなさを抱えて戸惑い、泣いて漂っているような“童子”としての月神の相が出てきたが(例えば沖縄本島に伝わるわらべうたで歌われる「アカナー」など)、長い時間の中で月が次第に地球から遠ざかりつつあることを考えれば、後からそれも当然だろうと思えてきた。

地球に放って置かれて在ることに対する遊星的失望と茫然。月から時がこぼれ落ちて、差し伸べた両手の間をすり抜けては地上に散らばっていく。童子はどこかでそれが空しい試みだと分かっていても、風に撒かれた月の痕跡をたどっていこうとする。その健気さと、かなしさと、真摯な探求、飢え。こういう月についても、もっと語っていきたいし、語りを通してもっとブッ跳んでいきたい。

そういえば、アメリカに渡ったばかりで二十歳そこそこだったディーン・ルディアに仏教を指南したとされる禅僧の名前が佐々木指月と言った。彼は興味深い交友録を残していて、デジタルアーカイブで読めるものに目を通していくと、二十世紀の大魔術師アレスター・クロウリーとの交友の描写が出てくる。クロウリーは『ムーンチャイルド』という小説作品を残しているが、まさに彼自身がムーンチャイルド、月の童子だったのかもしれない。

指先に月は見えるが、にも関わらず決して手は届かない。物理的にも地続きではない。いくらロケットを飛ばして、月面に国旗を立てても、それは童子が探し求めていた月では全然ない。重力に支配された人間中心主義のリアリズムとは隔絶したところに浮遊する観音様。それが月。ツキツキツキ。

月の記憶は断片的なり。


追記

「月の童子」という名前のサボテンがあるそうだ。
下記のブログがとても参考になった。

http://shabomaniac.blog13.fc2.com/blog-entry-1.html

草原に散らばっているが、ありそうな場所にはなく、近づいても出会えない。
まるで源氏物語に出てくる箒木そのもので、笑ってしまった。