D・W・グリフィス『散り行く花』

 先日、グリフィスの『散り行く花』(1919年)をDVDで見、いたく衝撃を受けた。


散り行く花 (トールケース) [DVD]

散り行く花 (トールケース) [DVD]



 ロンドンのスラム。吹き溜まり。
 父(ドナルド・クリスプ)と娘(リリアン・ギッシュ)。母は15年前に逃げた。ボクサーの父は娘に連日暴力=DVをふるう。父の生も華々しいというより、妻に去られ、マネージャーからは酒や女を禁止され、底辺層の生活なのだろう・・。他方に、近所で商店を営む中国人の青年(リチャード・バーセルメス)。彼は数年間、仏教の伝播のためイギリスを訪れたが、非力で夢に破れ、しょんぼり肩を丸め、アヘン等に逃避する日々。リリアン・ギッシュは買物の途中、中国人青年の店の人形を眺めることに慰謝を求める。青年は、その少女の顔を眺めることに慰謝を覚える。
 見ていると父の暴力より、ある意味で、暴力を受けるリリアン・ギッシュの表情と容姿の方がこわい。すさまじい。そう気付く。いや、見せ付けられる。
 父の暴力をさんざん受け続けた少女は、背中を老婆のように丸め、よろよろと歩く。表情はひび割れたように固い。不機嫌な父から「笑え」と命じられ、ひとさし指となか指で唇の両端をむりやり持ち上げ、偽りの笑顔を演じてみせる。魂まで偽らねば暴力のエスカレートを抑えられないからだ。映画が後半になるに連れ、父の暴力は苛烈化する。リリアン・ギッシュの人生には出口はない。物語の始めに、すでに、「結婚する」という道も「娼婦になる」という道も、スラムの中では「みんな同じ」と封じられる。これはグリフィス監督の意図的な配置だろう。誰もがこの「底辺」から抜け出られない。陰湿な暴力が連鎖する(事実、少女と青年を死においやるのは「密告」である)。


 ある日食事の皿をひっくり返してムチで激しく打たれた少女は、人形の中に慰めを求めたのか、青年の店によろよろ辿りつき、店の中で気を失う。青年は彼女を解放し、夢のようだ、と幸福を味わう。目覚めた少女も、「生まれて初めての他人の優しさ」にとまどうが、じょじょにそれを受け入れ、全身で味わう。青年は少女に単によりよう。彼は二度、少女に口づける寸前までいくが、思いとどまり、そっと衣服の裾に口づける。夢のような二晩が過ぎる。やがて少女が「中国人」の部屋に外泊したと知り、父親は、仲間を連れ、憤怒の形相で少女を連れ帰り(彼には野蛮な中国人差別の情念がある)、襲いかかり、怯えきった少女が物置に逃げ込むと、斧で扉を叩き壊し、狂気寸前まで追いつめ、ひきずり出した彼女をついに殴り殺す。
 リリアン・ギッシュは、息を引き取る寸前、ひとさし指となか指で唇の両端を持ち上げ、「つらいことの多かったこの世と別れへの笑みを浮かべた」・・。すさまじい、としか言葉がない。絶句する他ない。いや、そういってしまえば、月並すぎよう。こんな全否定の意志の前に、言葉がまだあるのか。強いられた偽りの笑みが偽りのままで少女の本心へと転じていく歪んだ笑みの前に、言葉がまだあるのか。なお生きろ、という資格が誰にあるか。別に彼女にとって、死ぬことは唯一の希望ではない。彼女は自殺をこれっぽっちも考えなかった。父の暴力を受け続け、出口の輝きもなく、ただただ耐え続けただけだ、肉の苦痛、生存のありのままの辛さに。最後まで彼女は泣き喚き、狂乱した。彼女は死の直前にも、中国人青年からもらった人形をなお抱いている。父親の致命打を受けつつ、それだけは手放さなかったのだろう。だが、死にゆく彼女の魂にはそれが何の救いにもなっていない。青年との美しく清冽な二晩の記憶も、人生で初の優しさの感触も、何の救いにもなっていない。青年との出逢いなど初めからなかったかのように、いつ父親に殴り殺されてもおかしくなかったが、それがたまたま今日だった、というように死んでいく。こんな全否定の意志の前に、言葉がまだあるのか。


 駆けつけた中国人青年は、少女のむざんな死を知り、父親を拳銃で射殺し、少女の遺体を自室に連れ帰ると、ベッドに彼女を横たえ、飾り、香をたき、刃物で自分の胸をつき、絶命する。


 彼らの運命は異様か。そうではない、とグリフィスは明確に告げる。リリアン・ギッシュの境涯も主婦のそれも娼婦のそれも、この街では「みな同じだ」、と物語の初めに語られた。そして幕の直前、警官たちが次の端的な事実を確認する、「今週の死傷者は4万人、先週より好転した」、と。


 グリフィスは告げるだけだ、君達もたんに目の前の現実を見回してみたまえ、彼女たちの悲劇は映画の中で脚色された悲劇ですらない、異様な悲劇ですらありえない、そのことに直ちに気付くはずだ、と。

佐藤友哉『フリッカー式』



フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)

 佐藤の第一作。
 まず文体の問題。その稚拙さ・クズさ・饒舌さが言われる。設定もギミックも、講談社ノベルスで「ミステリ」の形式を取るが、ミステリの文法を全く無視し、予知や超能力が頻出するがこれをSFと呼べばSFに失礼だ。文学/マンガ/ゲームの断片的イメージの寄せ集め。もちろん従来のリアリズム(純文学?)ではない。しかし「物語」の廃墟と呼びうる上等さもない。だが「わざと」ガラクタ=ジャンクを装ったにしては、妙に切迫感がありすぎる。この切迫感の質を問わねば、わざわざ何かを述べる意味もない。
 リアリズムでもジャンクでもなく、単に佐藤の生活的な《リアル》。その意味で、東浩紀の評は正しい(http://www.hirokiazuma.com/oldinfos/diary2002.html)。しかし、そこに「目新しさ」を見るのもおかしい。単なる生存の条件だ。それは特定の年代(八〇年生れ)、特定の地域(北海道郊外)に規定される。そこまでは誰も同じ。問題は、そんな年代や地域の規定性を打ち砕き、彼が固有の「時」を、固有の「場所」をかちとったか否かにある。


 『フリッカー式』が描くのは、「ぼく」がいかにダメで最低な奴か、だ。
 普通、「ダメ人間」の自分語りは、自分がいかにダメかを延々と饒舌に語り続けることで、逆説的に、最後にそれを「逆転」させる下品な下心を持つ。自分はこんなに自分のダメさを自覚し苦悩し続けている、それ故ほんとはダメじゃないんだ!(君ならわかってくれるよね?)と。「小説」という三人称形式の導入は時にこれをメタ的に強化する。三人称では、一人称の「私」の語りのメタレベルに、第三者の視点を導入できる。「私」の再帰的自意識では決定不能な自分の正当性を、第三者の語りに代行させ、自意識の空転を止め、かつ「私」の全能感を肯定させる。太宰治人間失格』はその典型。佐藤が小説の形式構造のレベルに鋭敏なこと、「取りあえず」とは言えミステリ構造に拘ったのは、たまたま応募先がメフィスト賞だった、という次元だけではない。
 しかし佐藤の小説は、その自慰的な「逆転」を、丸ごとさらなるダメさに陥没させる。というか、その逆転の刹那にこそ、さらに自分のダメさ・最低さ・ひどさがむき出しに露出する。そんな荒涼としたフリージング・ポイントを志向する独特の感覚がある。明日美や「突き刺しジャック」の視点が導入されるものの、ほぼ公彦の一人称小説と言っていい『フリッカー式』には、特にその構造がはっきり露呈している。


 例えばこの小説の軸には、公彦と佐奈の妄想的な「きみとぼく」構造(セカイ系)がある。公彦は佐奈の妹性に萌える。この構造はオタクどもの凡庸な想像力(だがそれは虚構の世界だけでなく現実の性愛関係の中で、明確な犯罪としてではなく隠微なプチDVとして他者を浸蝕し、何かをじわじわと隷属させていく)をなぞったに過ぎない。
 しかし、まさにそれゆえに、最後に、この「きみとぼく」構造そのものの欺瞞性(公彦の一方的な思い込み=妹愛の無様さ!)を徹底して、容赦なくあらわにする。ラブコメ的=『うる星やつら』のごとく、付かず離れずに男女がいちゃつき、互いの欲望を宙吊りにし続ける余裕などない。
 事実、この点でこそ公彦は、徹底してサイテーのクズ野郎だとわかる。誰もが吐き気を覚えずにはいられないだろう、こいつには。
 公彦は、オヤジ3人に強姦された妹を慰めることもせず、身勝手な処女幻想が壊されたと落胆して佐奈を殺し、しかも屍姦をくわえ、しかも殺人+屍姦の事実を記憶から抹消し、しかも全ての罪を(オヤジ3人ではなく)オヤジどもの娘に被せ、誘拐し監禁し、怒りにまかせて一人を撲殺する。
彼自身それを物語の最初から自覚しており、故に多重人格の別人格として兄・創士の人格(常識=超自我)を独立させ、物語のところどころで最初からネタバレ的に彼の罪を読者に明かしている!(妹とやっただろ、殺しただろ、と)。村上春樹海辺のカフカ』のカフカ少年と類似するが、公彦にはカフカ少年のように「タフに成長したい」という教養小説的な欲望や志もない。
 そしてこれら一連のアクション自体が、他人の陰謀に体よく操られた結果であり、つまり彼は「物語の主人公」ですらなく、他人の物語に登場するひと山いくらの脇役・ザコキャラでしかなく、しかも(彼自身知るよしもなかったが)妹と無事に?心中することさえ出来ず、物語の最後、妹佐奈はちゃんと生きていることが判明する(公彦が殺した佐奈と生き残った佐奈、どちらがオリジナルでクローンかは分からないが)。言葉ではなくこの「事実」がひらくチグハグさ、痛み、「ぼく」の人生を徹底的に愚弄しあざわらう容赦なさの中に、佐藤が拘る原点の感覚がある。
 その感覚が、彼の独特の「構造」への感受性に、そして文体の稚拙さ・クズさ・饒舌さ(の切迫感)へと連結している。