古谷実の作品に漲るゆるせなさについて

 大澤信亮氏の『マンガ・イデオロギー』第5回「悪あるいは実存のトラジック・コミック」を読んだ。思うところがあった。古谷実の作品に漲るゆるせなさについて。の、短いノート。
大澤氏は古谷作品の笑いと悪の関係を問う。だがまず、ぼくは社会学的な悪と実存的(批評的)な悪を暫定的に区別しよう。前者は反秩序=露悪的な行為としての悪。後者は、吐き気を催す奇怪な悪、享楽の感情とない交ぜになった悪。ぼくは、社会学的な倫理は「殺すな」と「生きろ」の二つで十分だと思う。というか、殆どはこれで言い尽くされる(その貫徹が簡単という意味では断じてない)。でも、それで済まない生と現実の水準があるから、例えば「人間には幼女を強姦し殺すことも赦されている、しかし、それを知っている者は、それをしないだろう」というタイプのドストエフスキー的問いが要請される(それが不可欠か否か、議論の余地はあるが)。操作された露悪は端的につまらない。
例えば『ヒミズ』の主人公・住田は、母親から捨てられ貧困をなめ、そんな彼に金を無心に来た父親を殺害する。だがこの父殺しに悪の雰囲気はない。自然な行為に見える。少なくとも、反秩序という意味では悪だが、実存的な悪には見えない。大澤氏の論にはこの部分にあいまいさ、混同があると感じる。大澤氏は、住田の悪と拮抗しうる人物が、『ヒミズ』では、婦女暴行を繰り返す野宿者の塚本だったと書く。だが、ぼくは思う。古谷作品に漲る吐き気を催す不気味な悪の気配は、塚本の婦女暴行にすらなく、というかそれはよりメタレベルにある悪の一要素でしかなく、「男からセクハラされ犯され裏切られても、全てそれをなし崩しに赦す女性たちの精神性(を自明のものとしたこと)」、これにある。つまり、古谷的な悪は、作品の個々の登場人物の水準ではなく、作者(が無意識に社会に蔓延させるもの)の水準にある。キャラクターではなく、《世界観》自体が問われる。
 大澤氏の批評は、その核心を半ば射抜く。古谷の『行け!稲中卓球部』と木多康昭『幕張』の類似点を指摘した部分。

 まずは両作品に共通する「隠されたもの」を引き出そう。
 それは一言で言えば女性恐怖である。(略)
 男たちの多様な描き分けと比べて、女は「典型的な美人」と「デフォルメされたブス」の二タイプしかいない。そして重要なことは「ブス」はどこまでも侮蔑の対象であり、「美人」は胸を揉もうが服を脱がそうが平手打ちをして怒るだけで、心の底から許さないという態度も、心の底から傷ついたという態度も決して見せないことだ。

 でもこの問いは突き詰められない。そしてより抽象度の高い「殺してもいい」という「倫理」の問題へ問いはシフトする。
 しかし、「殺してもいい」に至る前に、中途で見出された(特にセクシュアリティの領域で)男性のわがままの全てを(適度なツッコミを入れつつ)赦す女性像――つまり美人でスタイルがよく特に魅力的でもない男性を無償で好きになってくれ、好きにやらせてくれる女性像――、それを強いるダメ男たちの「欲望」の悪が実存的に問い詰められるべきだったのではないか。少なくとも、古谷実の作品において、悪の問題と性の非対称性の問題は切り離せない。このジェンダーの水準抜きに仮に「男性の悪」同士が拮抗し何かを真剣に交わしても、それはよりメタレベルにある悪の水準を見えなくさせてしまう。それはギャルゲーの主人公男性が、理由も無く無数の美少女から愛され、彼女たちと葛藤なく自由にセックスし、かつその一つ一つを純愛として正当化しうる、その「葛藤のなさ」の不気味さとも通じる。
 ぼくらは古谷作品からいくらでもこんな悪が蔓延し転移する光景を(より正確には、それが自然な流れとして当の女性キャラクターに受け入れられていく光景を)取り出せる。今手元に古谷のコミックがない(まとめて捨ててしまったのだ、『シガテラ』は買ってさえいない)。具体的な古谷論はいずれ書ければ書こう。