サウンドデモ、併走(続き)

 8・9月の二ヶ月、なぜか「神保町小説アカデミー」(http://www.kotolier.org/j-academy/)の講師(?)を週一回引き受ける運びになった(石井政之さんの推薦でした、石井さんとはろくに会話した記憶もないのですが――因みに雨宮さんはアカデミーの顧問だそうです)。多業=副業の一環。昨日(6日)がその第一回で、午前〜お昼多動の人のガイドヘルパーを終え、竹橋に向う。主催は「パートナー企業やNPO、作家、ライター、編集者、様々な専門家の方々のご協力を頂きながら、日本に新しいニート不登校、ひきこもり支援を生み出すべく、未来を担う若者たちの第一歩を見守り、ともに歩き続けていきたいと」という趣旨のNPO法人。代表の山本さんは訥々とエネルギッシュでユニークな人物だ。正直、自分自身に対し様々な疑念が殺到しますが、それも含め「やる」と決めました。逆にこちらが色々教えてもらう、というか(この言い方はずいぶん欺瞞的だ)、これも「併走」するつもりです。自分も宿題を同等にやるし。


 さて先日の記事「サウンドデモ、併走」のトラックバック先の記事を読んだ。
 杉田は

 一つだけ言えるのは、これは確かに、いわゆる「左翼的なアジ」っぽい内容の言葉は、デモのあり方(身体)そのものと、ずいぶんずれているな、マッチしていないな、という気はどうしてもした。別にいわゆる左翼批判をしたいとも思わないんだけど(これは今時誰でもいう)、実体とそれを表現=代表する言葉のあり方がくいちがっていたのは事実だと思う。

 と書いた。私は端的に、参加者の人々の声や身体の多層性を見ていなかった、特定の部分をフォーカスしこれを叩く悪癖をまた繰り返した、と痛感した。特に関係者で不快に思われた方にお詫びする。
 ただその上で、例えば野崎氏(id:x0000000000)の

 その「実体とそれを表現=代表する言葉のあり方がくいちがってい」ることは、何もデモのときだけ現れるものではない。それがたぶん(ウィトゲンシュタインも述べたように)「言語で表現=代表する」ってことの「限界」なんだと思う

 それを承知の上で書けば、右翼の街宣車も(昨日も映画館の近くでやってた)、主張の内容以前に、同じぐらいには「うるさくて、耳障り」だと思う(少なくとも、僕には)。そして僕なら、「どうして声を荒げないといけない」ぐらい、「左翼系の人々の声って、なんであんなにうるさくて、耳障りなんだろうか」と問うてみたい気がする

 という箇所は、行き過ぎた一般論=抽象化と紙一重に思えた。
 全ての対象・言説・声に、この「正義」の原則を無条件に適用はできない。それなら、運動の自己目的化/尊大な自己絶対化/野蛮で場当たり的な攻撃性/反省しない享楽主義/などが、正当化されてしまう。もちろん、そんな「野生の自由」(小泉義之)を肯定するスタンスもあるだろう。でも、私は断然拒否する。
 実際、言葉/現実のズレが必ずしもそのままで「よい」とはいえない。現実の「必要」を他者たちに正確に――それが論理的か怒号かは問わない――伝えようとしてやむなく生じてしまう《ずれ》、つまり現実の複雑さ(百鬼夜行的な)から強いられて「ズレ」の正当化からさえ刻々と零れ落ちていく《ずれ》のありようを繰り返し閃かせることこそが、きっと正義(そういう言葉を用いるとして)の必要条件なのだ、と思う。それは時に神的暴力さえはらむかもしれない。
 とはいえ、野崎氏は、そのあとに的確に

 実際に、神戸で毎年やってる「障害者春闘」(様子はこちらやこちら)ってのは、どちらかと言えば精神障害者が率先してシュプレヒコールなんかをしている。ただうるさいだけという位相では、僕には左翼も右翼も同じだと感じられるが、そのときやはり主張の内容と、どうして声を荒げないといけないのかという理由の2点を考えてみる必要がある、そんなことをつらつらと思った。

 と書いている。
 これも杉田の「自閉症精神疾患系の人が確実にいやがるだろう」という言葉が含む現実の矮小化を明るみに出すものだ(それは杉田が、id:sarutora氏の指摘するようなデモ行進参加者の拡声器による訴え=「声」の多声性や即興的打撃(ベンヤミン)の質を全く感受しえなかった事実、また選曲の意味に反応出来ていない耳の悪さ、などにも等しく言える)。以前から繰り返し書いてきたが、私は正直「右か左か」の議論には何の興味もない(これを「A/B」云々とどんな言葉で小利口に言い換えても、この種の議論は、そのままでは、全て大同小異だろう)。
 大切なのは野崎氏が繊細に付け加える「そのときやはり主張の内容と、どうして声を荒げないといけないのかという理由の2点を考えてみる必要がある」に尽きる。


 「耳障り」が悪いのではない(「耳障り」を否定的に書いた杉田の昨日のエントリーこそが鏡像的に「排除=隔離」の言葉かもしれない)。
 というか、「耳障り」とは、単なる音量や声量の問題ではない。ある「主張」が、自分の「無根拠な根拠」に酔狂しカラオケ感覚で暴れまくる(それは安楽な社会的地位を勝ち取ったとたん尊大になる連中の、居直ったシニシズムの裏表でしかない)ことでむしろ「いつもどおり」へと転じ、そのことで真に他者たちに気持悪さと吐気を催させる「耳障り」に堕ちる悪循環、つまりそれらがむしろ徹底的な「ノイズ」へと決して転化しえない事実が致命的なのだ。「公共空間とは、スタイルや伝統、慣習、作法の異なる人々が多様な文化、意見、習慣をぶつけ合うことで築き上られてきたことは当然だ」「ココ、日本では、デモは奇妙にはみ出した外部や他者であって、自分とはまるで無関係な異物ということで切って捨てられる」(http://d.hatena.ne.jp/ziprocker/20060806)のだとしても、依然として、今回のサウンドデモの実践がそんな「ノイズ」を開く「公共空間」足りえたのか、それを単に「デモ=公共的/通行人=非公共的」で済ませられるのか、の検証の余地は残る――もちろん企画者どころか参加者でもない私に、それをやる権利も資格もないのだが。私は自身が直接に関係する場所・集団・人間関係の中で、それを実証的に示しうる(或いは「何事も示せない無力さ」を「示す」だけか、こちらの確率が遥かに高い)だけだろう。


 私は自己批判のインフレ、倫理主義を述べたくもない(散々述べたけど私は極端に怠惰でいい加減な人間であり、そんな自分の身体の動かなさにも不可避かつ不可欠なエレメントが含まれる、と今は確信している)。
 楽しさや適当さは常に必要だ。大事だと思う。そんな日常感覚の厚みに根ざさない限り、このタイプの運動は繰り返し、規模や程度の大小は問わず、「総括」の重力場へと人々を引きずり込むから。しかしやはり、運動の自己満足化(享楽)、祭りとシニシズムの状況的使い分け、うまくいかない生活上の怨恨の解消、等などと、「主張の内容と、どうして声を荒げないといけないのかという理由」の二つを同時に突き付ける、つまり周囲の無関心やサイレントキルだけじゃなく、「耳障り」な声をも等しく切り裂く二重のノイズとして周囲に響きわたる「百鬼夜行」的な言葉と運動の強度は、微細な違いにおいて《ずれ》ていくはずだ、と私は信じる。その《ずれ》のみに私は賭ける。そして昨日の記事で「そのバラバラな感じがなんともいえない。悪くない感じだ」と記したように、デモする人々のバラバラさ、あるいはデモ参加者/警察・公安の人々/通行人の境界線上に泡沫のように生じた小さなノイズたちに、そんなものの可能性を感じ取った事実を、重ねて強調する。


 繰り返す。肝要なのは私が自分の属する場所でそんな《ずれ》を示せるか、に尽きる。たとえば、不気味なほどのろのろ進行してきた(貧して鈍するでは断じてないが、着実で地道なスローペースとも違う)ある協同作業の成果として、近日(?)お目にかけられるかもしれない。【付記、7日に文章全体を修正しました。】