井上達夫の死刑制度論



 世の中の殆どの事柄に、ぼくは自分なりの結論(納得)を出せていない。
 死刑制度の是非もその一つなのだけれど。
 以下の論考には考えさせられるものがあった。
 ◆井上達彦「「死刑」を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』2008年3月号)

 《民主国日本において、死刑制度存続に対する最終的責任は【法相でも刑務官にでもなく】主権者国民に、特に死刑存置を望む国民多数派にある。死刑の正当化根拠としては、犯罪抑止効果、凶悪犯罪という法の否定の否定による法秩序の自己回復、被害者・遺族の復讐感情と一般社会の応報要求の満足など種々のものが挙げられるが、問題は、これらのメリットが本当にあると言えるのかだけではない。仮にあるとしても、それらが「国家による殺人」や「司法的殺人」と呼ばれる死刑の重大な倫理的コスト(誤判により無実の者を処刑するリスクも含む)を補って余りあるほどの比重を本当にもつのか否かを十分熟慮する責任を、死刑制度を支持する一般国民が果たしているとは必ずしも言えない点に最大の問題がある。これは彼らが、死刑制度のメリットと主張されるものを求めながらも、その倫理的コストは死刑制度の適用・執行に携わる裁判官、法相、刑務官らに転嫁し、自らの手を汚さずにすむ「倫理的安全地帯」に身を置いているからである。
 かかる国民に死刑の倫理的コストを直視させるには、死刑執行の公開範囲をその残虐さをも示す方向で拡大するだけではなく、「自らの手を汚す」機会を与えることが必要である。》(102-103p)

 井上は「自らの手を汚す」機会を国民に平等に与えるために、

 「死刑制度に賛成する国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名する制度も構想可能」

 と述べる。
 またそのような制度に拠らずとも、

 「09年からの実施が既に決まった裁判員制度により、一般国民が素人裁判官として死刑判決に関与する機会をもつことになるから、国民は死刑制度の是非につき責任ある熟慮をすることを求められることになるだろう」。



 ちなみに
 ◆大澤真幸「「神的暴力」とは何か(上)」、東京新聞夕刊2008年2月28日
 は、ベンヤミンが『暴力批判論』で述べた「神的暴力」とは、「殺人の禁止」の規定が迫る矛盾と「孤独の中で闘う」者が担う暴力のことだ、と述べる。「たとえば、革命や戦争や、そのほかぎりぎりの状況の中で、他者を殺すべきかどうかという問いに直面することがある。この問いと孤独に闘う個人や共同体が神的暴力の担い手だ、と」。大澤は、井上の死刑論は、この意味での「神的暴力」を個人に迫るものだとして、評価する。
 それは、「責任倫理」(結果を出す責任、また現実の結果に対する責任)を「心情倫理」(意図の純粋性への自己満足的な固着)に解消することを許さないことだろう。また井上の制度的アイディアは、ハリスの「生存くじ」やコーエンの「眼球くじ」を思い起こさせるものでもある(ただし、井上が「手を汚すかもしれない」者を「死刑制度に賛成する国民」に限定していることには、違和感も残る)。


 この辺は、市野川容考『社会』の精緻な『暴力批判論』読解、すなわちベンヤミンのいう神的暴力とは、社会民主主義的な「議会を成立させた力」のことであり、ローザ・ルクセンブルクが垣間見せた「議会制を超える議会制」を開く力のことである、という論とも関係するのかもしれないが……。「議会制を超える議会制」というそれ自体が謎めいた言葉の「超える」というポイントには、国民一人ひとりを「孤独の中で闘」わせる力=暴力が差し込んでくるのか?


 

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

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社会 (思考のフロンティア)

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